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第十話 侵入者
カタッ。
乾いた音が、背後で確かに鳴った。木と石が、ほんのわずかに触れ合ったような音。
風でも、家鳴りでもない。私は、息を止める。魔力の流れを確かめる。空間は安定している。歪みも、侵入の痕跡もない。
――それでも。
ここは、私以外、誰も入れないはずの場所だ。ゆっくりと、振り返る。影。作戦机の脚と、古い棚が落とす影が、わずかに、揺れた。
「……?」
次の瞬間。ひょい、と黒い影が、棚の下から姿を現した。猫だった。痩せすぎてもいない。だが、飼い慣らされた気配もない。
夜に溶け込むような黒い毛並み、ところどころに、細かな傷の痕。右耳の先が、少しだけ欠けている。金色の瞳が、こちらをまっすぐに捉えていた。警戒はしている。だが、怯えてはいない。
「……猫?」
声が、思わず漏れる。猫は答えない。当然だ。だが――逃げもしない。背を丸めることもなく、威嚇することもなく。まるで、
最初からここにいるのが当然だという顔で。私は、一歩近づく。魔力に触れた反応は、ない。幻でも、使い魔でもない。術式の残滓もない。生きている。ただの、猫だ。
「……どうやって、入ったの」
問いかけても、猫は瞬きを一つしただけだった。そして、小さく首を傾ける。代わりに、ゆっくりと歩み寄り、私の足元で、静かに座り込んだ。距離は、近い。逃げる準備も、攻撃する意思もない。
そして――小さく、鳴いた。にゃあ。それだけ。なのに。胸の奥で、何かが、音を立てて崩れた。
「……っ」
思わず、しゃがみ込む。猫は、それを待っていたかのように近づき、私の膝に、そっと額を押し付けた。擦り寄る。何の躊躇もなく。許可も、確認もなく。私は、触れるつもりはなかった。裁定者に、撫でる資格などない。そう思っていたはずなのに。
気づけば――指先が、猫の背に触れていた。
黒い柔らかい毛。
微かな体温。
確かな鼓動。
温かい。生きている、温度。
「……」
猫は、喉を鳴らした。低く、小さく、
安心しきった音。それが、どうしようもなく、つらかった。
「……ひとり、だったの」
誰に向けた言葉か、分からない。猫にか。
それとも、自分自身にか。猫は答えない。
ただ、その場を動かず、私の膝に体重を預けてくる。
逃げない。
離れない。
理由も、条件もない。
「……助けてほしかった」
さっき、口に出せなかった言葉が、今度は、自然に零れた。猫は、ただそこにいる。
何も言わない。
何も裁かない。
それでも――胸の奥の痛みが、ほんの少しだけ、和らいだ。
「……あなたも、どこにも行く場所が、なかったのね」
猫は、尻尾を一度だけ、ゆっくり揺らした。肯定でも、否定でもない。ただの、存在。私は、猫を抱き上げない。撫でるだけだ。逃げるなら、追わない。それでいい。
それが、今の私に許される距離だった。夜は、まだ深い。だが、この空間に、私以外の呼吸が一つ増えた。それだけで。
ほんの少しだけ――世界が、現実に戻った気がした。
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