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昼間の「赤ペン添削騒動」が嘘のように、公爵邸の夜は静寂に包まれていた。
私は自室のバルコニーに出て、夜風に当たっていた。
昼間はジェラルド殿下への怒り(というか事務的な憤り)でアドレナリンが出ていたが、こうして一人になると、ふと冷静になってしまう。
見上げれば、宝石箱をひっくり返したような満天の星空。
眼下には、月明かりに照らされた美しい庭園。
そして、最高級シルクのパジャマを着ている私。
「……夢みたい」
ポツリと漏らす。
一週間前まで、私は薄暗い王城の執務室で、深夜まで書類と格闘していた。
『照明の油代がもったいない』という殿下の命令で、蝋燭の火だけで作業していた日々が遠い昔のようだ。
ここでの生活は、あまりに満たされている。
衣食住は完璧。
使用人たちは親切。
猫のスノーは可愛い。
けれど、心のどこかでブレーキがかかる自分がいた。
「本当に、私がここにいていいの?」と。
「……風邪を引くぞ」
背後から、不意に声をかけられた。
振り返ると、アレクセイ様が立っていた。
寝間着の上にガウンを羽織り、片手にはワインボトルとグラスを二つ持っている。
「アレクセイ様……。まだ起きていらしたのですか?」
「ああ。少し飲みたくなってな。……隣、いいか?」
「もちろんです」
彼は私の隣――バルコニーに置かれた籐の椅子に腰を下ろすと、慣れた手つきでグラスにワインを注ぎ、一つを私に差し出した。
「眠れないのか?」
「いえ、あまりに夜が綺麗で、寝るのがもったいなくて」
私はグラスを受け取り、一口含んだ。
芳醇な香りが鼻に抜ける。
きっと、私の年収数年分の値段がするヴィンテージワインだろう。
手が震えないように気をつけなければ。
「……ラミリア」
「はい」
アレクセイ様は、星空を見上げたまま、静かに口を開いた。
「お前は時々、消えそうな顔をするな」
「え?」
「今もそうだ。この場所にいることが、何かの間違いだと思っているような顔だ」
図星だった。
私は苦笑して、グラスの縁を指でなぞった。
「……バレてしまいましたか。やはり、アレクセイ様には敵いませんね」
私は息を吐き出し、正直な気持ちを打ち明けることにした。
この優しい夜の空気が、私の口を軽くさせたのかもしれない。
「私には、自信がないんです」
「自信?」
「はい。私はミナ様のように可愛らしくもないし、聖女様のように奇跡の力があるわけでもない。剣も魔法も使えない、ただの『事務が得意な地味な女』です」
言葉にすると、改めて自分の空っぽさが身に染みる。
「今はアレクセイ様の気まぐれで良くしていただいていますけど、いつか飽きられるんじゃないか、役に立たなくなるんじゃないか……そう思うと、少し怖くて」
言ってしまった。
重い女だと思われただろうか。
けれど、アレクセイ様は笑わなかった。
馬鹿にするでもなく、ただ静かに私を見つめ返した。
「……お前は、自分が『何もない』と言うのだな」
「はい。事実ですから」
「ならば聞こう。あの荒れ果てた王城の業務を、たった一人で支えていたのは誰だ?」
「それは……私ですが、ただの事務作業です」
「使用人たちの顔と名前を覚え、彼らの体調を気遣い、心からの忠誠を得ていたのは?」
