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王城の朝は、いつになく騒々しく始まった。
「おい! どうなっているんだ! もう8時だぞ!?」
ジェラルド殿下の怒鳴り声が、寝室に響き渡る。
彼はベッドの上で、ボサボサの髪のまま時計を睨みつけていた。
普段なら、朝の6時には爽やかに目覚め、完璧に整えられた朝食を摂っている時間だ。
「なぜ誰も私を起こさない! 遅刻するだろうが!」
殿下が呼び鈴を乱暴に鳴らすと、慌てて侍従が入ってきた。
しかし、その顔にはいつものような恭しさはない。
どこか投げやりで、疲弊しきっている。
「申し訳ございません、殿下。お目覚めのモーニングコール担当だったメイドが、今朝からストライキに入りまして」
「はあ!? ストライキだと!?」
「はい。『ラミリア様がいないなら、誰が王子の機嫌取りをするのよ。やってられないわ』とのことで」
「な……っ!」
「代わりの者を呼ぼうとしましたが、皆、『お腹が痛い』『実家の犬が産気づいた』と辞退されまして。僭越ながら私が起こしに参りました」
侍従は淡々と説明する。
殿下は顔を真っ赤にして叫んだ。
「言い訳はいい! 着替えだ! 今日の公務用の服を出せ!」
「……殿下。衣装部屋のどこに何があるか、ご存知ですか?」
「知るか! お前たちが管理しているだろう!」
「いえ、殿下の衣装管理は全てラミリア様が行っておりました。色合わせ、TPOに合わせた選定、アイロン掛けの指示まで全てです。我々は彼女が出してくれた服を、ただ殿下に着せていただけですので」
「なんだと……?」
殿下は衣装部屋に飛び込んだ。
そこには、膨大な数の服が乱雑に詰め込まれていた。
どこに何があるのか、さっぱり分からない。
いつもなら、その日の天気や公務の内容に合わせて、完璧なコーディネートが一式ハンガーにかかっていたのに。
「くそっ! これじゃあ何を着ればいいか分からん! ええい、適当でいい!」
結局、殿下は季節外れの厚手のコートと、色の合わないズボンを引っ掴んで着るしかなかった。
鏡に映る自分は、どこかの道化師のようだ。
「……ラミリアのやつ、こんなことまでやっていたのか」
一瞬、彼女の顔が脳裏をよぎるが、殿下はすぐに頭を振った。
「いや、たまたまだ! あいつは無能だ! これくらい、慣れれば誰でもできる!」
***
朝食抜きで執務室に駆け込んだ殿下を待っていたのは、地獄だった。
「な、なんだこれは……!?」
部屋に入った瞬間、雪崩が起きた。
書類の雪崩だ。
机の上はもちろん、床、ソファ、窓際まで、白い紙の山が築かれている。
足の踏み場もない。
「おはようございます、殿下」
書類の山から、ひょっこりと文官が顔を出した。
目の下に隈を作り、死んだ魚のような目をしている。
「おい! 片付けろと言っただろう! なんだこのゴミの山は!」
「ゴミではありません。全て、本日中に決裁が必要な重要書類です」
「はあ!? 昨日まではこんなになかったぞ!」
「昨日までは、ラミリア様が毎朝6時に出勤し、不要な書類(単なる挨拶状や広告)を破棄し、重要度順に分類し、殿下がサインするだけの状態に整えてくださっていたからです」
文官は、山の一つを指差した。
「ちなみに、あちらの山が『緊急度S(国が傾くレベル)』、こちらが『緊急度A(予算に関わるレベル)』、足元のが『緊急度B(陳情書)』です。現在は全て混ざっておりますので、殿下ご自身で選別をお願いします」
「む、無理だ……! 読んでいるだけで日が暮れる!」
「でしょうね。ラミリア様の読解速度は、我々文官10人分に匹敵しましたから。彼女がいない今、我々の処理能力はパンク状態です」
殿下は呆然と立ち尽くした。
いつも、机の上に綺麗に並べられていた5枚ほどの書類。
あれは、氷山の一角に過ぎなかったのだ。
その下に埋もれていた数千枚の書類を、ラミリアが黙々と処理していたなど、想像もしなかった。
「で、殿下ぁ~! 大変ですぅ~!」
そこへ、甘ったるい声が響いた。
ミナだ。
彼女はフリフリのドレスを着て、可愛らしくトレイを持って入ってきた。
「ミナ! ああ、癒しはお前だけだ……」
殿下は救いを求めるように彼女を見た。
「公務が大変そうだから、私が手伝いに来ましたっ! 見てください、特製のハーブティーとクッキーです!」
「おお、気が利くな! さすが将来の妃だ!」
