握るのはおにぎりだけじゃない

箱月 透

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大事にしたい

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「ずっと考えてたんだ、学校で菅田に言われたこと」
 涼が苦笑交じりにぽつりとこぼした。淹れてきたばかりのコーヒーが入ったマグカップを手渡しながら康介は「何を?」と問い返す。ありがとう、とマグカップを受け取った彼は、湯気を立てるカップに視線を落としたまま言う。
「井上とかがこれ以上絡んでいくことはないだろうから離れる必要はないし相手が康介なら心配することもない、だからちゃんと話し合った方がいいって、菅田から言われた」
「えっ」
 意外なことを告げられて、思わずコーヒーを吹きだしそうになった。慌てて耐熱性のコップを握りなおす。涼が小さく笑った。
 あいつ、そんなこと言ってたのか。「なるようになるさ」なんて適当なことを言っておきながら、おそらく昼休みの後にわざわざ涼に話しかけに行ったのだろう。なんだか気恥ずかしさが込み上げてきて、康介はぽりぽりと頬をかいた。 普段はふにゃふにゃした男だけれど、案外世話焼きな性格であるらしい。
「俺も、分かってるつもりだったのにな」
 白い湯気の立つカップにふう、と息を吹きながら呟かれた言葉は、まるで独り言のようだった。淡い白色がふわりと膨らんで、揺れるように空気に溶けていく。少しためらってから、康介は「……何が?」と尋ねた。
「康介の、そういう強くてまっすぐなところ。ずっとすげぇなって思ってた」
 相変わらず手の中のカップだけを見つめながら、涼はほんのかすかに口端を綻ばせる。コーヒーの水面に落とされた視線は、はるか向こうにある水平線を眺めているみたいにひどく静かで、なぜか少し切なかった。
 少しでも触れれば消えてしまいそうなその静穏とした横顔を、そっと見つめる。
「高校で同じようなことがあったんだ。一年生のとき、俺が振った女子に片思いしてたやつが逆恨みして、そいつと同じ部活だった俺の友達に陰で嫌味言ったり嫌がらせしたりしてたらしくて。でも俺、全然気づかなくて」
 訥々と語り始めた彼の声は、その視線と同じくどこまでも凪いでいた。伏せた長いまつげが白い頬に淡い影を落としている。少しぬるくなったコップを両手で包みながら、康介は「うん」と小さく頷いた。
「違うやつから教えられてやっと友達がそんなことされてるのを知って…………それで、俺の方から距離を置いたんだ」
 伏せていた目がわずかに細められる。きゅ、と小さく引き結ばれた唇から細かな吐息が漏れた。彼の視線の先にあるコーヒーの黒い水面がひとつ波紋を広げているのが、瞳に映って。
 思わず、康介は涼の肩を抱き寄せていた。隣にいることを確かめるように、手を伸ばせば届く距離にいることを知らせるように、自分より細い彼の肩へ腕を回す。
「涼のせいじゃない。涼はなにも悪くないよ」
 胸の中に渦巻く激しさや悔しさを無理やり抑えこんで、なんでもないことのように静かに告げる。薄いシャツごしに伝わる、少し低めの彼の体温。その仄かなぬくもりを逃さないようにそっと手のひらで包みこむ。
 涼がハッと康介を見た。驚いたように揺れた瞳は、一度瞬いた後、ゆっくりと閉じられた。
「……康介は優しいな」
 ささやくように言いながら、涼はそっと肩を寄せてきた。そのまま少しだけ頭を傾けるから、彼の黒い髪がさらさらと耳をくすぐる。肩のあたりから感じる仄かな体温とたしかな重みに、ぎゅっと心臓を掴まれたような心地になる。
「優しいのは涼のほうだよ。その友達のために、──俺のために、距離を置こうとしたんだろ」
 呟いた声は思いのほか頼りなく響いた。肩のあたりに力が入り、不自然に強張ってしまう。
「……違う。俺、そんなに優しくも強くもない」
 肩の上の小さな頭がふるふると揺れる。窓の向こうの雨音すらもどこか遠く聞こえる部屋の中で、そのかすかな言葉だけがひどくはっきりとしていて鮮明だった。彼の白い指がきゅっとマグカップを握りしめるのが目に入る。桜色の爪は、先のほうだけ色を無くしていた。
「ただ、誰かが自分から離れてくのが怖かった。だから自分から離れたっていう、それだけだ」
 淡々とした、どこか透明さを感じさせる声。黒い髪に隠されて表情は見えないけれど、だからこそその声に滲んだ氷のような淋しさや諦めが鮮明に浮かび上がってしまう。冷たい手で心の表面を撫でられたように、胸に鋭くて切ない痛みがはしる。
 康介は、すぐ隣にある小さな頭を撫でた。体温を分け与えるみたいに、優しく、たしかめるように手のひらで包みこむ。
「俺はずっとそばにいるよ。ずっと、ここにいるから」
 ゆっくりと、言い聞かせるように告げる。涼の抱える冷たい孤独が、少しでも小さくなるように。彼が安心してそばでいられるように。心の底からそう願いながら、頭を寄せる彼にそっとささやく。
「それに、やっぱり涼は優しいんだよ。離れたのだってその友達が大事だったからだろ。それに涼、いろんな人に親切にできるし」
「……俺、親切にはできるけど優しくはない」
 ぎゅ、と脚を抱きながら、ぽつりとこぼすように涼が呟いた。
「俺、容姿のことでやっかまれたり目ぇつけられたりすること多くて。だから、処世術っていうか、付け入る隙とか落ち度を見せないようにするためなんだ、親切にするのは。誰かのためとかそんな綺麗な理由じゃない、結局自分のためなんだ」
 少し掠れた声には、自嘲の色が浮かんでいた。俯いて丸くなる背中。目線の近くにあったつむじが、ずるずると少しずつ下がっていく。すでに湯気も立たなくなったコーヒーが、彼の手の中でかすかに波打つ。
 開き直るみたいにわざと偽悪的な言葉を使ってみせるのに、わずかに首をすくめてうずくまる姿は叱られる子どもみたいに心許なくて、消え入りそうなほどに儚くて。思わず、肩先に触れる頭を包みこむように手のひらで覆う。
 そうやって、それを負い目に感じている時点で彼の真面目な性格や優しさを表しているようなものなのに。なのに、なんで自分で気づいていないんだろう。康介は小さく下唇を噛んだ。
 康介は右手に持っていたコップをローテーブルの上に置いた。そして、俯く涼へと向き直る。
「……入試のときに、さ」
 手のひらのしたにある涼の顔を覗きこみながら、康介は口を開いた。沈んだ色の瞳が揺れて、けれどたしかに康介を捉える。その瞳をまっすぐに見据えながら、康介は柔らかく微笑んでみせた。
「俺が階段で荷物ぶちまけたとき、涼が当たり前みたいな顔して普通に拾ってくれただろ。あれ、めちゃくちゃ嬉しかった。俺ガチガチに緊張してたし、周りからは笑われるしでちょっと正直心折れそうだったんだけど、……でも涼から参考書差し出されて、そういうの全部吹っ飛んだんだ」
 ゆっくりと告げると、涼はわずかに目を見開いた。考えもしなかった、とでも言うようにぱちぱちと瞬きを繰り返す切れ長の目がいじらしくて切なくて、きゅっと胸が詰まる。堪らず、手の中にある彼の頭をそっと抱き寄せた。
「入試直前だし、友達でも知り合いでもない他の受験生なんてただのライバルなのに、なんの迷いもなく拾うの手伝ってくれた。そういうのって、優しいってことだと思うけどな」
 閉め忘れたままの藍色のカーテンの向こうから、ざあざあとシャワーのように注ぐ雨音が響いている。その雨音にかき消されることのないよう、康介は腕の中の涼へと唇を寄せてはっきりと言葉を紡いだ。
 トレーナーの裾が、つい、と小さく引かれる。頭を抱く左腕に感じる、控えめに額をすり寄せてくるたしかな感触。手のひらの中の小さな頭が、そっとかすかに頷いた。
「やっぱりお人好しだなぁ、康介」
 呟かれた声はほんの少しだけ湿っていた。康介はぽんぽんと頭を撫でながら、ふふっと忍び笑いを漏らした。



