逆転の花嫁はヤンデレ王子に愛されすぎて困っています

蜂蜜あやね

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シリウス騎士学校は、少し変わった校風を持っていた。
建学の精神は――「生徒の自立」そして「騎士としての崇高な心を養うこと」。
その理念のもと、入学と同時に親元との連絡は一切絶たれる。手紙も面会も、よほどの緊急時以外は許されない。
十三歳から十八歳までの五年間、王都ダレスを離れ、郊外の街ウィルパで暮らすことになる。
多くの子どもにとって、それは試練だった。
泣きながら門をくぐる者もいたし、母親のスカートを離さないまま教官に引きはがされる者もいた。
だがリリーにとっては――むしろ「好都合」だった。
(五年……)
王都から離れる。
アシュレイとは会えない。
「今日は無理なの」と言わなくてもいい。
今の、思いどおりに身体も頭も動かない自分を、彼に見せずに済む。
(きっと、距離を置けば……元に戻れるはず)
そう思い込むことで、リリーはかろうじて自分を保っていた。
封をした入学許可証を胸に抱きしめる。
新しい制服。新しい土地。
“元の自分”になれるかもしれないという、淡い期待だけが胸の真ん中に灯っていた。
けれど、春風に揺れる木々のざわめきの中に――
あの日、森で聞いたあの低い風の音が、たしかに混ざって聞こえた。
 

一方そのころ、王宮では別のざわめきがあった。
最近、リリーがアシュレイの誘いを断るようになった。
最初、アシュレイは「たまたま予定が合わなかったのだろう」と思っていた。
二度、三度と続き、さすがにおかしいと感じた。
四度目に断られたときには、胸の奥で何かがちりっと焦げた。
(……あの森で迷子になった日からだ)
ほんの少し考えれば分かることだった。
あの日を境に、リリーの目にあった“自信の光”が薄れた。
向けられる笑顔が、ほんのすこしだけ遅れた。
見つめ返してくれたはずの碧い瞳が、ふっと下を向くようになった。
――まるで、距離を置こうとしているみたいだ。
アシュレイは父に頼んで、モールス・クラウド公爵の屋敷に行く機会をつくってもらおうとした。
だが、王の口から返ってきたのは思いがけない知らせだった。
「リリーはウィルパのシリウスに入るそうだ。……五年は会えんぞ」
その瞬間、アシュレイの胸にぐっと熱いものがせり上がった。
痛み、と呼ぶには甘すぎる。
怒り、と呼ぶにはまだ形になっていない。
喉にひっかかる、どうしようもない感情。
(いなくなる?)
今まで当たり前にいたものが、当たり前にそこにあったはずの背中が、五年間ここにいない。
それは、王宮で何不自由なく育ってきた少年にとって、初めて味わう「喪失の予告」だった。
彼はまだこのとき、その気配が“恐怖”にいちばん近いものだと気づいていない。
 

シリウス騎士学校での五年間は、リリーにとってほとんど“耐久”だった。
夢にまで見た名門校に入った。
ここで学べば、再び王家を支える騎士になれる――そう信じていた。
けれど現実は、入学初日から冷たかった。
まず、剣。
寮の裏にある訓練場で、教官の号令に合わせて一斉に素振りをする。
十三歳とは思えない重さの木剣を、他の子はきれいに振り下ろしていく。
リリーも同じように構え――そこで腕が止まった。
(……重い)
昔は一日百本振っても平気だった。
今は三十本目で息が上がる。
肩が震え、手のひらの皮がすぐに擦れていく。
木剣が、まるで自分だけを拒んでいるようだった。
「クラウド。手首が甘い。もう一回だ」
「は、はい!」
言われたとおりに振る。
が、やはり音が軽い。
横で同じ回数を振っている平民出の女の子のほうが、きれいな音を出していた。
胸がちくりとした。
(わたし……より、あの子のほうが今は強い)
生まれて初めて、そんな比較をした。
それが、ひどく惨めだった。
 
