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図書館を出たあとも、リリーの胸は不思議と軽かった。
――“逆転の女神ノルティア”。
名前がわかっただけで、こんなにも世界がはっきりして見えるなんて。
5年前のあの夜、森で壊してしまった石碑。あれが何かの“きっかけ”だったのだと、ようやく自分でも言葉にできる気がした。
だが、家に戻ったとたん、その高揚はあっけなく現実に引きずり下ろされる。
「リリアンヌ。ちょうどよかった。話がある。」
父モールスが応接間に彼女を呼びとめた。いつもの穏やかな父の声より、ほんの少しだけ固い。嫌な予感がしてリリーは背筋を伸ばす。
「……縁談の件、覚えているな?」
ああ、と喉の奥で声にならない息が漏れた。
あの時期だ。アシュレイに「騎士なんてやめたら?」と言われ、心が折れて、何もかもどうでもよくなっていた頃。
“じゃあ、公爵令嬢としての普通の道を歩めばいい”
そう自分で蓋をしてしまった頃に、ちょうど持ち上がった話だった。
「フェリクス侯爵家のご子息エドモンド様が、正式に顔合わせを望んでおられる。向こうはとても好意的だ。お前も……承諾してくれていたな?」
していた。
確かに言った。
“もう、騎士じゃなくてもいいかもしれない”と。
あのときは、それが逃げ場に思えた。
けれど今は――。
(……でも、まだ何も解決してないのに)
ノルティアの名はわかった。けれど、どうすれば逆転を戻せるのか、まだ何も掴んでいない。
“元に戻れるかもしれない”という細い希望が生まれたばかりなのに、ここで婚約を決めてしまったら、その道を自分で塞ぐことになる。
それでも、父と母は嬉しそうだった。
母エリサは目を潤ませさえしている。
「リリー、あなたが幸せになれる話なのよ。騎士団で苦労ばかりするより、あなたには穏やかな生活が似合うわ。……ずっと心配していたの。あなた、勉強も剣も、あんなに得意だったのに……無理をしているのかと思って」
無理は、している。
でもそれは――「辞めろ」と言われたいわけじゃない。
“できないままでもそばにいていい”と、誰かに言ってほしいだけだ。
「……わかりました。お会いします。」
結局リリーはそう答えた。
父母の表情がふっと和らぐ。
その顔を見たら、もうそれ以上「嫌」とは言えなかった。
◇
フェリクス侯爵家が指定したのは、王都の中心にある邸宅風のサロンだった。
高い天井、シャンデリア、古い音楽が小さく流れている。
リリーは淡いライラック色のドレスに着替えさせられ、公爵令嬢らしい姿で現れた。胸元も裾も控えめで、剣を持つ時とはまるで別人だ。
先に待っていたのは、穏やかそうな青年だった。
柔らかく茶を帯びた金髪、整った顔立ち、眼鏡。
――いかにも“頭の切れる侯爵家の後継ぎ”という印象。
「初めまして、リリアンヌ様。フェリクス家のエドモンドと申します。お噂は、たくさん伺っておりますよ。」
丁寧で、嫌味がない。
笑うと目元に優しい皺が寄る。
リリーは思わず姿勢を正した。
「お噂……ですか?」
「ええ。公爵家のご令嬢でありながら、シリウス騎士学校に進まれたとか。なかなかできることではない。私は、そういう方を尊敬します。」
まっすぐにそう言われて、少しだけ胸が温かくなった。
――できないところばかりを見られてきた5年間だったから。
“騎士になろうとした”こと自体を褒められるのは久しぶりだった。
「でも……私は、あまり良い成績では……」
「努力の過程を大切にされる方だと聞いています。私は、出来の良さよりも、そういう部分の方が好きですよ。」
にこり、と。
その笑顔は本当に優しかった。
手の甲に触れようとしたその手を、リリーは反射的にテーブルの上に引っ込める。
