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8 冬の残り香
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通されたローラン邸の応接室は、端然とした静かな空間だった。
部屋の中央に革張りの椅子が並び、暖炉の上には陶器の花瓶が置かれている。そこに活けられてある小さな赤い実をつけた冬枯れの枝が、洗練された美を謳うようで目を惹きつける。
ハルシオンは勧められた長椅子に腰を下ろしながら、部屋の隅々にまで行き届いた手入れの跡を認めた。華美さはなく、決して高級品ばかりでもない。だが、そこにあるのは確かな品格であった。
「お待たせいたしました」
ローランの妻・カレン手ずから、銀の盆を手に戻ってきた。青白色のティーカップからは、緩やかな湯気が立ち昇っている。
「寒い日には、これがよいのです」
カレンは静かにカップをハルシオンの前に置いた。傍らには、蜂蜜の入った小壺と、ミルクの入った小さな陶器製のポットが添えられた。
「閣下には、少し甘すぎるかもしれませんが」
「いえ、いただきます」
出されたカップに、蜂蜜とミルクを入れて匙で混ぜる。それを手に取り口に含んだ瞬間、暖かさと甘さが舌の上で広がり、そこに何故だか優しさも重なってゆく気がした。紅茶の渋みを蜂蜜がまろやかに包み、ミルクがそれを柔らかく繋いでいる。飲み下すと、喉元から温もりが沁みてゆく。
ふっと息を吐いたハルシオンは、
「……旨いですね」
と、思わず言葉を零した。カレンの口元が、小さく緩む。
暫く、言葉のない時間が流れた。
「ローラン、ご主人は、北でよくやってくれています。こちらになかなか帰還させられずで、申し訳ない」
そう言ったハルシオンは、頭を軽く下げる。カレンは「とんでもございません。主人がお世話になっております」と、丁寧に返答してくれた。その表情は読み取れない。
ハルシオンは今日初めて、カレンに会った。その姿は、大きく分厚い眼鏡をかけて、毛糸編の帽子で頭を覆っている女性。
だがハルシオンには、その眼鏡の奥がちゃんと見える訳ではないのに、とても美しい瞳に見えた。
「北の寒さは、王都とは違うのですか」
カップを両手で包み込みながら、不意にカレンが問うた。
分厚い眼鏡の奥の瞳が、ハルシオンを真っ直ぐに見ている。
「はい」
ハルシオンは窓の外に目をやった。王都の冬空は鈍色の曇天で、湿った冷気が肌に纏わりつく類のものだ。生温く不快ではあるが、感じるのはそれだけだった。
「北の冬の冷気は、もっと臓腑を抉ってきます。身体が強張り、睫毛に霜が降りる」
カレンが思わず手の中のカップを見下ろした。それを見たハルシオンも、同じようにカップに手を添える。
「だからこそ貴重な温もりが、研ぎ澄まされるとも言えます」
「……研ぎ澄まされる」
カレンが小さな声で、ハルシオンの言葉を復唱する。
そして、同じように小さな声で、
「ここは……温くもない、寒くもない」
そう呟いてから、カップを見ていた視線を窓の外へ向けていた。
灰色の空、灰色の街並み。
「王都は、まるで色のない世界ですね」
「色がない?」
「はい。寒いからこそ、暖かい。北の……その暖かさは、どんな色なのかしらと」
ハルシオンは答えを探した。北の冬を、あの凍てつく世界の中にある温もりを、どう伝えればいいのか。
「色……。暖炉の炎」
言葉をひとつずつ、置くように紡いでゆく。
「温かい食事。身を守る毛皮。そして……色ではありませんが、手を繋ぐのも、想像以上に温かいのですよ」
言ってから、ハルシオンは己の口が滑ったことに気づいた。何を語っているのだ。部下の妻を相手にと。
「手を、繋ぐ……ですか?」
カレンが小首を傾げる。
「あ、いえ。失礼しました。そういう意味では……すみません」
しどろもどろになりかけた時、カレンが小さく笑った。思わず零れたと言う風に、控えめであったが少女のようで可愛らしい響きだった。
「大丈夫です」
彼女はカップを置き、膝の上で自らの両手を重ねた。
「そうですね。手を繋ぐ……幼い頃、両親と繋いだことを思い出しました。大人になると、そういう経験は、なかなかありませんものね」
カレンの顔に、微笑みが浮かんだ。とても、柔らかな表情だった。
なのにハルシオンの胸には、小さな棘が刺さった。どうしてなのか。
夫がいるではないか。
