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翌日は学園で期末試験があった。
一日中座学の試験が続く、生徒にとってはちょっとした地獄の一日だ。朝から歴史、午前の後半で法律基礎、昼をはさんで魔法理論と王国神話。最後に簡単な作文。気の抜ける時間はどこにもない。
だがリリーにとって、今まではそんなに大ごとではなかった。
予習も復習もきっちりこなし、授業中に書いたノートは無駄がなく、先生の口癖すら覚えている。試験の前日に軽く目を通しておけば、当日はいつもどおり満点を取れる。そういうものだった。そう“決まっていた”のだ。少なくとも、昨日までは。
教室の一番前の席で、リリーは深呼吸をした。白い紙が配られる。黒インクで印字された問題文はいつもと同じ見慣れた書式で、出題者の癖も分かっている。出されそうなところも、ほぼ当たっている。
――はず、だった。
「…………?」
一問目。
『セイラン王国建国の祖、○○王の治世に施行された土地再配分制度の名称を答えよ。』
これなら簡単だ。昨日までなら、勝手に手が動いていた。
だがペン先が白い紙の上で止まった。
……えっと。あれ、なに? “均地制”……じゃなかった。似てるけど他国の制度だった気がする。じゃあ、“均田”? ちがう、もっとセイランらしい名前だったはず。父が昔、王と笑いながら話していた、あの――。
思い出せない。
ほんの数秒の沈黙。だが試験中の数秒は意外なほど長い。教室にはペンの走る音だけがかすかに響き、その中でリリーだけが置いていかれているようだった。
(おかしい)
顔を上げ、紙をもう一度見直す。問題文はちゃんと読める。目も疲れていない。眠くもない。前日もきちんと寝た。なのに、問題の意味が頭の奥に入ってこない。文字が表面で滑って、脳に吸い込まれていかない。
二問目、三問目と進めば思い出す――そう思って先へ目を走らせる。だが、どれも同じだった。知っている。習った。ノートにも書いた。なのに「そこに到達する道筋」だけが霧の向こうに消えてしまっている。
(昨日までは、分かってた)
そう、昨日までは。
昨日の夜、机の上で父に教わった古い戦役の年号を口に出していた時は、ちゃんと口から出た。ところが今、紙の前では出てこない。
焦りが胸に広がる。焦れば焦るほど、指先が冷たくなっていく。
目の端で、隣の席の子がさらさらと書き始めているのが見えた。後ろの席でも、もう一人が問題をめくっている。いつもならリリーが一番にペンを走らせ、一番に終える。廊下ですれ違った上級生に「さすがクラウド嬢」と言われるのが普通だった。
それが、今日は――違う。
(どうして……?)
胸がきゅっと縮む。紙にうつる自分の影が、ほんの少し揺れた。
「残り二十分」
教師の声が前方から飛ぶ。教室の空気がぴんと張る。ますます手が動かない。
リリーは、一問目に戻った。無理矢理、昨日までの自分をなぞるように、丁寧な字で答えを書いた。――が、書き終えた瞬間に「ちがう」と直感した。急いで消す。消し跡が残る。今度は自信のない別の名称を書く。こちらも合っている気はしない。だが空白にするよりはマシだ、と自分に言い聞かせる。
(こんなの、わたしじゃない)
それでも試験は待ってくれない。
最後のベルが鳴り、答案が回収されていく。紙を重ねるカサカサという音が、なぜか責めるように聞こえた。
「クラウド嬢、終わった?」