殿下は喜んでティーカップを受け取った。
喉がカラカラだったのだ。
一気に飲み干す。
「ぶっ……!!」
「殿下!?」
殿下は盛大に吹き出した。
「ま、不味い!! なんだこれ!? 泥水か!?」
「ひ、酷いですぅ! 一生懸命淹れたのに!」
「いや、苦いし渋いし、なんかジャリジャリするぞ!?」
茶葉がそのまま入っていたのだ。
お湯の温度もぬるく、ハーブの香りは飛んでしまっている。
ラミリアが淹れていた、あの黄金色で香り高い、疲労回復効果のある完璧なハーブティーとは雲泥の差だ。
「それに、クッキーも……硬っ!!」
岩のように硬いクッキーをかじり、殿下は歯を押さえた。
「ご、ごめんなさい……。でも、ラミリア様は簡単に作ってましたよ? 私にもできると思ったんですぅ」
ミナが泣きそうな顔をする。
殿下は怒るに怒れず、「い、いや、味は個性的だが、気持ちは嬉しいぞ」とフォローするしかなかった。
しかし、悲劇はそこで終わらなかった。
「きゃっ!」
ミナが書類の山に躓いたのだ。
手にしたポットが宙を舞う。
バシャッ!!
「あーーーーっ!!!」
文官の絶叫が響いた。
中身の入ったティーポットが直撃したのは、まさに『緊急度S』の書類の山だった。
「同盟国との条約書が!!」
「今年度の予算案の原本が!!」
「軍事機密図面がシミだらけに!!」
文官たちが悲鳴を上げて駆け寄る。
濡れた書類はインクが滲み、解読不能になっていく。
「あ、あれぇ? ごめんなさぁい。テヘッ☆」
ミナは可愛らしく舌を出して誤魔化した。
しかし、文官たちの目は笑っていなかった。
殺意の波動に目覚めている。
「……殿下。予備の写しはありません。これ、どう責任を取るおつもりで?」
文官長が、鬼のような形相で殿下に詰め寄る。
「し、知らん! 乾かせば読めるだろう! それよりミナに怪我はないか!?」
「私は平気ですぅ。でも、ドレスが濡れちゃった……」
「すぐ着替えておいで。新しいのを買ってやるから」
殿下が甘い顔を見せた瞬間、文官たちの心の扉がピシャリと閉ざされる音が聞こえた。
ああ、もうダメだこの国。
全員の心が一つになった瞬間だった。
コンコン。
そこへ、さらに追い打ちをかけるようにドアがノックされた。
入ってきたのは、顔面蒼白の外交官だ。
「し、失礼します! 殿下、大変です!」
「なんだ、これ以上何があると言うんだ!」
「隣国ガルドニア帝国の特使、ヴァイオレット様が到着されました! 『約束の時間だ』と、応接室でお待ちです!」
「はあ!? ガルドニア帝国!? そんな予定、聞いてないぞ!」
殿下は叫んだ。
ガルドニア帝国は、軍事力世界一の超大国だ。
粗相があれば戦争になりかねない。
「いえ、スケジュール表には記載されておりました!」
文官が、濡れていない方の書類の山から手帳を引っ張り出した。
「ほら、ここに……『10時:ガルドニア特使会談』と」
「そんな小さな字で書いて分かるか!」
「ラミリア様は、前日の夜に『明日の重要案件』をピックアップして、殿下の枕元にメモを置いてくださっていましたからね。ご自身で手帳を確認する習慣がない殿下が悪いのでは?」
「ぐぬぬ……!」
正論で殴られ、殿下は言葉に詰まる。
しかし、今は言い争っている場合ではない。
相手は待たせられない大物だ。
「す、すぐに支度をする! 正装を持ってこい!」
「ですから、正装がどこにあるか分からないと申し上げたでしょう!」
「くそっ! このまま行くしかない!」
殿下は季節外れのコートと、変な色のズボン、そしてコーヒーのシミがついたシャツという、王族にあるまじき姿で応接室へ走った。
ガチャリ。
応接室の扉を開けると、そこには氷のような美女が座っていた。
ガルドニア帝国の『鉄血の女宰相』、ヴァイオレット女公爵だ。
彼女は殿下の姿を一瞥すると、扇子で口元を隠し、冷ややかに言い放った。
「……おやおや。この国の王太子殿下は、随分と前衛的なファッションがお好きのようですわね。あるいは、我が国を侮辱しておられるのかしら?」
「ひっ……!」
強烈なプレッシャーに、殿下の足が震える。
いつもなら、隣にラミリアがいて、完璧な笑顔と話題で場を和ませてくれていた。
相手の好みの菓子を用意し、事前に情報を仕入れ、交渉を有利に進めるお膳立てをしてくれていた。
今、私の隣にいるのは、空気を読まずに「わあ、怖いおばさん」と呟くミナだけだ。
(馬鹿! 聞こえるぞ!)
