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10 約束
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衝動の手紙を出した夜から一年。また、北の地に冬が訪れていた。
北の冬は厳しい。だがそれは、領主の務めが止まることを意味しない。寧ろ雪に閉ざされる季節だからこそ、内政の細事が積み上がる。
執務机に積まれた書類の山を、ただ黙々と片付ける。ハルシオンにとって、そんな代わり映えのしない日々が続いていた。
その日も変わらずに彼は、幾重にも重なった書類の束と向き合っている。そろそろ一つの案件に目途がつくだろうと、次の書類に手を伸ばしたその時。不意に扉が叩かれ、その音にハルシオンの手が止まった。
「閣下宛に先ほど、届きました」
入って来た側近が差し出した封書を受け取り、差出人の名に目を落とした。見た瞬間、鼓動がひとつ大きく脈打つ。
カレン・ブレンダル。
だが何かが違う。封書をよく見れば、見慣れた流麗な筆跡ではあるが、いつもと違う紙だった。王都から届く時の、淡い象牙色の便箋ではない。
封を切ると、一枚の便箋に書かれていたのは、たった一言の短い文面。
『今、閣下のお生まれになった街におります』
その文字が目に飛び込んで来た瞬間、ハルシオンは息が詰まる。
彼女が、北にいる。この街に。
「閣下?」
「この書簡は、どこから届けられた?」
「騎士詰め所近くの宿からでございます。早馬で」
便箋を畳み、懐にしまう。椅子から勢いよく立ち上がると、扉近くの壁フックに掛けられた外套を乱雑に掴む。
「閣下、このあとの予定なのですが」
「すべてキャンセルだ」
「……は? え、えぇ!?」
側近が何か言うより早く、ハルシオンは書斎を後にする。駆ける足音が、彼の急く気持ちを乗せたように廊下に響き渡った。
☆
外に出ると、雪を踏む足音がザザッ、ザザッと鳴く。斜めに吹きつける雪。鋭利な雪片が、防寒をしていない頬を刺してくるが、一向に構わなかった。厩舎へ向かい、馬橇をと思ったが、今は支度を待つ時間すら惜しい。ハルシオンは、直ぐに使える冬用の蹄鉄を付けた馬を、一頭引き出して跨った。
革手袋を嵌めた手綱を握る指が、震えていた。寒さのせいではない。
二年間、返事を書けなかった。書いてはいけないと思っていた。
それでも一度だけ、あの夜、ペンを取った。
『いつかあなたに、見せたい』
その言葉を彼女は覚えてくれていた。たった一度吐露してしまった、あの想いを。
そして今、彼女は北の地、ここにいる。
馬を走らせながら、ハルシオンは懐に手を当てた。先ほど届いた便箋が、胸の上で温もりを持ち始めている。
『今、閣下のお生まれになった街におります』
その一行に込められた意味を、彼は知っている。
彼女が王都から離れた。夫と住まうはずの、あの邸から。
もしかしたら、夫に会いに来たのかもしれない。
それでも。
自分にこうして、報せをくれたのだ。
その事実だけが、胸の中で熱く脈打っていた。
☆
宿の扉を押し開けた瞬間、外の空気に反するような暖炉の熱気が、一気に頬を包んだ。外套に積もった雪を払う余裕もなく、ハルシオンはロビーに足を踏み入れ辺りを見回す。
そして。
一点で、視線が止まった。
暖炉の傍らの椅子に、一人の女性が座っている。
袖と裾の長い、濃いヘーゼルブラウンの落ち着いたシースドレスに、短い毛並みの白のショールを掛けた女性。艶やかな金の髪。編み帽はなく、眼鏡もない。暖炉の炎が、滑らかなその横顔を仄かに照らしている。
翡翠色の瞳が、こちらを向いた。
ハルシオンの足が、迷うことなく動いていた。止まることも躊躇することもなく、真っ直ぐに。
あの分厚い眼鏡の奥で、いつも静かに自分を見つめていた瞳。あの毛糸の帽子の下から覗いていた、控えめな微笑み。茶を注ぐ手の動き、膝の上で重ねられた指。
彼女を纏う全て。
全部、知っている。全部、見ていた。
「カレン夫人」
ハルシオンの喉から漏れる声が掠れているのは、外から馬を走らせてきた冷気のせいだけではない。
呼ばれた彼女がゆっくりと、片手でショールを抑えながらも立ち上がった。
