握るのはおにぎりだけじゃない

箱月 透

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君のことを

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 脚が鉛のように重い。いや、脚だけじゃない、まるで自分にだけ地球の引力が増しているかのように身体全体がずっしりと重い。顎まで垂れてきた汗をのろのろと手の甲で拭う。
 空は灰色の雲がもこもこと立ち込めた薄曇りだというのに、暑さは全然ましになっていないどころかむしろ湿度の高さと相まって不快指数を上げている。薄墨色に淀んだ空を見上げながら、康介は首元にべっとりと張り付いたシャツの襟ぐりをぐいと引っ張った。
 ついさっき最後の試験も無事に終わったし、レポートも提出できた。晴れて夏休み突入だ。なのに、気分だけはまったく晴れないし重く沈んだまま。康介は深いため息をもらした。
 言い訳にしていた試験やレポートは終わってしまったのだから、もういい加減きちんと涼と向き合わないといけないだろう。明日は水曜日だ。先々週も先週も果たされなかったあの水曜日の約束を、今週も反故にするわけにはいかない。
 分かってはいるものの、そう思えば思うほど、足取りも気分も重く沈みこむ。その沈んだ気分が伝染するかのように、なんだか頭も重くなってきた気がする。ガンガンと頭の中で大きな鐘が鳴っているかのような鈍い痛みを感じて、思わず目をすがめる。
 今日の晩ご飯はどうしようか。昼に嶋田から指摘された通り、最近はあまり食欲がないのと試験の準備やらレポートやらで忙しかったのとで、いつもより食事の量が減ってきているのは自覚している。自炊の頻度も落ちてきているし、作ったとしてもご飯と味噌汁とおかずが一品だけ、といった簡素なものばかりだ。
 こんな具合では、もし明日涼を家に招いたとしても、ろくなものを振る舞えないだろう。康介は自嘲を口元に浮かべた。
 脚が重い。身体も重い。鉛でも背負っているかのように重い体を引きずって、のろのろと家路をたどる。徒歩ニ十分の、いつもならそれほど遠くはない距離が、今はひどく果てしなく感じる。
 水気を含んだぬるい風がぬらりと腕を撫でる。薄い灰色に霞んだ町並みはどこか他人行儀なよそよそしさが漂っているようだ。道行く人々も、もうすぐくるであろう夕立の気配に怯えるように俯いたまま足早に通り過ぎていく。降りだす前に家までたどり着けるだろうか。薄暗い空へ康介はちらりと視線を投げた。淀んだ色の雲は重く垂れこめて空を覆っている。今すぐ降りだしてもおかしくなさそうだ。急いで帰ろうと歩みを速めようとしたけれど、鉛のように重い脚はなかなか思い通りに動かない。頭痛もひどさを増していて、目の奥で白い閃光が弾けるみたいな痛みが続いている。康介は眉間に手をやった。ぐりぐりと揉んでみたところで、鈍く響くような痛さは変わらなかった。
 途方もなく遠く感じられた道のりをのたくたと歩き、ようやく見慣れたアパートが見えてきた。ほ、とかすかに安堵の息がもれる。家に帰ったら、とりあえず早めに明日の約束のことを涼に連絡しておかなければ。
 そう考えて、はたと気づく。
 涼は今、あの水曜日の約束のことをどう思っているのだろう。二回も反故にされても何も言わず、詮索もせず、ただただ受け入れた彼は。
 康介はごくりと唾を飲んだ。背中がじっとりと湿っている。
 もう、どうでもいいと思われてしまっただろうか。一緒に晩ご飯を食べようという約束自体、なかったことにされてしまっただろうか。
 勝手な疑惑を抱いて避けて、約束を破って、向き合おうとしなかったくせに。それなのに、もし彼が自分から遠ざかっていってしまったらと思うと、ひどく怖い。
 ああ、そうか。俺は、ただ涼のそばにいられなくなるのが怖かったのか。
 ふいに足を止める。スニーカーの横にぽたりと汗の雫が落ちる。だらりと下げた両手を、康介はきつく握りしめた。
 だからこそ、彼と向き合うのが怖かった。もし涼と話し合いをして、今胸に抱いている疑惑がその通りだと告げられたら。幼い頃、ひとりぼっちでいたときに一緒にいてくれた、憧れの作家でもある松雲に近づくために仲良くなったのだ、と彼の口から肯定されたら。
 そんな真実を打ち明けたなら、涼はきっと自分から離れていってしまう。優しい人なのだ、利用していることを知られてなお平然としていられるような人ではない。きっと、後ろめたさを感じてもう会わないと言うに決まっている。離れていってしまうに決まっている。
 そんなのは、嫌だ。
 立っていられないほどに体が重い。がんがんと打ち付けるように頭が痛む。康介は祈るようにそっと目を閉じた。
 松雲に近づきたいからでも、なんでもいい。そばにいてくれる理由なんてなんでもいい。
 ただ、そばにいてくれたら。
 隣で笑っていてくれるなら、なんだって。
 ぐらり、と世界が揺れた。足元の地面がぼろぼろと崩れ落ちたような、妙な浮遊感が体を包む。立っていられなくなってがくりと膝が折れる。
「康介っ!!」
 ぐるぐると回るような世界の中で聞こえたのは、聞きなれた、聞きたいと思っていた声。名前を呼ぶ涼の声だった。