「あっ……す、すみません!」
「いえ、とんでもない。無理をさせるつもりはありません。」
本当にいい人なのだ。
この人と結婚すれば、きっと穏やかで平和な日々が来る。
剣を持てなくても、誰も失望しない。
朝起きて、手が重くても、「今日は休んでいい」と言ってくれるような――そんな人生。
けれど。
(……じゃあ、どうしてアシュレイの顔が浮かぶの)
銀色の髪、紫紺の瞳。
彼が、もしこの場面を見たら――どんな顔をするだろう。
そう考えた瞬間、胸の奥がずき、と痛んだ。
◇
その“場面”が、思いもよらぬ速度で王宮に届いたのは、その日の夕刻だった。
「リリアンヌ・クラウド嬢、フェリクス家との婚約に前向き、とのことです。」
事務的にそう報告したのは、アシュレイの近侍だ。
軽い世間話のように「公爵家もようやくご令嬢の将来を――」と言いかけたところで、ぱしん、と音を立ててアシュレイが机の上の羽ペンを弾いた。
紫紺の瞳が、すうっと冷える。
「誰が。」
「え?」
「誰が、それを許可したって?」
近侍は一瞬、答えられなかった。
王子がここまで露骨に表情を変えたのを見るのは、久しぶりだったからだ。
「……リリーは、僕のところに何も言ってない。」
「殿下、それはごプライベートな――」
「プライベートじゃない。」
声が低くなる。
部屋の空気が、一気に張りつめた。
「彼女は、僕の――」
そこまで言って、アシュレイは口を噤んだ。
“僕のもの”とは、まだ言っていない。
でも、心の中にはとっくにそう刻んでいる。
「馬車を出して。クラウド公爵家へ行く。」
「こ、こんな時間にですか。殿下、今は――」
「今行くんだよ。」
王子の声ではなく、ただ“少年のまま大きくなった独占欲”のような響きだった。
◇
夕暮れのクラウド公爵邸。
使用人たちは突然の王子の来訪に慌てふためき、モールス公爵が大急ぎで客間へと案内する。
「アシュレイ殿下。おひさ――」
「リリーは?」
挨拶もそこそこに、アシュレイは問いかけた。
公爵が一瞬だけ目を伏せる。
「……自室にいます。しかし、今日は少し疲れて――」
「話をするだけです。」
それだけを言って、アシュレイは勝手知ったるように階段を上がっていった。
子供の頃、何度も遊びに来た家だ。
リリーの部屋の場所は、変わっていない。
扉の前で一度だけ、ノックをする。
「リリー。」
「……はい?」
中から戸惑った声がする。
扉を開けたリリーは、ドレスを半分だけ脱ぎかけていた。
背中のホックを途中まで外してしまっていたせいで、白い肩がちらりと覗く。
「えっ……アシュレイ!? ちょっと、こんな時間にどうして――」
言い終わる前に、彼は部屋の中へ入っていた。
扉が閉まる。
静かな、けれど逃げ場のない空気が広がる。
「フェリクス家との話、本気なの?」
真正面から射抜くような目。
リリーは思わず視線を逸らす。
「……お父様が、喜んでいたから。私も、そろそろ……」
「“そろそろ”って何?誰と比べて言ってるの?」
アシュレイの歩みが近づく。
リリーは後ずさろうとして、ベッドの端に腰を押しやられた。
ドレスの肩がずり落ちる。
白い素肌に、アシュレイの影が落ちる。
「君ね、人に“騎士になる”って言っておいて、今度は“結婚します”って、そんなふうに簡単に切り替えるの?」
責める声ではない。
呆れと、拗ねたような響きが混ざっている。
だからこそ、余計に心臓が痛む。
「……だって、私には、もう……」
「できないから?」
アシュレイの手が伸びる。
顎をすくい上げられ、顔を上向かされる。
距離が、近い。
息が触れる。
紫紺の瞳が、真っ直ぐに彼女だけを映している。
「できないから、別の男のところへ行くの?