座学でも同じことが起きた。
シリウスは「騎士学校」と名がついているが、実際は学ぶことが多い。
歴史、戦略、地理、魔物学、応急手当、そして神学。
騎士は神に仕える、という建前があるからだ。
「神学の授業ヤバいよね! 覚えることありすぎて無理!」
「セイラン王国の信奉する神様一覧とか、範囲広すぎるし細かすぎ!」
教室がどっと沸いた。
黒板いっぱいに書かれた神の名前。
力の神ヴァルス、愛の神ティアナ、戦いの神ガンダス、豊穣の神マティア、酒の神リューセイア、収穫の神リオラ、海の神フリュオ――見慣れたものもあれば初耳のものもある。
リリーは机にノートを広げ、一つひとつを丁寧に書き写していく。
かつてなら、一度見れば覚えられた。
今は、書き写したそばから抜けていく。
「逆転の神ノルティアとかマイナーすぎるよね!」
「ていうか、そんな神様いた? 私、初めて聞いた!」
「ほんと、もう“なんでも神様”って感じだよな~」
みんなが笑いながら言う。
リリーはふと、教科書の隅を見た。
――逆転の神ノルティア。
たった数行。
紙の端が少し滲んでいて、まるで何かを載せたついでに書いたような扱いだった。
説明には「気まぐれに運命を転じる」とだけある。
大事そうには見えない。
(……これ、テストには出ないわね)
そう思って、ページを閉じた。
それはただの学習効率の判断だった。
 

そんなリリーに、久しぶりに声をかけてきたのがレベッカだった。
「リリー、一緒にお昼食べよう!」
明るくて、少し高い声。
振り向いた瞬間もなかなか名前が出てこなかったが、相手のほうはすぐに笑った。
「やっぱり覚えてないよね。フランシスのとき同じ初等部だった、レベッカ。覚えてるでしょ? ほら、いつも図書室で――」
「あ、レベッカ……ごめん、本当に忘れてたわ」
「いいのいいの。こっちが勝手に覚えてただけだから」
レベッカは、王都の子ども特有の柔らかい栗色の髪をひとつにまとめていて、目立たないけれど、話しかけやすい雰囲気を持っていた。
派手さも華やかさもない。だが、人の話を聞くときの目だけはとてもまっすぐだ。
中庭のベンチに腰をかけ、お互いに弁当を広げる。
春先の風がぴゅうっと吹き抜けて、レベッカの髪がふわりと舞った。
「ねぇ、リリー。聞いていい? 言いたくなかったら、無理に答えなくていいから」
「なに?」
「リリー……卒業前から少し、変わったよね?」
その一言で、リリーの肩がわずかに揺れた。
風が木々を鳴らし、しばらくは聞こえなかったふりができた。
でも、レベッカは待っていた。
からかうでもなく、憐れむでもなく、ただ“知りたい”という顔で。
「私ね、リリーに憧れてたの。ずっとリリーが目標だったの。だから……リリーが変わっちゃったことにも、すぐ気づいた」
「……見られてたのね。恥ずかしいわ」
「恥ずかしがるところじゃないでしょ。変わったっていうより……“一生懸命になった”って感じだったよ。前は、何でもスッてできたじゃない? でもある日から、できなくなったことを、がむしゃらに埋めようとしてた」
レベッカの声は、本当に優しかった。
責める気配なんてどこにもない。
それなのに、リリーの喉はきゅっと詰まる。
――努力を見ていてくれた人がいた。
それが、あまりに久しぶりの感覚だったから。
「……わたしにも、分からないの」
やっと出たのは、それだけだった。
どうして記憶が抜けるのか。
どうして剣が重くなったのか。
どうして何をやっても裏目に出るのか。
どうして“あの日から”こうなのか。
自分でも説明できないものを、人に説明することはできない。
レベッカは「そっか」とだけ言って、無理にそれ以上は聞かなかった。
代わりに、弁当の中身をひとつ差し出してきた。
「じゃあさ。分かるまで一緒にやろ。テストの範囲、分けっこしよ。あんた昔みたいに一人で全部やるつもりでいるからダメなのよ。今はもう、できるとこだけ拾えばいいんだって」
「……レベッカは優しいわね」
「ううん。王都の子はね、賢く生きるだけよ」
にっと笑うレベッカの顔を見て、リリーはやっと小さく笑った。
 

一方そのころ、王都。
アシュレイは、リリーが「五年間会えない場所」に行くと聞かされてから、ずっと落ち着かなかった。
彼女が自分を避けていることは分かっていた。
けれど“避けられている”のと“物理的に会えない”のとでは、重みが違う。
後者には、どうしても抗いがたい“決定力”がある。
(……どうして)
どうして離れていくのか。
どうして顔を見せてくれなくなったのか。
どうして“あの日”から、あんな目をするようになったのか。
十三歳の王子には、答えは出なかった。
けれど、このときすでに彼の心には一つだけはっきりしたものがあった。
――目を離すと、あの子はどこかに行ってしまう。
それが分かってしまったからこそ、あとで彼は“わざわざ”シリウスの方角を気にするようになる。
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