ハルシオンは手袋を外し、その左手を彼女に向けて伸ばしていた。
その手が、彼女の手を包み込む。
白く細く、繊細な指。少しだけ暖かな彼女の小さな手が、確かにハルシオンの掌の内にある。
カレンが小首を傾げながら、ハルシオンを見上げて小さく笑った。
「温かい、ですね」
ハルシオンの脳裏に、カレンと初めて会ったあの日の会話が、蘇る。
手を繋ぐと温かい。大人になると、そういう経験はなかなかない。
あの時、ハルシオンは違和感を覚えた。夫がいるのに、なぜ。
その答えが、今、紡がれようとしていた。
「先ほど……ローラン・ブレンダル様と、離縁をいたしました」
それを聞いた瞬間、その言葉がハルシオンの胸の中で弾け、頭の中で大きく響いた。気づけば、腕の中へと彼女を包み込んでいた。
宿のロビーにも拘らず、だ。人目も、体裁も、何も考えられなかった。細い肩と柔らかな彼女の香り。そして、背中に回されたカレンの手から伝わる、かすかな震え。
それを感じ取ったハルシオンは、
「失礼を」
我に返り、慌ててその身を離そうとした。
だがカレンの手が、ハルシオンの外套をそっと掴む。
「いいえ」
カレンの声は、静かで落ち着いてはいたが、しっかりとした意思を持つ声だった。その一言に、二年分の二人の想い、全てが込められていた。
ハルシオンは吐息を零すようにもう一度だけ、きつく彼女を抱きしめる。それからゆっくりとその腕を離し、再びカレンの手を取った。そして、真っ直ぐに彼女の目を見て、微笑みながら問う。
「明日の朝ここへ、貴方を迎えに来ても構いませんか?」
カレンも翡翠の瞳を逸らすことなく、ハルシオンに向けていた。
「貴方にお見せしたい場所がある。お約束した場所です」
「はい。それを見るために、参りました」
その返事を聞いて、ハルシオンは漸く、高鳴る鼓動をほんの僅かだけ沈めることができた。繋いだその手を、彼女から名残惜しそうに離す。
「では、明日」
「ええ、明日」
今まで一度も交わしたことのない、待ち合わせと明日の約束。
☆
宿から出たハルシオンの身体を再び、外の雪が襲って来る。
叩きつけるような雪の中を、ハルシオンは馬に跨り進む。懐にある手紙と、掌に残る彼女の体温が、今は何よりも熱かった。
北の冬は厳しい。だがそれは、領主の務めが止まることを意味しない。寧ろ雪に閉ざされる季節だからこそ、内政の細事が積み上がる。
執務机に積まれた書類の山を、ただ黙々と片付ける。ハルシオンにとって、そんな代わり映えのしない日々が続いていた。
その日も変わらずに彼は、幾重にも重なった書類の束と向き合っている。そろそろ一つの案件に目途がつくだろうと、次の書類に手を伸ばしたその時。不意に扉が叩かれ、その音にハルシオンの手が止まった。
「閣下宛に先ほど、届きました」
入って来た側近が差し出した封書を受け取り、差出人の名に目を落とした。見た瞬間、鼓動がひとつ大きく脈打つ。
カレン・ブレンダル。
だが何かが違う。封書をよく見れば、見慣れた流麗な筆跡ではあるが、いつもと違う紙だった。王都から届く時の、淡い象牙色の便箋ではない。
封を切ると、一枚の便箋に書かれていたのは、たった一言の短い文面。
『今、閣下のお生まれになった街におります』
その文字が目に飛び込んで来た瞬間、ハルシオンは息が詰まる。
彼女が、北にいる。この街に。
「閣下?」
「この書簡は、どこから届けられた?」
「騎士詰め所近くの宿からでございます。早馬で」
便箋を畳み、懐にしまう。椅子から勢いよく立ち上がると、扉近くの壁フックに掛けられた外套を乱雑に掴む。
「閣下、このあとの予定なのですが」
「すべてキャンセルだ」
「……は? え、えぇ!?」
側近が何か言うより早く、ハルシオンは書斎を後にする。駆ける足音が、彼の急く気持ちを乗せたように廊下に響き渡った。
☆
外に出ると、雪を踏む足音がザザッ、ザザッと鳴く。斜めに吹きつける雪。鋭利な雪片が、防寒をしていない頬を刺してくるが、一向に構わなかった。厩舎へ向かい、馬橇をと思ったが、今は支度を待つ時間すら惜しい。ハルシオンは、直ぐに使える冬用の蹄鉄を付けた馬を、一頭引き出して跨った。
革手袋を嵌めた手綱を握る指が、震えていた。寒さのせいではない。