「あっ、もうこんな時間なんだな。ごめん、変な時間に長居しちゃって」
 その後、しばらく二人で冷たくなったコーヒーを啜っていると、不意に涼が声を上げた。置き時計を見れば、いつの間にか八時を過ぎている。思いの外長い時間をともに過ごしていたようだ。康介は腰を上げながら「いや、全然大丈夫」と首を横に振った。
「むしろいっぱい話せてよかったよ。それでさ、もしよかったらうちで晩ご飯食べていかない?」
「え、でも、今日火曜日だよ」
 約束の水曜日じゃないことを気にしているのだろう、涼はわずかに眉を下げた。康介は小さく苦笑する。
「この前も、日曜日なのに一緒に晩ご飯食べただろ。ていうか、これからは曜日とか関係なく来たい時に来てほしいんだけど、……どうかな?」
「……いいのか?」
「よくなかったらこんな提案しないよ」
 笑ってみせると、ようやく涼もふっと頬を緩めて微笑んだ。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
「うん」
「手伝うよ、何作るの?」
「ありがとう。お腹空いたから簡単なものがいいよな。この前余らせちゃったトマト缶使いたいし、パスタにしようか」
「わかった」
 涼も立ち上がり、二人でキッチンへと向かう。
「な、チャットアプリで『寝てた』って言ってたの、あれ嘘だろ」
 冷蔵庫からトマト缶とベーコンを取り出しながら問いかける。鍋に水を注いでいた涼がピクリと肩を揺らして振り返った。
「……なんで?」
「だってさっき、ずっと考えてたって言ってたから」
 口の端を上げて笑ってみせると、涼は気まずそうにふいっと目をそらした。水でいっぱいになった鍋を火にかけながら、彼がぽつりと呟く。
「ん、寝てない。昨日買った本もまだ読めてない。ずっと康介のこと考えてた」
 拗ねたみたいな、ちょっとだけくぐもった声。気のせいか少しだけ突き出された唇が子どものようで可愛くて、胸の奥がきゅんと疼いてしまう。
「うん、ありがとう」
 どうしたって緩んでしまう頬を隠しもせずに言うと、ほのかに顔を赤くした涼にバシッと肩を叩かれてしまった。
 しゅんしゅんと沸き立つ鍋の音さえもが、なんだかとても幸せに響いている気がした。
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