握るのはおにぎりだけじゃない

箱月 透

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君のことを

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 二杯目の麦茶も空になって、「まだ飲む?」と訊く涼に「ううん、もう大丈夫」と首を振る。
「気分はどう? まだ眩暈とかする?」
「いや、全然。おかげさまでだいぶマシになったよ」
 わずかに眉を下げる涼に、康介はにこっと笑ってみせた。
 実際、倒れる前に感じたぐるぐると世界が回るような気分の悪さはもうなくなっていた。頭の中で巨大な鐘ががんがんと鳴り響いているようだった頭痛も、今はすっかり消えている。とは言え、まだ体全体に感じる重だるさは抜けきっていない。
「それならよかったけど、でもとりあえずまだ横になっといたほうがいいと思う。お茶、またほしくなったら遠慮なく言って」
「うん。ありがと」
 厚意に甘えて、もう一度ベッドに横たわる。
「暑くない? 冷房下げようか」
 ベッド脇にしゃがみ込みながら涼が訊く。
「いや、いいよ。涼しい」
「そう?」
 交わす言葉の声音も接する態度も、今までとほとんど変わらない。変わらないまま、すぐそこに涼がいる。
「涼」
 康介はシーツの上に投げ出していた手を動かし、涼へと伸ばす。はっとしたように一瞬目を見開いた彼は、それでもそっと伸ばした手を握ってくれた。あまり体温の高くない、ひんやりとした薄い手のひらが、康介の手のひらをやわらかく包む。そこにいる。触れ合うことができる。思わず握る指に力がこもった。
「康介、ごめん」
 ぽつり、と。澄んだ水が一滴落ちるみたいな静謐さで、涼が呟いた。のそりと首を動かして涼を見る。いつも涼しげな目元は何かに耐えるように細められていて、けれどまっすぐに康介を見ていた。
 窓の外では、ついに降りだした夕立の雨音が鈍く響いている。周囲の音はすべて打ち付けるような雫の音にかき消され、まるで世界に二人きりになったかのようだ。現実逃避をするみたいに、頭の隅で思う。
「……どうしたの、突然」
 胸の中に波紋のように広がった動揺と焦りを飲み込んでなんでもないふうに尋ねようとしたけれど、喉から絞り出した声は結局上擦っていた。掴んでいた手のひらを小さく引き寄せる。
「ていうか、俺の方こそ謝らないといけないだろ、二回も約束やぶって」
「でも、それは俺のせいだろ」
 呟いた涼の声も掠れていた。ごくり、と鳴った喉の音がやけに大きく聞こえた気がした。どちらの音だったのかは分からない。目の前の、表面に薄く緊張をはらませた瞳を見つめながら、きっと自分も今同じような目の色をしているだろうなと、康介は頭の隅でぼんやりと思った。
「もう知ってると思うけど、俺、ずっと康介に隠しごとしてた。だから避けられても当然だったと思う」
「そんな、俺は」
 なにか否定するような言葉を言おうとして、けれど何も言葉は出てこない。一度開いた口は、結局何も言えないままにまた閉じるしかなかった。
 開けっ放しのカーテンの向こうでは、淀んだ空に一瞬白い光が細くはしっていた。音はまだ聞こえない。バケツをひっくり返したような派手な雨音だけがざあざあと響いている。
「もうあの人から聞いてると思うけど、俺、小さい頃にあの人に……清水松雲に会ってる。すごく、お世話になった人なんだ」
 俯いたり目を逸らしたりせずに、ただ康介だけを見据えたままに涼はそう告げた。
 ためらいだとか後ろめたさだとか、そういった感情を影のようにちらりと滲ませながら、それでもまっすぐに康介を見つめる瞳はひどく真剣だった。開き直るのではなく、腹をくくったとでも言うべき強さと切実さを感じさせる瞳。
 その瞳を見つめ返すうちに、心に広がっていた波紋が少しずつ凪いでいく。今からどんなことを言われようと、きっともうそれほど心は揺らがないだろう。隠そうとしていたことをそれでも話そうとしてくれている今の彼と、そんな彼と離れたくないと強く願う自分がいれば、それだけでいいのだともう分かっている。
 握りしめたままの手にそっと力を込めながら、康介は「うん」と呟いた。
「初めてあの人に会った日、誕生日だったんだ。でも一ヶ月くらい前にずっと世話してくれてたおばあちゃんが死んだばかりで、本当に一人ぼっちになったときで、なんにも嬉しくなんかなかった。それまでは毎年おばあちゃんがケーキ買ってくれてたけど、当然それもないし、アパートに帰っても誰もいないし、誰もいない静かな部屋にいると余計にさみしくなりそうで、だからアパートのそばのちっさい公園で時間をつぶしてた。そしたら、あの人が話しかけてくれた。びっくりしたけど、でもすごく嬉しかった。一人ぼっちで誕生日を過ごすもんだと思ってたのに、お菓子のケーキまでくれて」
 ふ、と涼の口元が柔らかく綻ぶ。視線はベッドの上で繋いだふたつの手のうえに落ちているのに、見ているのはきっと遠い昔の光景なのだろう。あの日、コーヒーを飲みながら過去を語った松雲がそうであったように。涼が今見ているのと同じ風景を見ようとするみたいに、同じように康介も繋いだ手をじっと見つめる。
「それから半年くらい公園で話したりするようになって。俺、いつも一人だったから、すごく嬉しかった。いっぱいお世話になって…………なのに、お礼も言わずに、むしろ泥を塗るみたいなかたちで会えなくなって。迷惑かけて、嫌な気持ちにさせたままで……だから、言えなかった。あの人とのこと、康介に」
 語る声は意外なほどに淡々としていて、けれど伏せられた長いまつげはかすかに震えていた。
 涼の言う「泥を塗るみたいなかたちで」というのは彼の母親が松雲の家に怒鳴り込んでいったことを指しているのだろう。俯いた彼は苦いものを噛みしめるみたいに眉を寄せていて、肩も小さく震えている。母親を止められなかった遣る瀬なさや後悔がありありとその背中を覆っているようで、そこに彼と彼の母親の関係の片鱗が見えるようだと思った。
 「そんなことない、松雲は今でも涼のことを気にかけている」と今すぐにでも言いたい。けれど、今は涼の話を聞いて、溜めこんでいたものをぜんぶ吐き出させてあげたほうがいいだろう。康介は繋いでいる手を握りなおした。
「康介と知り合って、あの人との関係も知って、だから最初は言うつもりだったんだ。俺も昔あの人にお世話になったんだ、って。だけど、言えなかった。あの人はもう俺のことなんか忘れてるだろうし、憶えてたとしてもいい思い出なんかじゃないだろうなって思ったら、怖くて。だから、昔のことは隠したまま、康介を知ることであの人のそれからを知ろうとしたんだ──だけど」
 雨の音に溶け込みそうなほどに静かな声音は、けれど芯がはっきりとしていてどこか凛と澄んでいる。伝えようとしてくれている彼の意志の強さをそこに感じ取れるようだった。康介も静かに、そしてまっすぐに耳を傾ける。
 窓から射した白い光が一筋、涼の頬をそっと照らしだす。
 彼は一度唇を引き結んで、それからゆっくりと口を開いた。
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