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第二章:冷たい王とΩ
第六話:王の不在
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ライオネルからガウンをかけられたあの夜以来、ユリアンの心は静かな混乱の中にあった。王の気まぐれな行動。その真意を測りかねたまま、日々は過ぎていく。
ユリアンに課せられた「奉仕」の仕事は続いていた。
ある日は書庫の整理、またある日は誰も使わない客室の掃除。
それは肉体的には決して楽ではなかったが、閉ざされた一室で無為に過ごすことに比べれば、遥かに気が紛れた。
なにより、堂々と書庫へ入れるようになったことは、彼にとって望外の喜びだった。
しかし不思議なことに、あれ以来ライオネルと顔を合わせることはぱったりとなくなった。
深夜の書庫にも、バルコニーにも、彼の姿はない。
ユリアンが掃除をする廊下を、彼が通りかかることもなかった。まるで意図的に避けられているかのように……。
だが、その理由は、すぐに明らかになった。
ある朝、城全体が異様な緊張感と慌ただしさに包まれていた。
誰もが足早に行き交い、その顔には不安の色が浮かんでいる。ユリアンが掃除の手を止めて戸惑っていると、通りかかった侍女が忌々しげに舌打ちをして言った。
「のろのろしていないで。ライオネル陛下が、またお籠りになられたのよ」
「お籠り……?」
「あんたみたいなよそ者には関係ないことだけどね。獣王の血を継ぐお方は、時折、己の内なる獣を抑えるために、一人で部屋に閉じ籠られるの。数日間、誰とも会わず、食事も摂らずに、ただ独りで獣性と戦われる。その間、城の政務は全て滞る。……本当に、厄介なことだわ」
侍女はそれだけ言うと、さっさと立ち去ってしまった。ユリアンは、その場に立ち尽くす。
獣王の血。獣性との戦い。それが、あの圧倒的な力とカリスマを持つ王が、人知れず抱える苦悩なのだと、初めて知った。
それから三日間、ライオネルは玉座の間から一歩も出てこなかった。
城内の空気は日に日に重くなり、臣下たちの間には苛立ちと不安が渦巻いている。宰相のグレンが代理で政務を執ってはいるが、最終的な決裁は王にしかできない。重要な案件が山積みになり獣王国全体が停滞しているかのようだった。
その夜も、ユリアンは書庫の片隅で、薬草に関する古い書物を読んでいた。
ふと、故郷の伝承を思い出す。
故郷では優れたヒーラーであるΩは、そのフェロモンでαの精神を安定させ興奮を鎮める力を持つと言われていた。
それはただの言い伝えで、実際にそんな力を持つΩなど、ユリアンは見たことも聞いたこともなかったが。
(もし、僕にそんな力が少しでもあったなら……)
柄にもない考えが頭をよぎり、ユリアンは小さく首を振った。自分は、王から拒絶された存在だ。
彼が苦しんでいるからといって、自分にできることなど何もない。
その時だった。
遠くから、地の底から響くような、獣の咆哮ともとれる苦悶の叫び声が聞こえた。びくりとして顔を上げると、声は玉座の間の方向から響いてくる。
城の者たちは慣れているのか、あるいは聞こえないふりをしているのか、何の反応もない。だが、ユリアンの耳には、その声が助けを求める悲痛な叫びのように聞こえてならなく、気づいた時には、足が勝手に動き出していた。
駄目だ、行ってはいけない。王は一人で獣性と戦っている。誰も近づいてはならない聖域なのだ。
頭では分かっているのに、足が止まらない。
あの夜、かけられたガウンの温もりと圧倒的なαの香りが彼の本能を突き動かしていた。
玉座の間に続く、長い廊下。その最奥にある巨大な扉の前まで来て、ユリアンははっと我に返った。
扉の向こうから、荒い息遣いと、何かが軋む音が聞こえる。そして、むせ返るような濃密なαのフェロモンが扉の隙間から漏れ出ていた。それは純粋な獣の闘争本能の匂い。普通の人間やβはもちろん、並のΩであれば、その気に当てられただけで気を失ってしまうだろう。
ユリアンもまた、その圧倒的な気に足がすくむ。
怖い。今すぐ逃げ出したい。
しかし、その恐怖に混じって、別の感情が湧き上がってくるのを感じていた。
(苦しんでいる……)
あの冷徹な王が、たった一人で。
ユリアンは、意を決して、そっと扉に手をかけた。
「……陛下」
か細い声で呼びかける。
返事はない。ただ、獣の唸り声のようなものが聞こえるだけだ。
「ユリアンです。……何か、お飲み物を」
しどろもどろに、思いついた口実を述べる。扉は、内側から固く閉ざされていた。
ユリアンは、扉に額を寄せた。そして、ただ一心に、心の中で願う。
どうか、安らぎますように。
その苦しみが、少しでも和らぎますように――。
すると、不思議なことが起こった。
ユリアンの体から、ふわりと甘く、清らかな香りが立ち上ったのだ。それは、彼自身も意識したことのない、彼のΩとしてのフェロモンだった。その香りは、扉の隙間から、まるで生き物のように部屋の中へと流れ込んでいく。
ぴたり、と。部屋の中から聞こえていた音が、止んだ。
荒れ狂っていた獣の気配が、嘘のように静まっていくのが、扉越しにでも分かった。
長い、長い沈黙。