前の席の男子が気軽に話しかけてくる。いつもなら「もちろん」と微笑んでペンを置ける。けれど今日は、リリーはほんの一瞬だけ間を置き、いつもよりわずかに遅れて紙を渡した。そのわずかな遅れに気づく者はいなかったが、本人にはしっかりと残った。
(変だ)
教室を出た廊下。
壁際に寄りかかって、リリーは小さく吐息を洩らした。
何度も心の中で繰り返す。
(昨日までは、できてたのに)
◇
崩れは、座学だけで終わらなかった。
そのころから、リリーのまわりでは妙に“ついていないこと”が続きはじめた。
朝、いつもどおり門をくぐっただけで、頭に白いものが落ちてくる。見上げると、枝にとまった鳥が知らん顔をしている。使用人に「運がつきましたね」と笑われ、ハンカチで拭ってもらう。
その日は晴れの予報だった。
母も「今日はいい天気だから、お父様のところに顔を出しておいで」と送り出してくれた。なのに、学院に着くころにはぽつ、ぽつ、と冷たいものが頬にあたる。あっという間に本降りになり、リリーは慌てて屋根のある廊下へ駆け込んだ。周りの子はみんな傘を持っているのに、持っていないのはリリーだけだった。
(今朝、持とうとしたのに……)
玄関先でメイドが傘を差し出したのを、何故か「今日は晴れるはずだから」と断ったのだ。それすらも“裏目”に出る。
教室で係を決めるくじを引けば、一番になりたくない「掃除当番」をあっさり引き当てる。班長とまとめ役と書記がくじで割り当てられる日に限って、三回連続で“何かの役”を引く。
「リリーって、くじ運いいんだか悪いんだか分かんないよね」
からかうように言った同級生の笑い声に、リリーは曖昧に笑って返した。
本当は笑えなかった。
今までは、こういう細かい“運”すらも味方していた。ほしい役が引け、当番もうまく避け、望むところだけ手に入った。そういう風に出来ていた。なのに、ここにきてすべてが逆向きに回りはじめた気がする。
剣術でも同じだった。
これまで軽かった木剣が、ある日を境に急に重くなった。
道場でいつもどおりに構え、振り下ろしたはずなのに、腕がぶるぶると震える。肩に力が入りすぎているのかと姿勢を修正するが、今度は足がもつれる。
「クラウド嬢、どうした? 今日は手元が甘いな」
指導役の騎士が首を傾げる。
リリーは苦笑して「すみません、昨日ちょっと練習しすぎて」と答える。
嘘ではない。昨日も練習はした。だが昨日までなら、それで今日の動きはむしろ良くなっていたはずなのだ。
その日、手のひらにできた豆が一つ、ぱちんと音を立てて潰れた。
ヒリッとした痛みが走る。
それでもやめられなくて、リリーは木剣を握り直した。
(あの石を壊したから――)
ふと、そんな言葉が頭をかすめる。
すぐに追い払う。
偶然だ。疲れているだけ。生理のせいかもしれない。今日はたまたまこういう日なだけ。明日になれば、またいつもの自分に戻る。戻るはず。戻さなきゃ。
だが、戻らなかった。
◇
何より苦しかったのは、“比較”だった。
両親が、もしくは教師が、ふとしたときに言う。
「お前らしくない」
何気ない一言だ。悪意も責めるつもりもない。今までがあまりに出来すぎていたから、少しつまずけばそう言いたくもなる。が、今のリリーには、その“らしくない”が刃になった。
――じゃあ、わたしはもう“わたしらしく”ないの?
――じゃあ、これからのわたしは、ずっと“らしくない”ままなの?