僕が“できなくてもいい”って言ってるのに?」
「……っ」
喉が詰まった。
それは、リリーが一番ほしかった言葉だった。
“できなくてもいい”――
“完璧じゃなくてもいい”――
“今のままでもそばにいていい”――
なのに、どうしてそれを本人から言われると、こんなにも泣きたくなるのだろう。
「フェリクスのところへ行くのは勝手だけどさ。」
アシュレイがふっと唇を近づける。
触れるか触れないかのところで止まる。
彼の指が、リリーの背中のはだけた布をそっと直す――かと思えば、逆に少しだけ下へずらした。
「その前に、僕にちゃんと断りを入れて。」
「ど、どうしてアシュレイに……」
「だって、君は僕の騎士になるって、5歳のときに約束したから。」
アシュレイが静かに言う。
リリーは反射的に声を荒げた。
「でも――『騎士なんてやめたら』って言ったの、アシュレイじゃない!」
「……そうだね。」
彼は一瞬だけ目を伏せ、それから真っすぐに見つめ返す。
「でも、あのあと僕はちゃんと伝えようとした。
“騎士じゃなくてもいい、でも君のそばにいてほしい”って。
でも――逃げたのは君だよね?」
囁く声が甘く低い。
耳のすぐそばで震える。
あの執務室での台詞――。
リリーははっと目を見開く。
アシュレイの視線が、あのときと同じ熱を帯びていた。
「最後まで聞かないで逃げるから、こうして迎えに来たんだよ。
……勝手に他の男の婚約者になる前にね。」
指先が、うなじの柔らかな髪をひと束すくう。
くすぐったくて、でもどこか痺れるようで、リリーは思わず肩をすくめた。
「アシュレイ……だめ、近い……」
「5年間あれだけ遠かったんだから近くてもいいよね?」
子供の頃に見せていた、あのわがままなところ。
でも今のそれは、王子としての力と自信が乗っているぶん、ずっとたちが悪い。
「覚えておいて。
君が“できない”ままでいてくれるのはいい。
でも、“僕以外のところへ行く”って決めるのは、別の話だよ。」
そう言って、アシュレイはようやく手を離した。
けれどその目にはまだ怒りが残っている。
「……次にそのフェリクスとかいうやつと会うときは、先に僕に言うこと。
言わなかったら――本当に奪いに行くから。」
扉に向かう足音が遠ざかる。
ぱたん、と静かに閉じる音。
残されたリリーは、ベッドの端で胸を押さえていた。
鼓動が、なかなかおさまらない。
(……何それ。ずるい……)
騎士として否定されたときより、
縁談を受けたときより、
今の方がずっと苦しい。
でも――どこかで思ってしまった。
(……行くな、って言ってくれて、嬉しかった)
ノルティアの真相は、まだ分からない。
でも、ひとつだけはっきりしたことがある。
“完璧じゃなくなった自分”を、誰かは要らないと言い、
“完璧じゃなくなった自分”を、誰かは離したくないと言う。
どちらを向くべきか、まだ答えは出せないまま、夜が更けていった。
――“逆転の女神ノルティア”。
名前がわかっただけで、こんなにも世界がはっきりして見えるなんて。
5年前のあの夜、森で壊してしまった石碑。あれが何かの“きっかけ”だったのだと、ようやく自分でも言葉にできる気がした。
だが、家に戻ったとたん、その高揚はあっけなく現実に引きずり下ろされる。
「リリアンヌ。ちょうどよかった。話がある。」
父モールスが応接間に彼女を呼びとめた。いつもの穏やかな父の声より、ほんの少しだけ固い。嫌な予感がしてリリーは背筋を伸ばす。
「……縁談の件、覚えているな?」
ああ、と喉の奥で声にならない息が漏れた。
あの時期だ。アシュレイに「騎士なんてやめたら?」と言われ、心が折れて、何もかもどうでもよくなっていた頃。
“じゃあ、公爵令嬢としての普通の道を歩めばいい”
そう自分で蓋をしてしまった頃に、ちょうど持ち上がった話だった。
「フェリクス侯爵家のご子息エドモンド様が、正式に顔合わせを望んでおられる。向こうはとても好意的だ。お前も……承諾してくれていたな?」
していた。
確かに言った。
“もう、騎士じゃなくてもいいかもしれない”と。
あのときは、それが逃げ場に思えた。
けれど今は――。
(……でも、まだ何も解決してないのに)
ノルティアの名はわかった。けれど、どうすれば逆転を戻せるのか、まだ何も掴んでいない。