「それも、円滑な業務のためで……」
「私の屋敷に来てわずか数日で、あの偏屈な料理長や、気難しい古株の庭師を笑顔にしたのは?」
「たまたま相性が良かっただけで……」
「そして」
アレクセイ様は言葉を切り、グラスをテーブルに置いた。
そして、私の手を取り、そっと引き寄せた。
距離が、一気に縮まる。
「……氷のように冷え切っていた私の心を、日だまりのように溶かしたのは、誰だ?」
「っ……」
至近距離で見る彼の瞳は、夜空の星よりも強く、熱く輝いていた。
その視線に射抜かれ、私は身動きが取れなくなる。
「ラミリア。お前は魔法が使えないと言ったな」
「は、はい……」
「だが、私にとっては、お前の存在そのものが魔法だ」
「え……?」
耳を疑った。
あの『氷の公爵』が。
他人に興味を示さず、冷徹と言われる彼が。
そんな、歯の浮くような台詞を……しかも、大真面目な顔で言っている。
「火を放つ魔法など、魔術師に任せておけばいい。空を飛ぶ魔法など、道具でどうにでもなる。だが……」
彼の手が、私の頬に触れる。
大きな手。
けれど、壊れ物に触れるように優しい。
「人の心を温め、枯れた場所に花を咲かせ、私が『家に帰りたい』と思える場所を作る。……そんな魔法を使えるのは、世界でお前一人だけだ」
「アレクセイ、様……」
心臓が、うるさいほどに高鳴っている。
顔が熱い。
これはワインのせいではない。
彼の言葉が、私の心の柔らかい部分に、ダイレクトに響いているからだ。
「だから、卑下するな。お前は私が選んだ、最高に価値のある女性だ。……それとも、私の目が節穴だと言うのか?」
彼は少し悪戯っぽく眉を上げた。
「い、いえ! 滅相もございません!」
私が慌てて首を振ると、彼は満足そうに微笑んだ。
その笑顔は、昼間の冷徹さとは別人のように、無防備で、愛おしさに溢れていた。
「分かればいい。……ここにいろ、ラミリア。ずっとだ」
「……はい」
「お前がいなくなったら、私はまた氷に戻ってしまう。……スノーも、お前がいないとふて寝して食事を摂らなくなるしな」
「ふふ、スノーをだしに使わないでください」
「事実だ。あいつは私よりお前に懐いている」
アレクセイ様は肩をすくめた。
重苦しかった私の胸のつかえが、すっと消えていくのが分かった。
「ありがとう、ございます。……私、ここにいてもいいんですね」
「『いい』ではない。『いてほしい』だ」
彼は訂正すると、私の頬を親指で撫でた。
その瞳があまりに熱っぽくて、私は思わず目を伏せた。
見つめ合っていると、溶けてしまいそうだ。
「……ラミリア」
名前を呼ばれる。
甘く、低い声。
顔を上げると、彼の顔が近づいてきていた。
(えっ、これって……まさか……)
キスの距離だ。
どうしよう、心の準備が。
昨日はアップルパイのクリームを拭われただけだったけれど、今夜は違う雰囲気だ。
逃げ場はない。
いや、逃げたくない自分もいる。
私はギュッと目を閉じた。
チュッ。
柔らかい感触が、額に落ちた。
「……え?」
目を開けると、アレクセイ様が楽しそうに笑っていた。
「今日はこれくらいにしておこう。……真っ赤になって、倒れそうだからな」
「あ、あう……」
揶揄われた!
私はボンッと音がするほど赤面した。
恥ずかしい。
期待して目を閉じた自分が恥ずかしすぎる!