あの森で石が倒れたとき、何かがずれてしまったのだ――そんな考えが、夜になるとどうしても顔を出す。
机に頬を伏せ、リリーはぽつりと漏らした。
「……私は、どうしてしまったの?」
返事はない。
窓の外では、細い雨が降っている。
雨粒が窓をつたって落ちる軌跡が、ぼやけた涙のあとみたいに見えた。
◇
それでも、アシュレイは変わらずに誘ってきた。
「リリー、湖に行かない? この時期、水面が一番きれいなんだって」
「新しい菓子職人が入ったらしいよ。父上が取り寄せたって。甘いの、好きだったよね」
「今日も、剣の練習? だったら僕、見てようか?」
以前なら、喜んで連れ出した。
「いいわよ、ついてきなさい」「しょうがないわね」「あなたまた本ばっかり読んで」――そんなふうに、年の変わらない王子を扱っていた。
でも今は、違う。
「ごめんなさい、今日は……ちょっと用事が」
「また今度ね。勉強があるの」
「お父様のお手伝いを頼まれてしまって」
その“また今度”は永遠にやってこない。
アシュレイの顔にかすかな寂しさが浮かぶのを見ても、リリーは首を横に振るしかなかった。
(見せたくない)
ただそれだけが本音だった。
震える手。
間違いだらけの答案用紙。
足を滑らせて転びかける自分。
くじで掃除当番を引き当てた日の情けない笑い。
そんなものを、あの子にだけは見せたくなかった。
自分が完璧であることを疑いもしなかった頃、リリーは本気で思っていた。
――自分がアシュレイを守る。
――自分が、アシュレイの剣になる。
――自分が、父と王のように肩を並べる。
その“自分”が崩れた今、かつて弟のように後ろをついてきた彼が、もしそれを見たらどう思うだろう。がっかりするだろうか。笑うだろうか。気の毒がるだろうか。優しくするだろうか。
どれも嫌だった。
アシュレイの前では、ずっと“強いリリー”のままでいたかった。
◇
数日後、思いがけない客がクラウド公爵家を訪れた。
「おう、モールス。久しいな」
王――グラニフ・ロンド。
王でありながら、旧友の家では肩の力を抜いて笑う男。
幼い頃からリリーは、この人のことを「父と同じ匂いのする人」だと思っていた。
戦場を知り、剣を握り、しかし穏やかな眼差しを忘れない人。
「陛下が直接お越しになるとは……。何か急ぎのご用で?」
父モールスが恭しく頭を下げる。といっても二人の距離は近く、言葉にはどこか学生時代の名残のような親しさがある。
「急ぎというほどでもないがな。アシュレイが、お前のところの娘殿に会いたがっておる。最近は顔を見せてくれんと、すねておるぞ」
王の視線が、部屋の隅で控えていたリリーに向いた。
リリーははっとして立ち上がる。
「陛下……お久しゅうございます」
「うむ。相変わらず美しい娘だ。……だが」
そこで、王はほんの少しだけ首をかしげた。
娘を気遣う父親のようなまなざしだった。
「少し、痩せたか?」
「……いえ。訓練で、少し」
「そうか。あまり無理をするな。……アシュレイと、また遊んでやってくれ」
「…………」
すぐに「はい」と言えなかった。
喉がひゅっと細くなる。
王の前で言葉に詰まるなど、本来のリリーならありえないことだった。
父がちらりと心配そうな視線を向ける。
リリーは、やっとのことで笑みを形にした。
「……そのうち、きっと」
たったそれだけ言って、視線を落とす。
王は追及しなかった。
だが、部屋を出るときにモールスに向かって小さく言った。
「リリーに、何かあったのか?」
「……分からん。努力を怠っているわけではないのだがな」
その会話が、閉じた扉の向こうで交わされているのを、リリーは知っていた。
聞こえないふりをしただけだった。
◇
そうして、のらりくらりとアシュレイの誘いをかわし続けるうちに、時間は容赦なく過ぎていった。
リリーは十三歳の春を迎える。
初等部を卒業し、それぞれが次の道へ進む季節。
女子なら王都の淑女学院へ進む者も多い。
家を継ぐ者はそのまま家の仕事を手伝いはじめる。
だがリリーは、幼い頃から決めていた。
――騎士になる。
それだけは、崩れてしまった今も変わらなかった。
問題は、成績だった。
この三ヶ月ほどのリリーの成績は、はっきり言って惨憺たるものだった。
座学では、平均より少し上。
剣術では、以前のように飛び抜けた評価はつかない。
ときには「集中力を欠いた」「雑」といった欄がつく。
母エリサは心配して「別に淑女学院でもいいのよ」と言った。