二年間、返事を書けなかった。書いてはいけないと思っていた。
それでも一度だけ、あの夜、ペンを取った。
『いつかあなたに、見せたい』
その言葉を彼女は覚えてくれていた。たった一度吐露してしまった、あの想いを。
そして今、彼女は北の地、ここにいる。
馬を走らせながら、ハルシオンは懐に手を当てた。先ほど届いた便箋が、胸の上で温もりを持ち始めている。
『今、閣下のお生まれになった街におります』
その一行に込められた意味を、彼は知っている。
彼女が王都から離れた。夫と住まうはずの、あの邸から。
もしかしたら、夫に会いに来たのかもしれない。
それでも。
自分にこうして、報せをくれたのだ。
その事実だけが、胸の中で熱く脈打っていた。
☆
宿の扉を押し開けた瞬間、外の空気に反するような暖炉の熱気が、一気に頬を包んだ。外套に積もった雪を払う余裕もなく、ハルシオンはロビーに足を踏み入れ辺りを見回す。
そして。
一点で、視線が止まった。
暖炉の傍らの椅子に、一人の女性が座っている。
袖と裾の長い、濃いヘーゼルブラウンの落ち着いたシースドレスに、短い毛並みの白のショールを掛けた女性。艶やかな金の髪。編み帽はなく、眼鏡もない。暖炉の炎が、滑らかなその横顔を仄かに照らしている。
翡翠色の瞳が、こちらを向いた。
ハルシオンの足が、迷うことなく動いていた。止まることも躊躇することもなく、真っ直ぐに。
あの分厚い眼鏡の奥で、いつも静かに自分を見つめていた瞳。あの毛糸の帽子の下から覗いていた、控えめな微笑み。茶を注ぐ手の動き、膝の上で重ねられた指。
彼女を纏う全て。
全部、知っている。全部、見ていた。
「カレン夫人」
ハルシオンの喉から漏れる声が掠れているのは、外から馬を走らせてきた冷気のせいだけではない。
呼ばれた彼女がゆっくりと、片手でショールを抑えながらも立ち上がった。
ハルシオンは手袋を外し、その左手を彼女に向けて伸ばしていた。
その手が、彼女の手を包み込む。
白く細く、繊細な指。少しだけ暖かな彼女の小さな手が、確かにハルシオンの掌の内にある。
カレンが小首を傾げながら、ハルシオンを見上げて小さく笑った。
「温かい、ですね」
ハルシオンの脳裏に、カレンと初めて会ったあの日の会話が、蘇る。
手を繋ぐと温かい。大人になると、そういう経験はなかなかない。
あの時、ハルシオンは違和感を覚えた。夫がいるのに、なぜ。
その答えが、今、紡がれようとしていた。
「先ほど……ローラン・ブレンダル様と、離縁をいたしました」
それを聞いた瞬間、その言葉がハルシオンの胸の中で弾け、頭の中で大きく響いた。気づけば、腕の中へと彼女を包み込んでいた。
宿のロビーにも拘らず、だ。人目も、体裁も、何も考えられなかった。細い肩と柔らかな彼女の香り。そして、背中に回されたカレンの手から伝わる、かすかな震え。
それを感じ取ったハルシオンは、
「失礼を」
我に返り、慌ててその身を離そうとした。
だがカレンの手が、ハルシオンの外套をそっと掴む。
「いいえ」
カレンの声は、静かで落ち着いてはいたが、しっかりとした意思を持つ声だった。その一言に、二年分の二人の想い、全てが込められていた。
ハルシオンは吐息を零すようにもう一度だけ、きつく彼女を抱きしめる。それからゆっくりとその腕を離し、再びカレンの手を取った。そして、真っ直ぐに彼女の目を見て、微笑みながら問う。
「明日の朝ここへ、貴方を迎えに来ても構いませんか?」
カレンも翡翠の瞳を逸らすことなく、ハルシオンに向けていた。
「貴方にお見せしたい場所がある。お約束した場所です」
「はい。それを見るために、参りました」
その返事を聞いて、ハルシオンは漸く、高鳴る鼓動をほんの僅かだけ沈めることができた。繋いだその手を、彼女から名残惜しそうに離す。
「では、明日」
「ええ、明日」
今まで一度も交わしたことのない、待ち合わせと明日の約束。
☆
宿から出たハルシオンの身体を再び、外の雪が襲って来る。
叩きつけるような雪の中を、ハルシオンは馬に跨り進む。懐にある手紙と、掌に残る彼女の体温が、今は何よりも熱かった。
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