「あ、いや、これはその……! 手違いで……!」
殿下はしどろもどろになりながら、必死に言い訳を並べ立てた。
しかし、話せば話すほどボロが出る。
資料がないので交渉内容も分からない。
相手の名前すらド忘れしてしまった。
10分後。
会談は決裂した。
「お話になりませんわ。出直してらっしゃい」
ヴァイオレット女公爵は激怒して帰ってしまった。
「国交断絶も視野に入れる」という捨て台詞を残して。
「…………」
執務室に戻った殿下は、椅子にへたり込んだ。
たった半日。
ラミリアがいなくなって、たった半日で、これだ。
「なぜだ……。なぜ何もかもうまくいかない……!」
殿下は頭を抱えた。
書類の山。
不味いお茶。
外交問題。
ミナの無邪気すぎる破壊活動。
今まで、これら全てがスムーズに回っていたのは、なぜだったのか。
「魔法のように自然に」片付いていた雑務の裏に、誰がいたのか。
愚かな殿下も、さすがに気づき始めていた。
いや、認めたくなかっただけだ。
「くそ……! ラミリアのやつ、どこへ行ったんだ!」
殿下は叫んだ。
愛しさからではない。
「早く戻ってきてこの書類を片付けろ」という、身勝手な怒りからだった。
「騎士団長を呼べ! 今すぐ公爵邸へ行って、ラミリアを連れ戻させるんだ! これは王命だ!」
しかし、その命令を聞く騎士団長自身が、今ごろ公爵邸でラミリアの手作りクッキーを食べていることなど、殿下は知る由もなかった。
「おい! どうなっているんだ! もう8時だぞ!?」
ジェラルド殿下の怒鳴り声が、寝室に響き渡る。
彼はベッドの上で、ボサボサの髪のまま時計を睨みつけていた。
普段なら、朝の6時には爽やかに目覚め、完璧に整えられた朝食を摂っている時間だ。
「なぜ誰も私を起こさない! 遅刻するだろうが!」
殿下が呼び鈴を乱暴に鳴らすと、慌てて侍従が入ってきた。
しかし、その顔にはいつものような恭しさはない。
どこか投げやりで、疲弊しきっている。
「申し訳ございません、殿下。お目覚めのモーニングコール担当だったメイドが、今朝からストライキに入りまして」
「はあ!? ストライキだと!?」
「はい。『ラミリア様がいないなら、誰が王子の機嫌取りをするのよ。やってられないわ』とのことで」
「な……っ!」
「代わりの者を呼ぼうとしましたが、皆、『お腹が痛い』『実家の犬が産気づいた』と辞退されまして。僭越ながら私が起こしに参りました」
侍従は淡々と説明する。
殿下は顔を真っ赤にして叫んだ。
「言い訳はいい! 着替えだ! 今日の公務用の服を出せ!」
「……殿下。衣装部屋のどこに何があるか、ご存知ですか?」
「知るか! お前たちが管理しているだろう!」
「いえ、殿下の衣装管理は全てラミリア様が行っておりました。色合わせ、TPOに合わせた選定、アイロン掛けの指示まで全てです。我々は彼女が出してくれた服を、ただ殿下に着せていただけですので」
「なんだと……?」
殿下は衣装部屋に飛び込んだ。
そこには、膨大な数の服が乱雑に詰め込まれていた。
どこに何があるのか、さっぱり分からない。
いつもなら、その日の天気や公務の内容に合わせて、完璧なコーディネートが一式ハンガーにかかっていたのに。
「くそっ! これじゃあ何を着ればいいか分からん! ええい、適当でいい!」
結局、殿下は季節外れの厚手のコートと、色の合わないズボンを引っ掴んで着るしかなかった。
