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崩れる信頼
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あの日、怜司が一族の前で全てを懸ける覚悟を示してから翔太は何度も同じ夢を見た。
怜司の腕の中にいて、優しく名前を呼ばれる夢。その温もりに満たされて幸福に包まれるのに、目が覚めればそこにあるのは広すぎるベッドと、一人分の体温しか残っていないという冷たい現実だった。
怜司が一族の前で、正式に自分を番として認めると宣言した、その翌日だった。
使用人が、一通の封筒を差し出してきた。上質な和紙でできた封筒。中には、一枚の名刺と、流麗な文字で書かれた短いメッセージが添えられていた。
『お時間をいただけませんでしょうか。お話したいことが、ございます』
その差出人は、鷹城怜司の元婚約者だと名乗る女性からだった。
***
待ち合わせ場所に指定された高級ホテルのロビーは、高価な香水の香りがした。足元には高級絨毯が敷き詰められて、翔太には少し息苦しかった。
場違いな自分を周囲の人、全てが嘲笑っているかのような錯覚に陥る。
やがて、現れた女性は控えめな装いの中にも上質さと気品を漂わせていた。彼女は深く一礼した後、その涼やかな瞳で、まっすぐに翔太を見つめた。
「お会いしてくださって、ありがとうございます。朝倉翔太さん」
「……どうも」
「率直に申し上げます。
あなたには、彼の傍に立つ資格がないと、私は思います」
その声には、嫉妬や敵意といった湿った感情は一切含まれていなかった。
ただ、正論のような冷たさがあった。
「彼の背負うものは、あなたが想像しているよりも、ずっと重い。鷹城という企業の未来も、何百年と続いてきた一族の血筋も、その全てが彼の双肩にかかっているのです」
「……俺は、彼の、邪魔ですか」
絞り出すようにそう言うと、彼女は初めて、わずかに憐れむような笑みを浮かべた。
「彼は、どこまでも優しい人です。一度守ると決めたものは、たとえ我が身が滅びようとも守り抜こうとするでしょう。あなたのことも、きっとそうです。
でも、その優しさは時に彼自身を壊しかねない危うい刃でもあるのです。
……それでも、あなたは彼の隣に立ち、彼が失うかもしれない全てを、共に背負う覚悟がおありですか?」
翔太は、何も答えられなかった。ただ、膝の上で固く握りしめた拳が、小刻みに震えるだけだった。
***
それから数日、怜司とは意図的に顔を合わせることなく過ごした。
彼の優しさに触れるのが、怖かったからだ。
部屋の片隅で、この家に来た時と同じ、小さなリュックにわずかな私物を詰めながら、翔太は深く息を吐いた。
「……俺じゃ、やっぱり、だめだ。どれだけ想っていても、きっと足りない」
彼女の言葉は正しい。
俺は、怜司から与えられるばかりで、彼に何一つ返せていない。彼の隣にいる資格など、最初からなかったのだ。
翔太は、最後の覚悟を決め、怜司の部屋に向かい、そっとドアをノックした。
「怜司さん。話が、あるんだ」
静かに開いた扉の向こうで、怜司がデスクから立ち上がる。翔太は、手にしたリュックを背後に隠しながら、必死に笑顔を作った。
「……もう、終わりにしよう」
その一言に、怜司の眉が鋭く動く。だが、彼は決して動揺を表には出さない。
「……どういう意味だ?」
「あなたが、ここまでしてくれるなんて、思ってなかった。病院で助けてくれたことも、この家での生活も、本当に感謝してる。生まれて初めて、誰かに守られるっていうのがどういうことか、分かった気がする。本当に、ありがとう」
翔太は、必死に微笑もうとした。でも、それはどうしても痛々しく震えてしまって、うまく笑えなかった。
「でも……もう、十分だよ。これ以上、あなたの人生を、俺が壊したくない」
「壊す……?」
「あなたの元婚約者だった人にも会ったよ。あなたじゃ、彼を守れないって言われた」
怜司の表情が、初めて大きく揺れる。その瞳に、怒りの色が浮かんだ。
「そんなこと……」
「間違ってないよ。俺はただの劣等オメガで……。
ただの、都合のいい仮の番だったしね」
翔太はリュックの紐を握りしめた。
「あなたには、守らなくちゃいけないものがたくさんある。会社とか、家とか、一族の未来とか……たぶん、俺なんかじゃ釣り合わないくらい、大きくて、重いものが」
怜司の瞳が、何かを言いたげに必死に揺れていた。でも、翔太はその言葉を待たなかった。いや、聞いてしまえば、この決心が崩れてしまいそうだったから。
「だから、俺の方から終わりにする。
契約……中途半端にしてごめんね。でも、最後に、ひとつだけ、お願いがあるんだ」
翔太は、ぎゅっと唇を結んで、それから、祈るように、静かに口を開いた。
「どうか、俺のことは、ありがとう。で終わらせて。そうすれば……俺、あなたのこと、ずっと好きなままでいられるから」
そう言って、翔太は怜司に背を向けた。
何も言わない怜司。追いかけてこない足音。きっと、それが彼なりの、最後の優しさなのだと思った。
