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第一章:政略の番
第五話:夜風の優しさ
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晩餐会での一件以来、城内のユリアンに対する扱いは、より陰湿なものに変わった。
あからさまな嘲笑こそ減ったものの、宰相グレンの指示により、ユリアンには「奉仕」という名の雑用が課されるようになったのだ。それは、彼に人質としての身分を自覚させ、その気高い誇りを少しずつ削り取ろうという、静かなる嫌がらせだった。
その日、ユリアンに与えられた仕事は、西塔へと続く長い廊下の床磨きだった。ほとんど使われていないその場所は、埃っぽく、薄暗い。彼は誰に文句を言うでもなく、ただ黙々と布を動かした。そんな彼のことを一人の男が見つめていた。
――宰相のグレンだった。
グレンは、膝をついて床を磨くユリアンの姿を、値踏みするように見下ろしている。その目に宿るのは、まだ信頼とは程遠い、しかし単なる軽蔑でもない、複雑な色だった。
泣き言も言わず、ただ黙々と命令をこなす姿。晩餐会で見せた気高い抵抗。このΩは、グレンの予測とは全く違う動きをする。「予想外の駒」に対する警戒心が、彼の胸中で強まっていた。
グレンが去った後も、ユリアンの仕事は続く。
ようやく全ての床を磨き終えた頃には窓の外は、すっかり暗くなっていた。
体は疲労で鉛のように重く、埃と汗でべたついている。自室に戻る気力もなく、ユリアンは近くにあった小さなバルコニーへと足を向けた。ひやりと冷たい夜風が、火照った思考を少しだけ冷ましてくれるような気がしたのだ。
手すりに身を預け、眼下に広がる城下町の疎らな明かりを見下ろす。
故郷とは全く違う、荒々しくも力強い活気に満ちた夜景。自分はこの国で、一体何ができるのだろう。
政略の駒、拒絶されたΩ、そして今は、床を磨く奉仕人。どれも確かな自分の姿でありながら、そのどれもが心の核にはしっくりこなかった。
「――こんな場所で、油を売っているのか」
不意に背後からかけられた声に、ユリアンの心臓が跳ね上がった。
ぞくりとするほど低く、しかし耳に馴染んでしまった声。振り返るまでもない、獣王ライオネルだった。
バルコニーの入口に彼は立っていた。
夜着の上に厚手のガウンを無造作に羽織った姿は、書庫で会った時と同じだ。
おそらく彼もまた、眠れぬ夜に気晴らしを求めてさまよっていたのだろう。
ユリアンは咄嗟に身を翻し、深く頭を下げた。
「陛下……。申し訳ありません、すぐに仕事に戻ります」
この静かな場所を乱してしまった。彼の不興を買う前に、早く消えなければ。そう思ってライオネルの脇をすり抜けようとした、その腕が不意に掴まれた。
「待て」
驚いて顔を上げると、琥珀の瞳が間近にあった。
月明かりに照らされたその瞳は昼間の冷徹さとは少し違う、静かな光をたたえている。ライオネルの視線が、汗と埃で汚れたユリアンの薄い衣に向けられた。
「そのような薄着で夜風に当たるなど、愚か者め」
吐き捨てるような言葉。
だが、ライオネルは掴んだ腕を離さない。それどころか、彼は自分が羽織っていたガウンを脱ぐと、それを無造作にユリアンの肩にかけた。
「……え?」
あまりに予想外の行動に、ユリアンの思考が停止する。肩にかかったガウンは、ずしりと重かった。そして、そこから立ちのぼる、圧倒的なαの香り。
森の木々のような、それでいてどこか獣を思わせる野性的な……ライオネル自身の香りが、ユリアンの全身を包み込む。
Ωの本能が、その強烈な香りに警鐘と、そして抗いがたい安らぎを同時に感じていた。
「風邪でも引いて、余計な手間をかけさせるな。ただでさえ目障りなのだからな」
ライオネルはそう言うと、まるで厄介払でもするかのように手を離し、ユリアンに背を向けた。
「……あ……ありがとうございます……」
ようやく絞り出したか細い礼の言葉が、彼の耳に届いたかは分からない。ライオネルは一度も振り返ることなく、夜の闇に消えていった。
残されたのは、王の温もりと香りが染み付いたガウンと、呆然と立ち尽くすユリアンだけだった。
自室に戻り、ベッドの上にそっとガウンを広げる。
これは一体、どういうことなのだろう?