公爵令嬢としてなら、その道は自然で、美しく、楽でもある。
だがリリーは、頑として首を振らなかった。
「いや。わたしは――剣を捨てたくないの」
あの日、森で誓ったから。
あの日、手を引いたから。
あの日、父と王の背中を見てしまったから。
成績だけを見れば、本来なら名門・シリウス騎士学校は難しかったかもしれない。
だが、そこで彼女を救ったのは“過去”だった。
幼い頃からの記録。
各種大会での優秀賞。
初等部低学年時の座学オール満点。
公爵家付きの教官の推薦。
そして――王家との親しき縁。
積み上げたものは、そう簡単には消えなかった。
五年前までの“完璧少女”の実績が、最後にぐっと彼女を引き上げた。
「――合格だ」
父モールスが差し出した封筒に、王家の紋章が押されている。
王都ダレスを離れ、郊外ウィルパにあるシリウス騎士学校で五年間学ぶ許可証だった。
手に取った瞬間、リリーは胸の奥が熱くなるのを感じた。
喉の奥までせり上がるものを、ぐっと飲み込む。
(まだ、終わってない)
(わたしは、ここで終わらない)
どれだけ記憶が抜けても、
どれだけ剣が重くなっても、
どれだけ不運が続いても、
“あの約束”だけは消せなかった。
――アシュレイを守る。
――あの銀の髪の子を、二度と泣かせない。
――王家と父のように、肩を並べる。
それを思い出せるかぎり、前に進める。
春の風が、王都の屋敷の庭を通り抜けていく。
木々の若葉がさざめく音が、どこか森のざわめきに似ていた。
リリーは、ふと空を見上げた。
あのときのように、どこかで誰かがこちらを見ている気がした。
けれど、まだその正体には気づかない。
彼女はただ、入学許可証を抱きしめ、まっすぐ前を見た。
このときのリリーはまだ知らなかった――
自分が距離を取っていた五年間、
王宮のどこかで銀髪の少年が成長しながら、
ずっと彼女のことを“気にしていた”ということを。
それを知るのは、もう少し先の話になる。
一日中座学の試験が続く、生徒にとってはちょっとした地獄の一日だ。朝から歴史、午前の後半で法律基礎、昼をはさんで魔法理論と王国神話。最後に簡単な作文。気の抜ける時間はどこにもない。
だがリリーにとって、今まではそんなに大ごとではなかった。
予習も復習もきっちりこなし、授業中に書いたノートは無駄がなく、先生の口癖すら覚えている。試験の前日に軽く目を通しておけば、当日はいつもどおり満点を取れる。そういうものだった。そう“決まっていた”のだ。少なくとも、昨日までは。
教室の一番前の席で、リリーは深呼吸をした。白い紙が配られる。黒インクで印字された問題文はいつもと同じ見慣れた書式で、出題者の癖も分かっている。出されそうなところも、ほぼ当たっている。
――はず、だった。
「…………?」
一問目。
『セイラン王国建国の祖、○○王の治世に施行された土地再配分制度の名称を答えよ。』
これなら簡単だ。昨日までなら、勝手に手が動いていた。
だがペン先が白い紙の上で止まった。
……えっと。あれ、なに? “均地制”……じゃなかった。似てるけど他国の制度だった気がする。じゃあ、“均田”? ちがう、もっとセイランらしい名前だったはず。父が昔、王と笑いながら話していた、あの――。
思い出せない。
ほんの数秒の沈黙。だが試験中の数秒は意外なほど長い。教室にはペンの走る音だけがかすかに響き、その中でリリーだけが置いていかれているようだった。
(おかしい)
顔を上げ、紙をもう一度見直す。問題文はちゃんと読める。目も疲れていない。眠くもない。前日もきちんと寝た。なのに、問題の意味が頭の奥に入ってこない。文字が表面で滑って、脳に吸い込まれていかない。
二問目、三問目と進めば思い出す――そう思って先へ目を走らせる。だが、どれも同じだった。知っている。習った。ノートにも書いた。なのに「そこに到達する道筋」だけが霧の向こうに消えてしまっている。
(昨日までは、分かってた)
そう、昨日までは。
昨日の夜、机の上で父に教わった古い戦役の年号を口に出していた時は、ちゃんと口から出た。ところが今、紙の前では出てこない。
焦りが胸に広がる。焦れば焦るほど、指先が冷たくなっていく。
目の端で、隣の席の子がさらさらと書き始めているのが見えた。後ろの席でも、もう一人が問題をめくっている。いつもならリリーが一番にペンを走らせ、一番に終える。廊下ですれ違った上級生に「さすがクラウド嬢」と言われるのが普通だった。
それが、今日は――違う。
(どうして……?)
