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第九話 家族の名を呼ぶ夜
しおりを挟む夜。
空間魔法の家は、外界と同じ速さで時間を刻んでいる。遠くの街では、今も鐘が鳴り、酒場では笑い声が上がり、どこかで誰かが眠りにつき、誰かが目を覚ましている。
ここだけが、世界から切り取られたように静かだった。時間は流れている。だが、音がない。壁も、床も、天井も、呼吸するように魔力を循環させながら、ただ黙って私を包み込んでいる。灯りは一つ。作戦机の脇に置かれた、小さな魔導灯。
青白い光が、机の端と床の一部だけを照らし、影は濃く、輪郭を曖昧にしている。その光は、温かさを持たない。作業のためだけに存在する光。私は、記録を閉じたまま、しばらく動けずにいた。裁定は、成立している。証拠も、順序も、完璧だ。
間違いはない。
――ただ、心だけが、ついてきていなかった。感情を挟む余地はない。ない、はずだった。
「……」
仮面に、指先が触れる。外すつもりはない。外す理由も、ない。だが今夜だけは、視界を遮るものが、重かった。
私は仮面を外し、机の上にそっと置いた。
金属が触れ合う、小さな音。
鏡はない。
ここには、自分の顔を映すものは置いていない。見る必要が、ないからだ。
椅子に腰を下ろし、深く息を吐く。胸の奥で、何かが、きしむ。
――困っていることはないか。
エドワード・ヴァルグリムの声が、不意に思い出された。低く、抑えた声。同情でも、詮索でもない。ただの問い。私は、答えなかった。答えられなかった。困っていることなど、今さら、数え切れない。私は立ち上がり、家の奥へと歩く。証拠保管庫でもない。作戦室でもない。裁定にも、誰にも関係のない場所。唯一、誰のためでもない部屋。
私室。簡素な寝台。白い布だけが掛けられ、飾りはない。古い木製の棚。表面は削れ、何度も手を伸ばした痕が残っている。
そこに、一つだけ置かれた箱がある。開けることは、ほとんどない。
だが今夜は――手が、止まらなかった。蓋を開ける。中にあるのは、紙切れと、小さな布切れ。誰にも価値のないもの。だが、私にとっては違う。
「……母さま」
声が、漏れた。名前ではない。呼び方だけ。私と同じ髪色よく似た顔立ち。泣きそうになるたび、何も言わずに抱きしめてくれた腕。助けてほしい。今すぐ、抱きしめてほしい。
――もう、ない。
「……父さま」
綺麗な思い出だけが浮かぶ。
静かな声。背中。決して多くを語らなかった人。
「……お兄さま」
大好きだった。甘やかしてくれるところも、何も言わずに頭を撫でてくれるところも。最後まで、私を見なかったことも。
そして――少し、間が空く。指が、震える。
「……リーナ」
妹の名。
幼かった妹。私の後ろを、いつも小走りでついてきた子。
「……エリオ」
弟の名。泣き虫で、でも剣に憧れていた。
強がりばかり、口にしていた。五つの名を、順番に呼ぶ。誰にも聞かれないように。神にも、届かないように。
ここは、神から切り離された場所だ。祈りは、意味を持たない。
だからこそ――名前だけが、残る。
「……助けて、ほしかった」
声が、落ちる。
私は、護ると言った。そばにいると、言った。処刑台の上ではない。裁判の最中でもない。もっと前。疑いが、最初に向けられたあの日。信じてほしかった。家のために、切り捨てないでほしかった。噂が、静かに広がり始めた夜。誰も、声を上げなかった。視線をぶつけても、逸らされた。誰も、立ち向かってはくれなかった。
あんなに、愛していると言ったのに。
……でも。私も、助けを求めなかった。
“でも”ばかりが、胸につまる。
――それが、一番の罪だったのかもしれない。
「……ごめんなさい」
謝罪は、届かない。それでも、言わずにはいられなかった。涙は、出なかった。もう、泣く場所は過ぎている。
もし――大好きだった家族が、裁定の場に立ったなら。
私は、裁けるのだろうか。
心を、保てるのだろうか。
私は、なぜ再びこの世にいるのだろうか。
答えをくれるものは、いない。だが、胸の奥で何かが壊れる音は、はっきりと聞こえた。私は箱を閉じ、ゆっくりと立ち上がる。仮面を、手に取る。
これをつければ、裁定者に戻れる。
感情は、再び封じ込められる。
だが。
「……困っていること、か」
小さく呟く。
困っていることなら、山ほどある。私は、ひとりだ。今すぐ、誰かに助けてほしい。
それでも――裁定は、止めない。
私は仮面をつける。
名を捨て、感情を整え、呼吸を整える。
だが、心の奥に刻まれた名前だけは、消えない。消さない。
それが、私が裁定を続ける理由だから。
夜は、まだ深い。外界では、エドワード・ヴァルグリムが同じ空を見上げていることを、私は知らない。
だが――同じ夜に、同じ方向を向いていることだけは、なぜか、確信していた。
カタッ。
背後で、
小さな音がした。
……音?
私以外、誰もいないはずなのに。私は、ゆっくりと振り返る。
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