“元に戻れるかもしれない”という細い希望が生まれたばかりなのに、ここで婚約を決めてしまったら、その道を自分で塞ぐことになる。
それでも、父と母は嬉しそうだった。
母エリサは目を潤ませさえしている。
「リリー、あなたが幸せになれる話なのよ。騎士団で苦労ばかりするより、あなたには穏やかな生活が似合うわ。……ずっと心配していたの。あなた、勉強も剣も、あんなに得意だったのに……無理をしているのかと思って」
無理は、している。
でもそれは――「辞めろ」と言われたいわけじゃない。
“できないままでもそばにいていい”と、誰かに言ってほしいだけだ。
「……わかりました。お会いします。」
結局リリーはそう答えた。
父母の表情がふっと和らぐ。
その顔を見たら、もうそれ以上「嫌」とは言えなかった。
◇
フェリクス侯爵家が指定したのは、王都の中心にある邸宅風のサロンだった。
高い天井、シャンデリア、古い音楽が小さく流れている。
リリーは淡いライラック色のドレスに着替えさせられ、公爵令嬢らしい姿で現れた。胸元も裾も控えめで、剣を持つ時とはまるで別人だ。
先に待っていたのは、穏やかそうな青年だった。
柔らかく茶を帯びた金髪、整った顔立ち、眼鏡。
――いかにも“頭の切れる侯爵家の後継ぎ”という印象。
「初めまして、リリアンヌ様。フェリクス家のエドモンドと申します。お噂は、たくさん伺っておりますよ。」
丁寧で、嫌味がない。
笑うと目元に優しい皺が寄る。
リリーは思わず姿勢を正した。
「お噂……ですか?」
「ええ。公爵家のご令嬢でありながら、シリウス騎士学校に進まれたとか。なかなかできることではない。私は、そういう方を尊敬します。」
まっすぐにそう言われて、少しだけ胸が温かくなった。
――できないところばかりを見られてきた5年間だったから。
“騎士になろうとした”こと自体を褒められるのは久しぶりだった。
「でも……私は、あまり良い成績では……」
「努力の過程を大切にされる方だと聞いています。私は、出来の良さよりも、そういう部分の方が好きですよ。」
にこり、と。
その笑顔は本当に優しかった。
手の甲に触れようとしたその手を、リリーは反射的にテーブルの上に引っ込める。
「あっ……す、すみません!」
「いえ、とんでもない。無理をさせるつもりはありません。」
本当にいい人なのだ。
この人と結婚すれば、きっと穏やかで平和な日々が来る。
剣を持てなくても、誰も失望しない。
朝起きて、手が重くても、「今日は休んでいい」と言ってくれるような――そんな人生。
けれど。
(……じゃあ、どうしてアシュレイの顔が浮かぶの)
銀色の髪、紫紺の瞳。
彼が、もしこの場面を見たら――どんな顔をするだろう。
そう考えた瞬間、胸の奥がずき、と痛んだ。
◇
その“場面”が、思いもよらぬ速度で王宮に届いたのは、その日の夕刻だった。
「リリアンヌ・クラウド嬢、フェリクス家との婚約に前向き、とのことです。」
事務的にそう報告したのは、アシュレイの近侍だ。
軽い世間話のように「公爵家もようやくご令嬢の将来を――」と言いかけたところで、ぱしん、と音を立ててアシュレイが机の上の羽ペンを弾いた。
紫紺の瞳が、すうっと冷える。
「誰が。」
「え?」
「誰が、それを許可したって?」
近侍は一瞬、答えられなかった。
王子がここまで露骨に表情を変えたのを見るのは、久しぶりだったからだ。
「……リリーは、僕のところに何も言ってない。」
「殿下、それはごプライベートな――」
「プライベートじゃない。」
声が低くなる。
部屋の空気が、一気に張りつめた。
「彼女は、僕の――」
そこまで言って、アシュレイは口を噤んだ。
“僕のもの”とは、まだ言っていない。
でも、心の中にはとっくにそう刻んでいる。
「馬車を出して。クラウド公爵家へ行く。」
「こ、こんな時間にですか。殿下、今は――」
「今行くんだよ。」
王子の声ではなく、ただ“少年のまま大きくなった独占欲”のような響きだった。
◇
夕暮れのクラウド公爵邸。
使用人たちは突然の王子の来訪に慌てふためき、モールス公爵が大急ぎで客間へと案内する。
「アシュレイ殿下。おひさ――」
「リリーは?」
挨拶もそこそこに、アシュレイは問いかけた。
公爵が一瞬だけ目を伏せる。
「……自室にいます。しかし、今日は少し疲れて――」
「話をするだけです。」
それだけを言って、アシュレイは勝手知ったるように階段を上がっていった。
