〖完結〗終着駅のパッセージ

苺迷音

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 馬車の座席は、革張りの冷たさが残っていた。北の地であれば、毛皮のひとつでも敷かれているのだろうが、王都ではそこまでする必要もない。

 ハルシオンは背もたれに身を預け、瞼を閉じる。カレンが不意に見せた微笑みが、脳裏から離れない。

 茶を注ぐ所作や膝の上で重ねられた手。そして、「大人になると、そういう経験はなかなかない」と語った時の、声に宿った微かなパトス。

 もう少し話したかった。
 
 その想いが胸に浮かんだ瞬間、ハルシオンは目を開いて顎を引いた。

 馬鹿なことを考えるな、と。彼女はローランの妻だ。北辺の守りを任せている、大事な部下の伴侶ではないか。

 馬車が石畳の継ぎ目で、ガタッと小さく揺れる。その振動に合わせて、まだ舌の奥に残る蜂蜜の甘さが蘇った。

 

 公爵邸に戻ったハルシオンは、外套を脱ぎながら側近を呼んだ。

「まだ封を切っていない北の茶葉はあるか?」

「キャラバンティでございますか?」

「それを用意しろ」

「……閣下?」

「明日、発つ前に必要になった」

 それ以上、彼はそのことについて、何も言わなかった。



 翌日の朝。肌に触れる風は、昨日より幾分か冷たさが強い。

 その風に押されるように、ハルシオンは再びカレンの元を訪れた。手には、深緑の紙に包まれた茶葉の箱を持って。

 玄関先で応対に出たカレンは、纏う服こそ違えど昨日と同じ姿。だがその奥の瞳が、僅かに見開いたのをハルシオンは見た気がした。

「これを。キャラバンティ、北の茶葉です」

 ハルシオンは、箱をカレンにゆっくりと差し出した。

「昨日の礼に。……このまま帰路に就きますので」

「まぁ……」

 カレンは箱を受け取り、大切そうに胸に抱いた。

「ありがとうございます、閣下」

 カレンは中にと招き入れてくれようとしたが、それをハルシオンは丁重に断った。入れば、また話し込んでしまうだろう。また、あの穏やかな時間に溺れてしまうだろう。

 口元に弧を描くカレンの表情が、妙に眩しくハルシオンの目に映る。

「では、お体ご自愛ください」

 ハルシオンはそう、短く告げ踵を返した。振り返らずそのまま馬車に乗り込む。そうしなければきっと、足が止まる。またあの笑顔に引き止められてしまう。





 北の領地に戻って数日が過ぎた頃、執務室に重ねられた封書の中に、見慣れない流麗な文字のものを見つけた。

 差出人の名を見た瞬間、ハルシオンの手が止まった。

 カレン・ブレンダル。

 控えめながら丁寧な筆跡が、目に飛び込んできた。

『キャラバンティ、大変美味しゅうございました。北の風土が育み、長い旅路で得ただろう深い香りに、遠い地へ思いを馳せております。お心遣い、ありがとうございました』

 文面は短かく、茶の感想と季節の挨拶、それに簡素な結びの言葉。それだけだった。

 それだけなのに、ハルシオンはしばらく便箋を見つめていた。
 やがて彼は、静かにそれを畳み、執務机の引き出しにしまった。



 それからひと月半ほどの間隔で、ハルシオンは王都のカレンの元を訪れるようになった。勿論、王都での公務もあったし、それ以外の要件も山のようにあった。

 ついでだからと自分に言い聞かせ、北の様々な茶葉を携えて。

 カレンは毎回、丁寧に礼を述べる。
 時に茶を共にすることもあれば、茶葉を手渡すとすぐに踵を返すこともあった。

 後日届く手紙には、茶の感想が必ず綴られていた。そのうちに、手紙の文面は僅かばかりだが増えて行った。庭に咲いた花のことや、窓から見えた季節の移ろい、風景の小さな変化。どれも他愛のない言葉ばかりだった。

 ハルシオンは一通も返事を書かなかった。いや、書けなかった。
 だが、届いた手紙は一通も捨てずに全て、執務机の引き出しの奥に仕舞い鍵を掛けた。

 夫の上司と、部下の妻。

 その一線を、二人は決して踏み越えなかった。
 互いの胸の奥に、どのような火が灯り始めていようとも。
 それを、見せることも語ることもしなかった。





 そんな日々が一年ほど続いた、ある冬の夜。

 カレンから届いた手紙を、読み進めていたハルシオンはふと目を止めた。

『今年の北の冬は、どのような色なのでしょうか』

 文末に、そう記されていた。
 あの日の会話を、彼女は覚えていた。

 温くもない、寒くもない、色のない王都。彼女はそこの冬をそう、表現していた。
 
 今ここにある寒さ。その中で研ぎ澄まされる温もり。その色を、彼女はまだ知らないままでいる。

 ハルシオンは便箋を置き、窓の外に目をやった。

 北の夜空には、月が昇っていた。その光を受けて、一面の雪原が輝いている。
 外に広がるその世界は、見慣れているはずであるのに、今、胸の奥を熱く燃やす。

 気づけば、羽根ペンを手に取っていた。
 
 これまで一度も、返事など書かなかったではないか。

 それなのにペン先が、紙の上を滑り出していた。

『北の冬の色。今、私の目に映るのは、月光に照らされる夜の雪
 凍てつく厳しさがあり、それでも美しい銀の世界です』

 そう書き終えて、ハルシオンは便箋を見下ろした。

 たったこれだけの言葉。だがこの数行が、どれほどの意味を持つか。彼女に伝わるだろうか。伝わってしまって、よいのだろうか。

 だが、ペンは止まらなかった。

『私の生まれた場所の景色です』

 最後の一文を書く時、指先が微かに震えた。

『いつかあなたに、見せたい』



 

 封蝋をした手紙が手元を離れた瞬間、ハルシオンは深く息を吐いた。

 取り返しのつかないことをしたかもしれない。そう思った。

 だが、後悔はなかった。

 この銀の世界を、彼女に見せたいと願った。
 その想いは、偽りではない。

 窓の外ではいつの間にかまた、月影に雪が降り始めていた。
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