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第八話 冷酷騎士は、名を聞かなかった
夜明け前の倉庫街は、静かすぎた。拘束された男は既に連行され、怒号も、泣き声も、すべて夜の底に沈んでいる。
残されているのは、湿った石畳と、血と油と鉄が混ざった冷えた空気だけ。
水溜まりに映る空は濁り、崩れかけた倉庫の壁には、朝を待たずに終わった取引の痕跡が残っていた。
エドワード・ヴァルグリムは、剣を鞘に納めたまま、その場に立っていた。罪は、裁かれなければならない。
それは騎士として、揺らいだことのない信条だ。
だが――裁定魔法。初めて聞く名だった。
古の魔法なのか。王国法より前に存在した術式なのか。あるいは、法の裏側でのみ生き続けてきたものか。彼には、わからない。
ただ一つ分かるのは――
あの魔法は、感情を介していないということだ。法的にも。証拠の上でも。そして何より、不自然さがなかった。
まるで、最初からそこに在るべき裁定だったかのように。
(……彼女は)
エドワードは、思う。
(自分を裁いた者を、裁いているのだろうか)
断罪を下した側。
嘘を並べた側。
沈黙を選んだ側。
そのすべてを。だとすれば――
彼女は、復讐者ではない。秩序の修正者だ。罪を犯し、法を歪めたこと。それが、
彼にとって最も重要だった。
「……」
風が、外套の裾を揺らす。あの仮面の女は、もういない。足音も、気配も、余韻すら残さず。
まるで最初から、存在していなかったかのように。
だが――確かに、そこにいた。
エドワードは、自分が“名を聞かなかった”ことを思い返す。
騎士としては、異例だ。
不審人物。
正体不明。
王国の裏で動く裁定者。
本来なら、名を確認し、所属を問うべきだった。だが、そうしなかった。
――できなかった。
「……名前を聞く必要が、なかった」
ぽつりと、独り言のように呟く。
彼女の動きには、迷いがなかった。
声には、正当性があった。
何より――断罪を“楽しんでいなかった”。
それが、決定的だった。エドワードは、
これまで数えきれないほどの裁判を見てきた。正義を語る者。神を掲げる者。民衆の声を利用する者。
その多くは、裁く自分に酔っていた。
だが、あの仮面の女は違った。
裁定を、“作業”として処理していた。
怒りも、憎しみも、誇示もない。
ただ――一致しているかどうか。
罪と証拠が、噛み合っているかどうか。
それだけを、冷静に見ていた。
「……冷酷だな」
誰に向けるでもなく、呟く。
だがそれは、侮蔑ではない。
むしろ――羨望に近い感情だった。
エドワード自身、感情で剣を振ることを嫌ってきた。嘘を嫌い、曖昧を嫌い、「信じたいもの」を優先する裁きを、何よりも嫌悪してきた。
だからこそ、気づいてしまった。
あの沈黙。
あの歩幅。
あの距離感。
――処刑台で、見た。
一度だけ。
公開断罪の日。群衆の罵声の中で、最後まで背筋を崩さなかった令嬢。美しく、穢れていなかった。目を伏せず、泣かず、赦しも乞わず。ただ、静かに立っていた女。
「……まさか、な」
理屈では否定できる。証拠は、すべて別件で揃っている。だが、感覚が否定しなかった。あの時、腕を掴んだ瞬間。反射的に振り払われなかったこと。恐怖ではなく、判断を待たれたあの一瞬。
「困っていることはないか」
あれは、尋問ではなかった。助けたい衝動でもない。
ただ――“人として、問うべきだ”と感じただけだ。
そして、彼女は答えなかった。
だが――笑った。
あの一瞬の笑みは、勝利の笑みではない。
余裕でもない。
――壊れかけたものが、
一瞬だけ表に出たような顔だった。
「……一緒に、来る?」
あれは、誘いではない。逃げ道でもない。
確認だ。同じ場所に、立てるかどうか。
エドワードは、その問いに答えなかった。
いや――答えられなかった。
だからこそ、手を離した。
名を聞かなかったのは、彼女を縛らないためだ。名を呼ぶという行為は、相手を“こちら側”に引き寄せる。
彼女は、まだ――誰の側にも立っていない。ならば、呼ぶべきではない。
「……また会う」
それは、願いではない。覚悟だ。倉庫街の先、夜明けの光が差し始める。エドワードは、空を見上げた。神はいない。だが、法はある。証拠も、選択も、責任も。
そして――彼女がいる。
名を捨て、裁定だけを携えて歩く女。
「……次に行く準備を、しなければならないな」
剣を鳴らし、冷酷騎士は歩き出す。
彼女と、同じ方向へ。
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