鏡に映る自分は、どこかの道化師のようだ。
「……ラミリアのやつ、こんなことまでやっていたのか」
一瞬、彼女の顔が脳裏をよぎるが、殿下はすぐに頭を振った。
「いや、たまたまだ! あいつは無能だ! これくらい、慣れれば誰でもできる!」
***
朝食抜きで執務室に駆け込んだ殿下を待っていたのは、地獄だった。
「な、なんだこれは……!?」
部屋に入った瞬間、雪崩が起きた。
書類の雪崩だ。
机の上はもちろん、床、ソファ、窓際まで、白い紙の山が築かれている。
足の踏み場もない。
「おはようございます、殿下」
書類の山から、ひょっこりと文官が顔を出した。
目の下に隈を作り、死んだ魚のような目をしている。
「おい! 片付けろと言っただろう! なんだこのゴミの山は!」
「ゴミではありません。全て、本日中に決裁が必要な重要書類です」
「はあ!? 昨日まではこんなになかったぞ!」
「昨日までは、ラミリア様が毎朝6時に出勤し、不要な書類(単なる挨拶状や広告)を破棄し、重要度順に分類し、殿下がサインするだけの状態に整えてくださっていたからです」
文官は、山の一つを指差した。
「ちなみに、あちらの山が『緊急度S(国が傾くレベル)』、こちらが『緊急度A(予算に関わるレベル)』、足元のが『緊急度B(陳情書)』です。現在は全て混ざっておりますので、殿下ご自身で選別をお願いします」
「む、無理だ……! 読んでいるだけで日が暮れる!」
「でしょうね。ラミリア様の読解速度は、我々文官10人分に匹敵しましたから。彼女がいない今、我々の処理能力はパンク状態です」
殿下は呆然と立ち尽くした。
いつも、机の上に綺麗に並べられていた5枚ほどの書類。
あれは、氷山の一角に過ぎなかったのだ。
その下に埋もれていた数千枚の書類を、ラミリアが黙々と処理していたなど、想像もしなかった。
「で、殿下ぁ~! 大変ですぅ~!」
そこへ、甘ったるい声が響いた。
ミナだ。
彼女はフリフリのドレスを着て、可愛らしくトレイを持って入ってきた。
「ミナ! ああ、癒しはお前だけだ……」
殿下は救いを求めるように彼女を見た。
「公務が大変そうだから、私が手伝いに来ましたっ! 見てください、特製のハーブティーとクッキーです!」
「おお、気が利くな! さすが将来の妃だ!」
殿下は喜んでティーカップを受け取った。
喉がカラカラだったのだ。
一気に飲み干す。
「ぶっ……!!」
「殿下!?」
殿下は盛大に吹き出した。
「ま、不味い!! なんだこれ!? 泥水か!?」
「ひ、酷いですぅ! 一生懸命淹れたのに!」
「いや、苦いし渋いし、なんかジャリジャリするぞ!?」
茶葉がそのまま入っていたのだ。
お湯の温度もぬるく、ハーブの香りは飛んでしまっている。
ラミリアが淹れていた、あの黄金色で香り高い、疲労回復効果のある完璧なハーブティーとは雲泥の差だ。
「それに、クッキーも……硬っ!!」
岩のように硬いクッキーをかじり、殿下は歯を押さえた。
「ご、ごめんなさい……。でも、ラミリア様は簡単に作ってましたよ? 私にもできると思ったんですぅ」
ミナが泣きそうな顔をする。
殿下は怒るに怒れず、「い、いや、味は個性的だが、気持ちは嬉しいぞ」とフォローするしかなかった。
しかし、悲劇はそこで終わらなかった。
「きゃっ!」
ミナが書類の山に躓いたのだ。
手にしたポットが宙を舞う。
バシャッ!!