胸がきゅっと縮む。紙にうつる自分の影が、ほんの少し揺れた。
「残り二十分」
教師の声が前方から飛ぶ。教室の空気がぴんと張る。ますます手が動かない。
リリーは、一問目に戻った。無理矢理、昨日までの自分をなぞるように、丁寧な字で答えを書いた。――が、書き終えた瞬間に「ちがう」と直感した。急いで消す。消し跡が残る。今度は自信のない別の名称を書く。こちらも合っている気はしない。だが空白にするよりはマシだ、と自分に言い聞かせる。
(こんなの、わたしじゃない)
それでも試験は待ってくれない。
最後のベルが鳴り、答案が回収されていく。紙を重ねるカサカサという音が、なぜか責めるように聞こえた。
「クラウド嬢、終わった?」
前の席の男子が気軽に話しかけてくる。いつもなら「もちろん」と微笑んでペンを置ける。けれど今日は、リリーはほんの一瞬だけ間を置き、いつもよりわずかに遅れて紙を渡した。そのわずかな遅れに気づく者はいなかったが、本人にはしっかりと残った。
(変だ)
教室を出た廊下。
壁際に寄りかかって、リリーは小さく吐息を洩らした。
何度も心の中で繰り返す。
(昨日までは、できてたのに)
◇
崩れは、座学だけで終わらなかった。
そのころから、リリーのまわりでは妙に“ついていないこと”が続きはじめた。
朝、いつもどおり門をくぐっただけで、頭に白いものが落ちてくる。見上げると、枝にとまった鳥が知らん顔をしている。使用人に「運がつきましたね」と笑われ、ハンカチで拭ってもらう。
その日は晴れの予報だった。
母も「今日はいい天気だから、お父様のところに顔を出しておいで」と送り出してくれた。なのに、学院に着くころにはぽつ、ぽつ、と冷たいものが頬にあたる。あっという間に本降りになり、リリーは慌てて屋根のある廊下へ駆け込んだ。周りの子はみんな傘を持っているのに、持っていないのはリリーだけだった。
(今朝、持とうとしたのに……)
玄関先でメイドが傘を差し出したのを、何故か「今日は晴れるはずだから」と断ったのだ。それすらも“裏目”に出る。
教室で係を決めるくじを引けば、一番になりたくない「掃除当番」をあっさり引き当てる。班長とまとめ役と書記がくじで割り当てられる日に限って、三回連続で“何かの役”を引く。
「リリーって、くじ運いいんだか悪いんだか分かんないよね」
からかうように言った同級生の笑い声に、リリーは曖昧に笑って返した。
本当は笑えなかった。
今までは、こういう細かい“運”すらも味方していた。ほしい役が引け、当番もうまく避け、望むところだけ手に入った。そういう風に出来ていた。なのに、ここにきてすべてが逆向きに回りはじめた気がする。
剣術でも同じだった。
これまで軽かった木剣が、ある日を境に急に重くなった。
道場でいつもどおりに構え、振り下ろしたはずなのに、腕がぶるぶると震える。肩に力が入りすぎているのかと姿勢を修正するが、今度は足がもつれる。
「クラウド嬢、どうした? 今日は手元が甘いな」
指導役の騎士が首を傾げる。
リリーは苦笑して「すみません、昨日ちょっと練習しすぎて」と答える。
嘘ではない。昨日も練習はした。だが昨日までなら、それで今日の動きはむしろ良くなっていたはずなのだ。
その日、手のひらにできた豆が一つ、ぱちんと音を立てて潰れた。
ヒリッとした痛みが走る。
それでもやめられなくて、リリーは木剣を握り直した。
(あの石を壊したから――)
ふと、そんな言葉が頭をかすめる。
すぐに追い払う。
偶然だ。疲れているだけ。生理のせいかもしれない。今日はたまたまこういう日なだけ。明日になれば、またいつもの自分に戻る。戻るはず。戻さなきゃ。
だが、戻らなかった。
◇
何より苦しかったのは、“比較”だった。
両親が、もしくは教師が、ふとしたときに言う。
「お前らしくない」
何気ない一言だ。悪意も責めるつもりもない。今までがあまりに出来すぎていたから、少しつまずけばそう言いたくもなる。が、今のリリーには、その“らしくない”が刃になった。
――じゃあ、わたしはもう“わたしらしく”ないの?