子供の頃、何度も遊びに来た家だ。
リリーの部屋の場所は、変わっていない。
扉の前で一度だけ、ノックをする。
「リリー。」
「……はい?」
中から戸惑った声がする。
扉を開けたリリーは、ドレスを半分だけ脱ぎかけていた。
背中のホックを途中まで外してしまっていたせいで、白い肩がちらりと覗く。
「えっ……アシュレイ!? ちょっと、こんな時間にどうして――」
言い終わる前に、彼は部屋の中へ入っていた。
扉が閉まる。
静かな、けれど逃げ場のない空気が広がる。
「フェリクス家との話、本気なの?」
真正面から射抜くような目。
リリーは思わず視線を逸らす。
「……お父様が、喜んでいたから。私も、そろそろ……」
「“そろそろ”って何?誰と比べて言ってるの?」
アシュレイの歩みが近づく。
リリーは後ずさろうとして、ベッドの端に腰を押しやられた。
ドレスの肩がずり落ちる。
白い素肌に、アシュレイの影が落ちる。
「君ね、人に“騎士になる”って言っておいて、今度は“結婚します”って、そんなふうに簡単に切り替えるの?」
責める声ではない。
呆れと、拗ねたような響きが混ざっている。
だからこそ、余計に心臓が痛む。
「……だって、私には、もう……」
「できないから?」
アシュレイの手が伸びる。
顎をすくい上げられ、顔を上向かされる。
距離が、近い。
息が触れる。
紫紺の瞳が、真っ直ぐに彼女だけを映している。
「できないから、別の男のところへ行くの?
僕が“できなくてもいい”って言ってるのに?」
「……っ」
喉が詰まった。
それは、リリーが一番ほしかった言葉だった。
“できなくてもいい”――
“完璧じゃなくてもいい”――
“今のままでもそばにいていい”――
なのに、どうしてそれを本人から言われると、こんなにも泣きたくなるのだろう。
「フェリクスのところへ行くのは勝手だけどさ。」
アシュレイがふっと唇を近づける。
触れるか触れないかのところで止まる。
彼の指が、リリーの背中のはだけた布をそっと直す――かと思えば、逆に少しだけ下へずらした。
「その前に、僕にちゃんと断りを入れて。」
「ど、どうしてアシュレイに……」
「だって、君は僕の騎士になるって、5歳のときに約束したから。」
アシュレイが静かに言う。
リリーは反射的に声を荒げた。
「でも――『騎士なんてやめたら』って言ったの、アシュレイじゃない!」
「……そうだね。」
彼は一瞬だけ目を伏せ、それから真っすぐに見つめ返す。
「でも、あのあと僕はちゃんと伝えようとした。
“騎士じゃなくてもいい、でも君のそばにいてほしい”って。
でも――逃げたのは君だよね?」
囁く声が甘く低い。
耳のすぐそばで震える。
あの執務室での台詞――。
リリーははっと目を見開く。
アシュレイの視線が、あのときと同じ熱を帯びていた。
「最後まで聞かないで逃げるから、こうして迎えに来たんだよ。
……勝手に他の男の婚約者になる前にね。」
指先が、うなじの柔らかな髪をひと束すくう。
くすぐったくて、でもどこか痺れるようで、リリーは思わず肩をすくめた。
「アシュレイ……だめ、近い……」
「5年間あれだけ遠かったんだから近くてもいいよね?」
子供の頃に見せていた、あのわがままなところ。
でも今のそれは、王子としての力と自信が乗っているぶん、ずっとたちが悪い。
「覚えておいて。
君が“できない”ままでいてくれるのはいい。
でも、“僕以外のところへ行く”って決めるのは、別の話だよ。」
そう言って、アシュレイはようやく手を離した。
けれどその目にはまだ怒りが残っている。
「……次にそのフェリクスとかいうやつと会うときは、先に僕に言うこと。
言わなかったら――本当に奪いに行くから。」
扉に向かう足音が遠ざかる。
ぱたん、と静かに閉じる音。
残されたリリーは、ベッドの端で胸を押さえていた。
鼓動が、なかなかおさまらない。
(……何それ。ずるい……)
騎士として否定されたときより、
縁談を受けたときより、
今の方がずっと苦しい。
でも――どこかで思ってしまった。
(……行くな、って言ってくれて、嬉しかった)
ノルティアの真相は、まだ分からない。
でも、ひとつだけはっきりしたことがある。
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