「あーーーーっ!!!」
文官の絶叫が響いた。
中身の入ったティーポットが直撃したのは、まさに『緊急度S』の書類の山だった。
「同盟国との条約書が!!」
「今年度の予算案の原本が!!」
「軍事機密図面がシミだらけに!!」
文官たちが悲鳴を上げて駆け寄る。
濡れた書類はインクが滲み、解読不能になっていく。
「あ、あれぇ? ごめんなさぁい。テヘッ☆」
ミナは可愛らしく舌を出して誤魔化した。
しかし、文官たちの目は笑っていなかった。
殺意の波動に目覚めている。
「……殿下。予備の写しはありません。これ、どう責任を取るおつもりで?」
文官長が、鬼のような形相で殿下に詰め寄る。
「し、知らん! 乾かせば読めるだろう! それよりミナに怪我はないか!?」
「私は平気ですぅ。でも、ドレスが濡れちゃった……」
「すぐ着替えておいで。新しいのを買ってやるから」
殿下が甘い顔を見せた瞬間、文官たちの心の扉がピシャリと閉ざされる音が聞こえた。
ああ、もうダメだこの国。
全員の心が一つになった瞬間だった。
コンコン。
そこへ、さらに追い打ちをかけるようにドアがノックされた。
入ってきたのは、顔面蒼白の外交官だ。
「し、失礼します! 殿下、大変です!」
「なんだ、これ以上何があると言うんだ!」
「隣国ガルドニア帝国の特使、ヴァイオレット様が到着されました! 『約束の時間だ』と、応接室でお待ちです!」
「はあ!? ガルドニア帝国!? そんな予定、聞いてないぞ!」
殿下は叫んだ。
ガルドニア帝国は、軍事力世界一の超大国だ。
粗相があれば戦争になりかねない。
「いえ、スケジュール表には記載されておりました!」
文官が、濡れていない方の書類の山から手帳を引っ張り出した。
「ほら、ここに……『10時:ガルドニア特使会談』と」
「そんな小さな字で書いて分かるか!」
「ラミリア様は、前日の夜に『明日の重要案件』をピックアップして、殿下の枕元にメモを置いてくださっていましたからね。ご自身で手帳を確認する習慣がない殿下が悪いのでは?」
「ぐぬぬ……!」
正論で殴られ、殿下は言葉に詰まる。
しかし、今は言い争っている場合ではない。
相手は待たせられない大物だ。
「す、すぐに支度をする! 正装を持ってこい!」
「ですから、正装がどこにあるか分からないと申し上げたでしょう!」
「くそっ! このまま行くしかない!」
殿下は季節外れのコートと、変な色のズボン、そしてコーヒーのシミがついたシャツという、王族にあるまじき姿で応接室へ走った。
ガチャリ。
応接室の扉を開けると、そこには氷のような美女が座っていた。
ガルドニア帝国の『鉄血の女宰相』、ヴァイオレット女公爵だ。
彼女は殿下の姿を一瞥すると、扇子で口元を隠し、冷ややかに言い放った。
「……おやおや。この国の王太子殿下は、随分と前衛的なファッションがお好きのようですわね。あるいは、我が国を侮辱しておられるのかしら?」
「ひっ……!」
強烈なプレッシャーに、殿下の足が震える。
いつもなら、隣にラミリアがいて、完璧な笑顔と話題で場を和ませてくれていた。
相手の好みの菓子を用意し、事前に情報を仕入れ、交渉を有利に進めるお膳立てをしてくれていた。
今、私の隣にいるのは、空気を読まずに「わあ、怖いおばさん」と呟くミナだけだ。
(馬鹿! 聞こえるぞ!)
「あ、いや、これはその……! 手違いで……!」
殿下はしどろもどろになりながら、必死に言い訳を並べ立てた。
しかし、話せば話すほどボロが出る。
資料がないので交渉内容も分からない。
相手の名前すらド忘れしてしまった。
10分後。
会談は決裂した。
「お話になりませんわ。出直してらっしゃい」
ヴァイオレット女公爵は激怒して帰ってしまった。
「国交断絶も視野に入れる」という捨て台詞を残して。
「…………」
執務室に戻った殿下は、椅子にへたり込んだ。
たった半日。
ラミリアがいなくなって、たった半日で、これだ。
「なぜだ……。なぜ何もかもうまくいかない……!」
殿下は頭を抱えた。
書類の山。
不味いお茶。
外交問題。
ミナの無邪気すぎる破壊活動。
今まで、これら全てがスムーズに回っていたのは、なぜだったのか。
「魔法のように自然に」片付いていた雑務の裏に、誰がいたのか。
愚かな殿下も、さすがに気づき始めていた。
いや、認めたくなかっただけだ。
「くそ……! ラミリアのやつ、どこへ行ったんだ!」
殿下は叫んだ。
愛しさからではない。
「早く戻ってきてこの書類を片付けろ」という、身勝手な怒りからだった。
「騎士団長を呼べ! 今すぐ公爵邸へ行って、ラミリアを連れ戻させるんだ! これは王命だ!」
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