――じゃあ、これからのわたしは、ずっと“らしくない”ままなの?
あの森で石が倒れたとき、何かがずれてしまったのだ――そんな考えが、夜になるとどうしても顔を出す。
机に頬を伏せ、リリーはぽつりと漏らした。
「……私は、どうしてしまったの?」
返事はない。
窓の外では、細い雨が降っている。
雨粒が窓をつたって落ちる軌跡が、ぼやけた涙のあとみたいに見えた。
◇
それでも、アシュレイは変わらずに誘ってきた。
「リリー、湖に行かない? この時期、水面が一番きれいなんだって」
「新しい菓子職人が入ったらしいよ。父上が取り寄せたって。甘いの、好きだったよね」
「今日も、剣の練習? だったら僕、見てようか?」
以前なら、喜んで連れ出した。
「いいわよ、ついてきなさい」「しょうがないわね」「あなたまた本ばっかり読んで」――そんなふうに、年の変わらない王子を扱っていた。
でも今は、違う。
「ごめんなさい、今日は……ちょっと用事が」
「また今度ね。勉強があるの」
「お父様のお手伝いを頼まれてしまって」
その“また今度”は永遠にやってこない。
アシュレイの顔にかすかな寂しさが浮かぶのを見ても、リリーは首を横に振るしかなかった。
(見せたくない)
ただそれだけが本音だった。
震える手。
間違いだらけの答案用紙。
足を滑らせて転びかける自分。
くじで掃除当番を引き当てた日の情けない笑い。
そんなものを、あの子にだけは見せたくなかった。
自分が完璧であることを疑いもしなかった頃、リリーは本気で思っていた。
――自分がアシュレイを守る。
――自分が、アシュレイの剣になる。
――自分が、父と王のように肩を並べる。
その“自分”が崩れた今、かつて弟のように後ろをついてきた彼が、もしそれを見たらどう思うだろう。がっかりするだろうか。笑うだろうか。気の毒がるだろうか。優しくするだろうか。
どれも嫌だった。
アシュレイの前では、ずっと“強いリリー”のままでいたかった。
◇
数日後、思いがけない客がクラウド公爵家を訪れた。
「おう、モールス。久しいな」
王――グラニフ・ロンド。
王でありながら、旧友の家では肩の力を抜いて笑う男。
幼い頃からリリーは、この人のことを「父と同じ匂いのする人」だと思っていた。
戦場を知り、剣を握り、しかし穏やかな眼差しを忘れない人。
「陛下が直接お越しになるとは……。何か急ぎのご用で?」
父モールスが恭しく頭を下げる。といっても二人の距離は近く、言葉にはどこか学生時代の名残のような親しさがある。
「急ぎというほどでもないがな。アシュレイが、お前のところの娘殿に会いたがっておる。最近は顔を見せてくれんと、すねておるぞ」
王の視線が、部屋の隅で控えていたリリーに向いた。
リリーははっとして立ち上がる。
「陛下……お久しゅうございます」
「うむ。相変わらず美しい娘だ。……だが」
そこで、王はほんの少しだけ首をかしげた。
娘を気遣う父親のようなまなざしだった。
「少し、痩せたか?」
「……いえ。訓練で、少し」
「そうか。あまり無理をするな。……アシュレイと、また遊んでやってくれ」
「…………」
すぐに「はい」と言えなかった。
喉がひゅっと細くなる。
王の前で言葉に詰まるなど、本来のリリーならありえないことだった。
父がちらりと心配そうな視線を向ける。
リリーは、やっとのことで笑みを形にした。