「おやすみ、ラミリア。良い夢を」
アレクセイ様は私の頭をポンポンと撫でると、名残惜しそうに離れ、自分の部屋へと戻っていった。
バルコニーに残された私は、しばらくその場から動けなかった。
夜風が熱った頬に心地よい。
「……ずるい人」
独り言が、夜の闇に溶けていく。
特別な力なんてない、普通の私。
けれど、彼が「魔法だ」と言ってくれるなら。
その言葉を信じて、もう少しだけ自信を持ってみようか。
胸の奥に灯った温かい光を抱きしめながら、私は空になったグラスを見つめた。
それは月明かりを受けて、キラキラと輝いていた。
まるで、私の新しい人生を祝福するように。
(でも……心臓に悪いから、あんな殺し文句は用法用量を守ってほしい……)
そんな贅沢な悩みを抱えつつ、私はふらつく足取りでベッドへと向かった。
今夜はきっと、甘すぎる夢を見るに違いない。
私は自室のバルコニーに出て、夜風に当たっていた。
昼間はジェラルド殿下への怒り(というか事務的な憤り)でアドレナリンが出ていたが、こうして一人になると、ふと冷静になってしまう。
見上げれば、宝石箱をひっくり返したような満天の星空。
眼下には、月明かりに照らされた美しい庭園。
そして、最高級シルクのパジャマを着ている私。
「……夢みたい」
ポツリと漏らす。
一週間前まで、私は薄暗い王城の執務室で、深夜まで書類と格闘していた。
『照明の油代がもったいない』という殿下の命令で、蝋燭の火だけで作業していた日々が遠い昔のようだ。
ここでの生活は、あまりに満たされている。
衣食住は完璧。
使用人たちは親切。
猫のスノーは可愛い。
けれど、心のどこかでブレーキがかかる自分がいた。
「本当に、私がここにいていいの?」と。
「……風邪を引くぞ」
背後から、不意に声をかけられた。
振り返ると、アレクセイ様が立っていた。
寝間着の上にガウンを羽織り、片手にはワインボトルとグラスを二つ持っている。
「アレクセイ様……。まだ起きていらしたのですか?」
「ああ。少し飲みたくなってな。……隣、いいか?」
「もちろんです」
彼は私の隣――バルコニーに置かれた籐の椅子に腰を下ろすと、慣れた手つきでグラスにワインを注ぎ、一つを私に差し出した。
「眠れないのか?」
「いえ、あまりに夜が綺麗で、寝るのがもったいなくて」
私はグラスを受け取り、一口含んだ。
芳醇な香りが鼻に抜ける。
きっと、私の年収数年分の値段がするヴィンテージワインだろう。
手が震えないように気をつけなければ。
「……ラミリア」
「はい」
アレクセイ様は、星空を見上げたまま、静かに口を開いた。
「お前は時々、消えそうな顔をするな」
「え?」
「今もそうだ。この場所にいることが、何かの間違いだと思っているような顔だ」
図星だった。
私は苦笑して、グラスの縁を指でなぞった。
「……バレてしまいましたか。やはり、アレクセイ様には敵いませんね」
私は息を吐き出し、正直な気持ちを打ち明けることにした。
この優しい夜の空気が、私の口を軽くさせたのかもしれない。
「私には、自信がないんです」
「自信?」
「はい。私はミナ様のように可愛らしくもないし、聖女様のように奇跡の力があるわけでもない。剣も魔法も使えない、ただの『事務が得意な地味な女』です」
言葉にすると、改めて自分の空っぽさが身に染みる。
「今はアレクセイ様の気まぐれで良くしていただいていますけど、いつか飽きられるんじゃないか、役に立たなくなるんじゃないか……そう思うと、少し怖くて」
言ってしまった。
重い女だと思われただろうか。
けれど、アレクセイ様は笑わなかった。
馬鹿にするでもなく、ただ静かに私を見つめ返した。
「……お前は、自分が『何もない』と言うのだな」
「はい。事実ですから」
「ならば聞こう。あの荒れ果てた王城の業務を、たった一人で支えていたのは誰だ?」
「それは……私ですが、ただの事務作業です」
「使用人たちの顔と名前を覚え、彼らの体調を気遣い、心からの忠誠を得ていたのは?」
「それも、円滑な業務のためで……」