リビングを出て、玄関のドアノブに手をかける。その冷たい金属の感触が、二人の関係の終わりを告げているようだった。
怜司の腕の中にいて、優しく名前を呼ばれる夢。その温もりに満たされて幸福に包まれるのに、目が覚めればそこにあるのは広すぎるベッドと、一人分の体温しか残っていないという冷たい現実だった。
怜司が一族の前で、正式に自分を番として認めると宣言した、その翌日だった。
使用人が、一通の封筒を差し出してきた。上質な和紙でできた封筒。中には、一枚の名刺と、流麗な文字で書かれた短いメッセージが添えられていた。
『お時間をいただけませんでしょうか。お話したいことが、ございます』
その差出人は、鷹城怜司の元婚約者だと名乗る女性からだった。
***
待ち合わせ場所に指定された高級ホテルのロビーは、高価な香水の香りがした。足元には高級絨毯が敷き詰められて、翔太には少し息苦しかった。
場違いな自分を周囲の人、全てが嘲笑っているかのような錯覚に陥る。
やがて、現れた女性は控えめな装いの中にも上質さと気品を漂わせていた。彼女は深く一礼した後、その涼やかな瞳で、まっすぐに翔太を見つめた。
「お会いしてくださって、ありがとうございます。朝倉翔太さん」
「……どうも」
「率直に申し上げます。
あなたには、彼の傍に立つ資格がないと、私は思います」
その声には、嫉妬や敵意といった湿った感情は一切含まれていなかった。
ただ、正論のような冷たさがあった。
「彼の背負うものは、あなたが想像しているよりも、ずっと重い。鷹城という企業の未来も、何百年と続いてきた一族の血筋も、その全てが彼の双肩にかかっているのです」
「……俺は、彼の、邪魔ですか」
絞り出すようにそう言うと、彼女は初めて、わずかに憐れむような笑みを浮かべた。
「彼は、どこまでも優しい人です。一度守ると決めたものは、たとえ我が身が滅びようとも守り抜こうとするでしょう。あなたのことも、きっとそうです。
でも、その優しさは時に彼自身を壊しかねない危うい刃でもあるのです。
……それでも、あなたは彼の隣に立ち、彼が失うかもしれない全てを、共に背負う覚悟がおありですか?」
翔太は、何も答えられなかった。ただ、膝の上で固く握りしめた拳が、小刻みに震えるだけだった。
***
それから数日、怜司とは意図的に顔を合わせることなく過ごした。
彼の優しさに触れるのが、怖かったからだ。
部屋の片隅で、この家に来た時と同じ、小さなリュックにわずかな私物を詰めながら、翔太は深く息を吐いた。
「……俺じゃ、やっぱり、だめだ。どれだけ想っていても、きっと足りない」
彼女の言葉は正しい。
俺は、怜司から与えられるばかりで、彼に何一つ返せていない。彼の隣にいる資格など、最初からなかったのだ。
翔太は、最後の覚悟を決め、怜司の部屋に向かい、そっとドアをノックした。
「怜司さん。話が、あるんだ」
静かに開いた扉の向こうで、怜司がデスクから立ち上がる。翔太は、手にしたリュックを背後に隠しながら、必死に笑顔を作った。
「……もう、終わりにしよう」
その一言に、怜司の眉が鋭く動く。だが、彼は決して動揺を表には出さない。
「……どういう意味だ?」
「あなたが、ここまでしてくれるなんて、思ってなかった。病院で助けてくれたことも、この家での生活も、本当に感謝してる。生まれて初めて、誰かに守られるっていうのがどういうことか、分かった気がする。本当に、ありがとう」
翔太は、必死に微笑もうとした。でも、それはどうしても痛々しく震えてしまって、うまく笑えなかった。
「でも……もう、十分だよ。これ以上、あなたの人生を、俺が壊したくない」
「壊す……?」
「あなたの元婚約者だった人にも会ったよ。あなたじゃ、彼を守れないって言われた」
怜司の表情が、初めて大きく揺れる。その瞳に、怒りの色が浮かんだ。
「そんなこと……」
「間違ってないよ。俺はただの劣等オメガで……。
ただの、都合のいい仮の番だったしね」
翔太はリュックの紐を握りしめた。
「あなたには、守らなくちゃいけないものがたくさんある。会社とか、家とか、一族の未来とか……たぶん、俺なんかじゃ釣り合わないくらい、大きくて、重いものが」
怜司の瞳が、何かを言いたげに必死に揺れていた。でも、翔太はその言葉を待たなかった。いや、聞いてしまえば、この決心が崩れてしまいそうだったから。
「だから、俺の方から終わりにする。
契約……中途半端にしてごめんね。でも、最後に、ひとつだけ、お願いがあるんだ」
翔太は、ぎゅっと唇を結んで、それから、祈るように、静かに口を開いた。
「どうか、俺のことは、ありがとう。で終わらせて。そうすれば……俺、あなたのこと、ずっと好きなままでいられるから」
そう言って、翔太は怜司に背を向けた。
何も言わない怜司。追いかけてこない足音。きっと、それが彼なりの、最後の優しさなのだと思った。
リビングを出て、玄関のドアノブに手をかける。その冷たい金属の感触が、二人の関係の終わりを告げているようだった。
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