「……そのうち、きっと」
たったそれだけ言って、視線を落とす。
王は追及しなかった。
だが、部屋を出るときにモールスに向かって小さく言った。
「リリーに、何かあったのか?」
「……分からん。努力を怠っているわけではないのだがな」
その会話が、閉じた扉の向こうで交わされているのを、リリーは知っていた。
聞こえないふりをしただけだった。
◇
そうして、のらりくらりとアシュレイの誘いをかわし続けるうちに、時間は容赦なく過ぎていった。
リリーは十三歳の春を迎える。
初等部を卒業し、それぞれが次の道へ進む季節。
女子なら王都の淑女学院へ進む者も多い。
家を継ぐ者はそのまま家の仕事を手伝いはじめる。
だがリリーは、幼い頃から決めていた。
――騎士になる。
それだけは、崩れてしまった今も変わらなかった。
問題は、成績だった。
この三ヶ月ほどのリリーの成績は、はっきり言って惨憺たるものだった。
座学では、平均より少し上。
剣術では、以前のように飛び抜けた評価はつかない。
ときには「集中力を欠いた」「雑」といった欄がつく。
母エリサは心配して「別に淑女学院でもいいのよ」と言った。
公爵令嬢としてなら、その道は自然で、美しく、楽でもある。
だがリリーは、頑として首を振らなかった。
「いや。わたしは――剣を捨てたくないの」
あの日、森で誓ったから。
あの日、手を引いたから。
あの日、父と王の背中を見てしまったから。
成績だけを見れば、本来なら名門・シリウス騎士学校は難しかったかもしれない。
だが、そこで彼女を救ったのは“過去”だった。
幼い頃からの記録。
各種大会での優秀賞。
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そして――王家との親しき縁。
積み上げたものは、そう簡単には消えなかった。
五年前までの“完璧少女”の実績が、最後にぐっと彼女を引き上げた。
「――合格だ」
父モールスが差し出した封筒に、王家の紋章が押されている。
王都ダレスを離れ、郊外ウィルパにあるシリウス騎士学校で五年間学ぶ許可証だった。
手に取った瞬間、リリーは胸の奥が熱くなるのを感じた。
喉の奥までせり上がるものを、ぐっと飲み込む。
(まだ、終わってない)
(わたしは、ここで終わらない)
どれだけ記憶が抜けても、
どれだけ剣が重くなっても、
どれだけ不運が続いても、
“あの約束”だけは消せなかった。
――アシュレイを守る。
――あの銀の髪の子を、二度と泣かせない。
――王家と父のように、肩を並べる。
それを思い出せるかぎり、前に進める。
春の風が、王都の屋敷の庭を通り抜けていく。
木々の若葉がさざめく音が、どこか森のざわめきに似ていた。
リリーは、ふと空を見上げた。
あのときのように、どこかで誰かがこちらを見ている気がした。
けれど、まだその正体には気づかない。
彼女はただ、入学許可証を抱きしめ、まっすぐ前を見た。
このときのリリーはまだ知らなかった――
自分が距離を取っていた五年間、
王宮のどこかで銀髪の少年が成長しながら、
ずっと彼女のことを“気にしていた”ということを。
それを知るのは、もう少し先の話になる。
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