「私の屋敷に来てわずか数日で、あの偏屈な料理長や、気難しい古株の庭師を笑顔にしたのは?」
「たまたま相性が良かっただけで……」
「そして」
アレクセイ様は言葉を切り、グラスをテーブルに置いた。
そして、私の手を取り、そっと引き寄せた。
距離が、一気に縮まる。
「……氷のように冷え切っていた私の心を、日だまりのように溶かしたのは、誰だ?」
「っ……」
至近距離で見る彼の瞳は、夜空の星よりも強く、熱く輝いていた。
その視線に射抜かれ、私は身動きが取れなくなる。
「ラミリア。お前は魔法が使えないと言ったな」
「は、はい……」
「だが、私にとっては、お前の存在そのものが魔法だ」
「え……?」
耳を疑った。
あの『氷の公爵』が。
他人に興味を示さず、冷徹と言われる彼が。
そんな、歯の浮くような台詞を……しかも、大真面目な顔で言っている。
「火を放つ魔法など、魔術師に任せておけばいい。空を飛ぶ魔法など、道具でどうにでもなる。だが……」
彼の手が、私の頬に触れる。
大きな手。
けれど、壊れ物に触れるように優しい。
「人の心を温め、枯れた場所に花を咲かせ、私が『家に帰りたい』と思える場所を作る。……そんな魔法を使えるのは、世界でお前一人だけだ」
「アレクセイ、様……」
心臓が、うるさいほどに高鳴っている。
顔が熱い。
これはワインのせいではない。
彼の言葉が、私の心の柔らかい部分に、ダイレクトに響いているからだ。
「だから、卑下するな。お前は私が選んだ、最高に価値のある女性だ。……それとも、私の目が節穴だと言うのか?」
彼は少し悪戯っぽく眉を上げた。
「い、いえ! 滅相もございません!」
私が慌てて首を振ると、彼は満足そうに微笑んだ。
その笑顔は、昼間の冷徹さとは別人のように、無防備で、愛おしさに溢れていた。
「分かればいい。……ここにいろ、ラミリア。ずっとだ」
「……はい」
「お前がいなくなったら、私はまた氷に戻ってしまう。……スノーも、お前がいないとふて寝して食事を摂らなくなるしな」
「ふふ、スノーをだしに使わないでください」
「事実だ。あいつは私よりお前に懐いている」
アレクセイ様は肩をすくめた。
重苦しかった私の胸のつかえが、すっと消えていくのが分かった。
「ありがとう、ございます。……私、ここにいてもいいんですね」
「『いい』ではない。『いてほしい』だ」
彼は訂正すると、私の頬を親指で撫でた。
その瞳があまりに熱っぽくて、私は思わず目を伏せた。
見つめ合っていると、溶けてしまいそうだ。
「……ラミリア」
名前を呼ばれる。
甘く、低い声。
顔を上げると、彼の顔が近づいてきていた。
(えっ、これって……まさか……)
キスの距離だ。
どうしよう、心の準備が。
昨日はアップルパイのクリームを拭われただけだったけれど、今夜は違う雰囲気だ。
逃げ場はない。
いや、逃げたくない自分もいる。
私はギュッと目を閉じた。
チュッ。
柔らかい感触が、額に落ちた。
「……え?」
目を開けると、アレクセイ様が楽しそうに笑っていた。
「今日はこれくらいにしておこう。……真っ赤になって、倒れそうだからな」
「あ、あう……」
揶揄われた!
私はボンッと音がするほど赤面した。
恥ずかしい。
期待して目を閉じた自分が恥ずかしすぎる!
「おやすみ、ラミリア。良い夢を」
アレクセイ様は私の頭をポンポンと撫でると、名残惜しそうに離れ、自分の部屋へと戻っていった。
バルコニーに残された私は、しばらくその場から動けなかった。
夜風が熱った頬に心地よい。
「……ずるい人」
独り言が、夜の闇に溶けていく。
特別な力なんてない、普通の私。
けれど、彼が「魔法だ」と言ってくれるなら。
その言葉を信じて、もう少しだけ自信を持ってみようか。
胸の奥に灯った温かい光を抱きしめながら、私は空になったグラスを見つめた。
それは月明かりを受けて、キラキラと輝いていた。
まるで、私の新しい人生を祝福するように。
(でも……心臓に悪いから、あんな殺し文句は用法用量を守ってほしい……)
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