 目を開けると、白い天井が見えた。自室に似ているけれど、どこか違和感がある。どこだろう、ここは。そっと首を動かしてあたりを窺う。物の少ない簡素な部屋は、なんだか不思議と見覚えがあるような気がした。
 たしか、家に帰る途中で立っていられなくなって、アパートの前で倒れたはずだけれど。ずきずきと痛む頭でおぼろげな記憶をたどる。
 ああ、そうだ。だんだん遠くなる意識の淵で、声を聞いた。願望ゆえの幻聴かもしれないけれど、でもとても嬉しかった──
「よかった。目、覚めたんだな」
 パッと声のした方へ振り返る。その拍子にずきりと頭が痛んで、思わず顔をしかめる。
「急に動かないで。安静にしとかなきゃいけないから」
 ベッドのすぐそばに、涼が立っていた。
「涼」
 こぼれるみたいに名前を呼ぶ。彼は少し眉を寄せて、こくりと小さく頷いた。
「うん」
 そこに、すぐそこに涼がいる。
 そうだ、ここは涼の部屋だ。今は足元の方に丸められている薄い肌掛布団の水色も、そこだけ人となりが詰め込まれたような整然とした本棚も、この間風邪をひいた涼を看病するために訪れたときに見たものだ。
「康介、少しだけ体起こせる? 水分取らないといけないから」
 手に持っている麦茶の注がれたグラスを掲げて見せながら涼が言う。透明なグラスのきらめきが目に眩しい。どこか、これは都合のいい夢なんじゃないかと疑う自分がいる。
「涼」
「うん、いるよ、ここに」
 まるで頭の中を読んだみたいに涼がかすかに苦笑した。どこか切なさを湛えた、かすかに潤んだ黒い瞳が白い照明を反射させてきらきらと光る。
「買い物から帰ってきたところだったんだけど、アパートの前で急に康介がしゃがみ込むのが見えて。びっくりした、本当に」
 そう語る涼の声はかすかに掠れていた。
 重い体を起こそうとしてのそのそと身じろぎをしていると、涼の手がそっと肩を支えてくれた。その手に助けられながらなんとか起き上がり、壁に背中を預ける。手渡されたグラスはキンと冷えていて手にしているだけで気持ちいい。乾いた砂地に水が染みこんでいくように、ごくごくと勢いよく飲み干す。
「軽い脱水症状だろうって管理人さんが。あ、管理人さんが康介をここまで運ぶの手伝ってくれたから、後でお礼言いに行こう」
 空になったグラスを受け取った涼が「お茶、まだ飲むだろ」と康介を見つめた。こくりと頷くと、涼は台所の方へと歩いていった。とぽとぽとお茶が注がれる音を遠くに聞きながら、額に貼られた冷却シートに気づく。ひんやりとしたそれは、ほんの少し皺ができていた。
 戻ってきた涼は、今度はお茶のポットも一緒に持ってきていた。再び差し出されたグラスを受け取りながら、「ありがとう」と呟く。
「ごめん、いろいろと手間かけさせて」
「何言ってんだよ、手間だとかそんなこと思ってねえよ」
「……ありがとう」
「……うん」
 そう言った涼は、泣き出す寸前のような顔で小さく笑った。
 潤んできらきら輝く瞳とうっすらと赤く染まった目元が、胸の奥がぎゅっと詰まるほど愛おしいと思った。
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