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6 苛立ち Interlude-Tune
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カレンが出て行ったあと、ローランは訓練場の机の前に立っていた。
机の上には、何もない。
署名したはずの書面も、羽根ペンも、すでに持ち去られている。
残っているのは、言い様のない苛立ちだけ。
「終わったんでしょ?」
背後から、ブリジットの声がした。
軽い調子でそう、ローランの耳元で囁かれる。そして、彼の顔を覗き込むように、体を前かがみにする。
「王都の奥さんなんて、元からいないも同然だったんでしょ?」
スッとローランの肩を、ブリジットの革手袋を嵌めた右手が撫でる。
男の騎士とは違う、女性らしい甘やかな香りが、彼女のその髪からふわりとローランの鼻を擽った。
いつもなら、その腰を引き寄せて応えるのだろうが、ローランは返事をしなかった。
「ローラン? ねぇ、どうしたの?」
「なんでもない。今日は……もう戻る」
「え? この後の演習はどうするの?」
「……早退する」
それだけ言ったローランは、片手で髪をわしゃっと雑に掻き乱しながら、訓練場を出た。後ろでブリジットが何やら言っているが、彼の耳には何も入ってはこない。
ローランはその足で詰所を出て、裏手にある寄宿舎へと向かう。
ここに来て三年が経った。
既に慣れたはずの冬と雪。身体の芯から凍えるということを、ここで初めて経験した。日々の鍛錬や暮らしで、寒さから身を守る術を随分と身に着けてきた。
だが今、ローランの顔を刺す冷たさは、赴任してきた当初に感じていたものと同じ。
そして考えるのは、いままで碌に思い出しもしなかった、形ばかりの妻・カレンのこと。
(なぜ、俺が離縁状を突きつけられる側なんだ?)
華もなければ、才もない。地味なだけならまだよかった。そうではなく、あの見た目。隣に連れて歩くには、自分と釣り合いが取れないどころか、嘲笑の的になるだろう。
実際、婚姻式に参列してくれた友人たちは、憐憫の目でローランを見ていた。その風景が今でも、ローランの脳裏にこびりついている。
邸の中で妻として、大人しくしていれば、それでよかった。
両親から煩わしいことも言われない。距離があれば、こちらで何をしてようが、関係もない。
そのはずだったのに。
今、ローランの胸を占めているのは、覚えるはずもなかった焦燥感。
歩きながら空を見上げると、雪が降り落ちてくる。視界の中で点だったそれは、近づくにつれてどんどん大きくなり、目に入る。
なのに、目に焼き付いたカレンのあの笑顔を、雪は消してはくれない。
机の上には、何もない。
署名したはずの書面も、羽根ペンも、すでに持ち去られている。
残っているのは、言い様のない苛立ちだけ。
「終わったんでしょ?」
背後から、ブリジットの声がした。
軽い調子でそう、ローランの耳元で囁かれる。そして、彼の顔を覗き込むように、体を前かがみにする。
「王都の奥さんなんて、元からいないも同然だったんでしょ?」
スッとローランの肩を、ブリジットの革手袋を嵌めた右手が撫でる。
男の騎士とは違う、女性らしい甘やかな香りが、彼女のその髪からふわりとローランの鼻を擽った。
いつもなら、その腰を引き寄せて応えるのだろうが、ローランは返事をしなかった。
「ローラン? ねぇ、どうしたの?」
「なんでもない。今日は……もう戻る」
「え? この後の演習はどうするの?」
「……早退する」
それだけ言ったローランは、片手で髪をわしゃっと雑に掻き乱しながら、訓練場を出た。後ろでブリジットが何やら言っているが、彼の耳には何も入ってはこない。
ローランはその足で詰所を出て、裏手にある寄宿舎へと向かう。
ここに来て三年が経った。
既に慣れたはずの冬と雪。身体の芯から凍えるということを、ここで初めて経験した。日々の鍛錬や暮らしで、寒さから身を守る術を随分と身に着けてきた。
だが今、ローランの顔を刺す冷たさは、赴任してきた当初に感じていたものと同じ。
そして考えるのは、いままで碌に思い出しもしなかった、形ばかりの妻・カレンのこと。
(なぜ、俺が離縁状を突きつけられる側なんだ?)
華もなければ、才もない。地味なだけならまだよかった。そうではなく、あの見た目。隣に連れて歩くには、自分と釣り合いが取れないどころか、嘲笑の的になるだろう。
実際、婚姻式に参列してくれた友人たちは、憐憫の目でローランを見ていた。その風景が今でも、ローランの脳裏にこびりついている。
邸の中で妻として、大人しくしていれば、それでよかった。
両親から煩わしいことも言われない。距離があれば、こちらで何をしてようが、関係もない。
そのはずだったのに。
今、ローランの胸を占めているのは、覚えるはずもなかった焦燥感。
歩きながら空を見上げると、雪が降り落ちてくる。視界の中で点だったそれは、近づくにつれてどんどん大きくなり、目に入る。
なのに、目に焼き付いたカレンのあの笑顔を、雪は消してはくれない。
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