ローランという夫が。手を繋ぐ相手が、この人にはいるはずだ。
その違和感を、しかしハルシオンは言葉にしなかった。ただ笑みを返し、カップに残った紅茶を飲み干した。
部屋の中央に革張りの椅子が並び、暖炉の上には陶器の花瓶が置かれている。そこに活けられてある小さな赤い実をつけた冬枯れの枝が、洗練された美を謳うようで目を惹きつける。
ハルシオンは勧められた長椅子に腰を下ろしながら、部屋の隅々にまで行き届いた手入れの跡を認めた。華美さはなく、決して高級品ばかりでもない。だが、そこにあるのは確かな品格であった。
「お待たせいたしました」
ローランの妻・カレン手ずから、銀の盆を手に戻ってきた。青白色のティーカップからは、緩やかな湯気が立ち昇っている。
「寒い日には、これがよいのです」
カレンは静かにカップをハルシオンの前に置いた。傍らには、蜂蜜の入った小壺と、ミルクの入った小さな陶器製のポットが添えられた。
「閣下には、少し甘すぎるかもしれませんが」
「いえ、いただきます」
出されたカップに、蜂蜜とミルクを入れて匙で混ぜる。それを手に取り口に含んだ瞬間、暖かさと甘さが舌の上で広がり、そこに何故だか優しさも重なってゆく気がした。紅茶の渋みを蜂蜜がまろやかに包み、ミルクがそれを柔らかく繋いでいる。飲み下すと、喉元から温もりが沁みてゆく。
ふっと息を吐いたハルシオンは、
「……旨いですね」
と、思わず言葉を零した。カレンの口元が、小さく緩む。
暫く、言葉のない時間が流れた。
「ローラン、ご主人は、北でよくやってくれています。こちらになかなか帰還させられずで、申し訳ない」
そう言ったハルシオンは、頭を軽く下げる。カレンは「とんでもございません。主人がお世話になっております」と、丁寧に返答してくれた。その表情は読み取れない。
ハルシオンは今日初めて、カレンに会った。その姿は、大きく分厚い眼鏡をかけて、毛糸編の帽子で頭を覆っている女性。
だがハルシオンには、その眼鏡の奥がちゃんと見える訳ではないのに、とても美しい瞳に見えた。
「北の寒さは、王都とは違うのですか」
カップを両手で包み込みながら、不意にカレンが問うた。
分厚い眼鏡の奥の瞳が、ハルシオンを真っ直ぐに見ている。
「はい」
ハルシオンは窓の外に目をやった。王都の冬空は鈍色の曇天で、湿った冷気が肌に纏わりつく類のものだ。生温く不快ではあるが、感じるのはそれだけだった。
「北の冬の冷気は、もっと臓腑を抉ってきます。身体が強張り、睫毛に霜が降りる」
カレンが思わず手の中のカップを見下ろした。それを見たハルシオンも、同じようにカップに手を添える。
「だからこそ貴重な温もりが、研ぎ澄まされるとも言えます」
「……研ぎ澄まされる」
カレンが小さな声で、ハルシオンの言葉を復唱する。
そして、同じように小さな声で、
「ここは……温くもない、寒くもない」
そう呟いてから、カップを見ていた視線を窓の外へ向けていた。
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「王都は、まるで色のない世界ですね」
「色がない?」
「はい。寒いからこそ、暖かい。北の……その暖かさは、どんな色なのかしらと」
ハルシオンは答えを探した。北の冬を、あの凍てつく世界の中にある温もりを、どう伝えればいいのか。
「色……。暖炉の炎」
言葉をひとつずつ、置くように紡いでゆく。
「温かい食事。身を守る毛皮。そして……色ではありませんが、手を繋ぐのも、想像以上に温かいのですよ」
言ってから、ハルシオンは己の口が滑ったことに気づいた。何を語っているのだ。部下の妻を相手にと。
「手を、繋ぐ……ですか?」
カレンが小首を傾げる。
「あ、いえ。失礼しました。そういう意味では……すみません」
しどろもどろになりかけた時、カレンが小さく笑った。思わず零れたと言う風に、控えめであったが少女のようで可愛らしい響きだった。
「大丈夫です」
彼女はカップを置き、膝の上で自らの両手を重ねた。
「そうですね。手を繋ぐ……幼い頃、両親と繋いだことを思い出しました。大人になると、そういう経験は、なかなかありませんものね」
カレンの顔に、微笑みが浮かんだ。とても、柔らかな表情だった。
なのにハルシオンの胸には、小さな棘が刺さった。どうしてなのか。
夫がいるではないか。
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