番など認めぬと拒絶し、価値がないと断じた王。その一方で、書庫での出会いを見逃し、そして今、寒さを気遣うかのような素振りを見せる。
それは決して優しさではない。彼の言葉の端々には、常に苛立ちと侮蔑が滲んでいる。だが、完全な無関心でもない。彼の行動は矛盾しており、その真意が全く読めなかった。
単純な憎悪や拒絶よりも、この不可解な気まぐれの方が、よほど心をかき乱される。
ユリアンは、王の香りが残るガウンを、震える手でそっと引き寄せた。
冷たい拒絶から始まった、この獣王の城での日々。
その中で見つけた、初めての温もり。それが気まぐれだとしても、今のユリアンにとっては、暗闇に灯ったあまりにも眩しい光のように思えてならなかった。
(第一章 完)
あからさまな嘲笑こそ減ったものの、宰相グレンの指示により、ユリアンには「奉仕」という名の雑用が課されるようになったのだ。それは、彼に人質としての身分を自覚させ、その気高い誇りを少しずつ削り取ろうという、静かなる嫌がらせだった。
その日、ユリアンに与えられた仕事は、西塔へと続く長い廊下の床磨きだった。ほとんど使われていないその場所は、埃っぽく、薄暗い。彼は誰に文句を言うでもなく、ただ黙々と布を動かした。そんな彼のことを一人の男が見つめていた。
――宰相のグレンだった。
グレンは、膝をついて床を磨くユリアンの姿を、値踏みするように見下ろしている。その目に宿るのは、まだ信頼とは程遠い、しかし単なる軽蔑でもない、複雑な色だった。
泣き言も言わず、ただ黙々と命令をこなす姿。晩餐会で見せた気高い抵抗。このΩは、グレンの予測とは全く違う動きをする。「予想外の駒」に対する警戒心が、彼の胸中で強まっていた。
グレンが去った後も、ユリアンの仕事は続く。
ようやく全ての床を磨き終えた頃には窓の外は、すっかり暗くなっていた。
体は疲労で鉛のように重く、埃と汗でべたついている。自室に戻る気力もなく、ユリアンは近くにあった小さなバルコニーへと足を向けた。ひやりと冷たい夜風が、火照った思考を少しだけ冷ましてくれるような気がしたのだ。
手すりに身を預け、眼下に広がる城下町の疎らな明かりを見下ろす。
故郷とは全く違う、荒々しくも力強い活気に満ちた夜景。自分はこの国で、一体何ができるのだろう。
政略の駒、拒絶されたΩ、そして今は、床を磨く奉仕人。どれも確かな自分の姿でありながら、そのどれもが心の核にはしっくりこなかった。
「――こんな場所で、油を売っているのか」
不意に背後からかけられた声に、ユリアンの心臓が跳ね上がった。
ぞくりとするほど低く、しかし耳に馴染んでしまった声。振り返るまでもない、獣王ライオネルだった。
バルコニーの入口に彼は立っていた。
夜着の上に厚手のガウンを無造作に羽織った姿は、書庫で会った時と同じだ。
おそらく彼もまた、眠れぬ夜に気晴らしを求めてさまよっていたのだろう。
ユリアンは咄嗟に身を翻し、深く頭を下げた。
「陛下……。申し訳ありません、すぐに仕事に戻ります」
この静かな場所を乱してしまった。彼の不興を買う前に、早く消えなければ。そう思ってライオネルの脇をすり抜けようとした、その腕が不意に掴まれた。
「待て」
驚いて顔を上げると、琥珀の瞳が間近にあった。
月明かりに照らされたその瞳は昼間の冷徹さとは少し違う、静かな光をたたえている。ライオネルの視線が、汗と埃で汚れたユリアンの薄い衣に向けられた。
「そのような薄着で夜風に当たるなど、愚か者め」
吐き捨てるような言葉。
だが、ライオネルは掴んだ腕を離さない。それどころか、彼は自分が羽織っていたガウンを脱ぐと、それを無造作にユリアンの肩にかけた。
「……え?」
あまりに予想外の行動に、ユリアンの思考が停止する。肩にかかったガウンは、ずしりと重かった。そして、そこから立ちのぼる、圧倒的なαの香り。
森の木々のような、それでいてどこか獣を思わせる野性的な……ライオネル自身の香りが、ユリアンの全身を包み込む。
Ωの本能が、その強烈な香りに警鐘と、そして抗いがたい安らぎを同時に感じていた。
「風邪でも引いて、余計な手間をかけさせるな。ただでさえ目障りなのだからな」
ライオネルはそう言うと、まるで厄介払でもするかのように手を離し、ユリアンに背を向けた。
「……あ……ありがとうございます……」
ようやく絞り出したか細い礼の言葉が、彼の耳に届いたかは分からない。ライオネルは一度も振り返ることなく、夜の闇に消えていった。
残されたのは、王の温もりと香りが染み付いたガウンと、呆然と立ち尽くすユリアンだけだった。
自室に戻り、ベッドの上にそっとガウンを広げる。
これは一体、どういうことなのだろう?
番など認めぬと拒絶し、価値がないと断じた王。その一方で、書庫での出会いを見逃し、そして今、寒さを気遣うかのような素振りを見せる。
それは決して優しさではない。彼の言葉の端々には、常に苛立ちと侮蔑が滲んでいる。だが、完全な無関心でもない。彼の行動は矛盾しており、その真意が全く読めなかった。
単純な憎悪や拒絶よりも、この不可解な気まぐれの方が、よほど心をかき乱される。
ユリアンは、王の香りが残るガウンを、震える手でそっと引き寄せた。
冷たい拒絶から始まった、この獣王の城での日々。
その中で見つけた、初めての温もり。それが気まぐれだとしても、今のユリアンにとっては、暗闇に灯ったあまりにも眩しい光のように思えてならなかった。
(第一章 完)
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