やがて、扉の向こうから、かろうじて聞き取れるほどの、かすれた声が聞こえた。
「……なぜ……お前が……」
それは、紛れもなくライオネルの声だった。
ユリアンに課せられた「奉仕」の仕事は続いていた。
ある日は書庫の整理、またある日は誰も使わない客室の掃除。
それは肉体的には決して楽ではなかったが、閉ざされた一室で無為に過ごすことに比べれば、遥かに気が紛れた。
なにより、堂々と書庫へ入れるようになったことは、彼にとって望外の喜びだった。
しかし不思議なことに、あれ以来ライオネルと顔を合わせることはぱったりとなくなった。
深夜の書庫にも、バルコニーにも、彼の姿はない。
ユリアンが掃除をする廊下を、彼が通りかかることもなかった。まるで意図的に避けられているかのように……。
だが、その理由は、すぐに明らかになった。
ある朝、城全体が異様な緊張感と慌ただしさに包まれていた。
誰もが足早に行き交い、その顔には不安の色が浮かんでいる。ユリアンが掃除の手を止めて戸惑っていると、通りかかった侍女が忌々しげに舌打ちをして言った。
「のろのろしていないで。ライオネル陛下が、またお籠りになられたのよ」
「お籠り……?」
「あんたみたいなよそ者には関係ないことだけどね。獣王の血を継ぐお方は、時折、己の内なる獣を抑えるために、一人で部屋に閉じ籠られるの。数日間、誰とも会わず、食事も摂らずに、ただ独りで獣性と戦われる。その間、城の政務は全て滞る。……本当に、厄介なことだわ」
侍女はそれだけ言うと、さっさと立ち去ってしまった。ユリアンは、その場に立ち尽くす。
獣王の血。獣性との戦い。それが、あの圧倒的な力とカリスマを持つ王が、人知れず抱える苦悩なのだと、初めて知った。
それから三日間、ライオネルは玉座の間から一歩も出てこなかった。
城内の空気は日に日に重くなり、臣下たちの間には苛立ちと不安が渦巻いている。宰相のグレンが代理で政務を執ってはいるが、最終的な決裁は王にしかできない。重要な案件が山積みになり獣王国全体が停滞しているかのようだった。
その夜も、ユリアンは書庫の片隅で、薬草に関する古い書物を読んでいた。
ふと、故郷の伝承を思い出す。
故郷では優れたヒーラーであるΩは、そのフェロモンでαの精神を安定させ興奮を鎮める力を持つと言われていた。
それはただの言い伝えで、実際にそんな力を持つΩなど、ユリアンは見たことも聞いたこともなかったが。
(もし、僕にそんな力が少しでもあったなら……)
柄にもない考えが頭をよぎり、ユリアンは小さく首を振った。自分は、王から拒絶された存在だ。
彼が苦しんでいるからといって、自分にできることなど何もない。
その時だった。
遠くから、地の底から響くような、獣の咆哮ともとれる苦悶の叫び声が聞こえた。びくりとして顔を上げると、声は玉座の間の方向から響いてくる。
城の者たちは慣れているのか、あるいは聞こえないふりをしているのか、何の反応もない。だが、ユリアンの耳には、その声が助けを求める悲痛な叫びのように聞こえてならなく、気づいた時には、足が勝手に動き出していた。
駄目だ、行ってはいけない。王は一人で獣性と戦っている。誰も近づいてはならない聖域なのだ。
頭では分かっているのに、足が止まらない。
あの夜、かけられたガウンの温もりと圧倒的なαの香りが彼の本能を突き動かしていた。
玉座の間に続く、長い廊下。その最奥にある巨大な扉の前まで来て、ユリアンははっと我に返った。
扉の向こうから、荒い息遣いと、何かが軋む音が聞こえる。そして、むせ返るような濃密なαのフェロモンが扉の隙間から漏れ出ていた。それは純粋な獣の闘争本能の匂い。普通の人間やβはもちろん、並のΩであれば、その気に当てられただけで気を失ってしまうだろう。
ユリアンもまた、その圧倒的な気に足がすくむ。
怖い。今すぐ逃げ出したい。
しかし、その恐怖に混じって、別の感情が湧き上がってくるのを感じていた。
(苦しんでいる……)
あの冷徹な王が、たった一人で。
ユリアンは、意を決して、そっと扉に手をかけた。
「……陛下」
か細い声で呼びかける。
返事はない。ただ、獣の唸り声のようなものが聞こえるだけだ。
「ユリアンです。……何か、お飲み物を」
しどろもどろに、思いついた口実を述べる。扉は、内側から固く閉ざされていた。
ユリアンは、扉に額を寄せた。そして、ただ一心に、心の中で願う。
どうか、安らぎますように。
その苦しみが、少しでも和らぎますように――。
すると、不思議なことが起こった。
ユリアンの体から、ふわりと甘く、清らかな香りが立ち上ったのだ。それは、彼自身も意識したことのない、彼のΩとしてのフェロモンだった。その香りは、扉の隙間から、まるで生き物のように部屋の中へと流れ込んでいく。
ぴたり、と。部屋の中から聞こえていた音が、止んだ。
荒れ狂っていた獣の気配が、嘘のように静まっていくのが、扉越しにでも分かった。
長い、長い沈黙。
やがて、扉の向こうから、かろうじて聞き取れるほどの、かすれた声が聞こえた。
「……なぜ……お前が……」
それは、紛れもなくライオネルの声だった。
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