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ロウファン国は、四季の移ろいとともに大地の色を変える広大な国だ。
雪解け水を集めて流れるリュウカン川は、国の中央を横切りながら何本もの水路へと姿を変え、田畑を潤し、やがて他国へと繋がる交易路となる。
川辺の港には諸国から商人たちが集い、荷馬車と掛け声が行き交う。
賢帝エンジュの治世となって数年、ロウファンは穏やかで、豊かで、安定した国として人々の口に上るようになっていた。
だが、その外縁では――絶えず、飢えた獣のような影が揺れている。
西に隣接する国、ザンザ。
かつて敵将ソウガが仕えたその国は、慢性的な干ばつと悪政に蝕まれ、じわじわと国力を削られていた。
それでも、ザンザ王は諦めない。
諦めるべきところで諦めず、救うべきところを救わない。
彼の目に映るのは、自国民の干からびた指ではなく、ロウファンの豊かな水源だった。
◇ ◇ ◇
「どうかされましたか? エンジュ様」
高い窓から差し込む光を背に、皇帝の隣へと歩み寄ってきたのは、豊かな亜麻色の髪を高く結い上げた女だった。
鮮やかな紅を引いた眦が、柔らかな笑みの形にゆるむ。
皇后ハルファ。
ロウファンの玉座に仕える妃であり、エンジュが公の場で「唯一、遠慮なく愚痴を言える相手」と称する女性でもある。
「ザンザの様子がおかしいな」
窓から遠くの山並みを眺めていたエンジュは、低く呟いた。
「また戦になるかもしれない」
「……やはり、ですか」
ハルファの表情から笑みが薄れる。
ザンザはロウファン西部の水源地帯を狙い、過去に何度も小競り合いを起こしてきた。
大規模な戦のたびに痛い目を見ているはずなのに、懲りる気配がない。
エンジュは短くため息をついた。
「ロウファンに攻め入る暇があれば、自国の国民を救ってやればいいものを」
窓の外、遠くに霞む山々の向こう側に、ザンザの乾いた大地がある。
そこに暮らす民の暮らしぶりを、エンジュは報告書や密偵の報せを通して知っていた。
「勝てもしない戦に軍費をつぎ込み続ける……愚かとしか言いようがない王だ。ザンザの民が気の毒になる」
「それでも、陛下は戦を避けてはおられません」
ハルファの声は静かだった。
「ロウファンを守るために、ですわね」
「ああ」
エンジュは頷く。
「うちは川も肥よくな土地もある。その分、狙われる。
放置すれば、ザンザの余裕はますます失われるだろう。そうなれば、また無謀な兵を差し向けてくる。……被害が広がる前に、動かざるを得ない」
軽く拳を握った指先に、皇帝としての覚悟が滲んだ。
「それに――」
「それに?」
「ザンザには、ロウファンの将を何度も煩わせた“青狼”がいた。
ソウガ。あの男のような者がもういないのなら、なおさら、今のうちに決着をつけた方がいい」
ハルファが小さく首を傾げる。
「“いた”ではなく、“いる”ではありませんか?」
エンジュの口元に、わずかな苦笑が浮かんだ。
「……そうだな。“いる”だったな」
ザンザの青狼は、今はロウファンの王都にいる。
皇帝の直臣アマツキ家の屋敷に、捕虜でありながら“夫”として。
「イサナは、どうなさるおつもりでしょうね」
ハルファがぽつりと呟いた。
アマツキ家の当主にして女将軍。
友であり部下であり、幼い頃からエンジュにとっては“妹”のような存在だった。
「さあな。……それを確かめるためにも、軍議を開くとしよう」
エンジュは窓から視線を外し、踵を返した。
◇ ◇ ◇
軍議の間に集められた顔ぶれは、どれもロウファン屈指の武人たちだった。
地図の上に並ぶ駒が、ザンザとの国境線に密集している。
斥候からの報せでは、小規模な部隊がすでに西側の峠を越えようとしているという。
「ザンザがまた水源を狙って動き出した以上、放置はできぬ」
エンジュは静かに告げた。
「先手を打つ。こちらから部隊を出し、叩き返す」
ざわめきが走る。
イサナは地図の上から視線を離さなかった。
ザンザとの戦は、これで何度目になるだろう。
地形。水路。補給線。
過去の経験から、どこに罠を仕掛ければいいか、どこを突かれれば痛いか、嫌でも頭に入っている。
「――“青狼”を連れて行くべきかと存じます」
年嵩の将が、恐る恐るといった口調で口を開いた。
「ソウガ殿は、ザンザの地理も城砦の構造も、内部事情も知り尽くしておられる。
いまや捕虜ではありますが……この局面では、あの知恵を借りるのが最善かと」
別の将官も頷く。
「裏切りの可能性は?」
短く問うたのは、イサナだった。
視線が一斉に彼女へと注がれる。
「もともと敵将です。戦場に立てば、どちらの側につくか――」
「それを縛るために、そなたはあの男を“夫”にしたのだろう?」
エンジュが軽く口を挟んだ。
「イサナ。そなたの目から見て、ソウガはどうだ」
軍議の間に、僅かな静寂が落ちる。
イサナはほんの一瞬、言葉に詰まった。
捕虜。敵将。青狼。
そして――夫。
あの屋敷で静かに茶を飲む姿。
中庭で木剣を交えたとき、危うく倒れそうになった自分の身体を支えた腕の感触。
月に一度、夜をともにしたときの、あの手つき。
胸の内で次々と浮かび上がる像を、イサナはひとつひとつ押し戻した。
「……裏切るなら、とっくに機会はあったはずです」
淡々とした声で言う。
「城の構造も、ロウファンの軍の配置も、あの男は多少なりとも把握している。
けれど、いままでそれを利用しようとした形跡はない。
少なくとも、私の目に映るソウガは――命令に従う兵として扱うに足ると判断します」
エンジュはじっとイサナを見つめ、やがて頷いた。
「では、決まりだな」
皇帝の一言で、軍議の空気が動く。
「ザンザへの出陣部隊には、アマツキ家当主イサナと、その夫ソウガを随行させる。
ソウガはザンザ側の地理と事情を知る者として、今回の戦の“案内人”となる」
その言葉に、イサナの胸がぎゅっと締め付けられた。
(……私はまた、あの男を戦場に返すのか)
捕虜として。
夫として。
そして、気づきたくなくても気づいてしまった、もうひとつの在り方として。
(私の……大切な人として)
その言葉を心の中で形にした瞬間、イサナは自分の喉が渇くのを感じた。
◇ ◇ ◇
出陣の日、空は薄曇りだった。
城門前に整列した兵士たちの列の先頭に、ロウファンの赤い外套を羽織ったイサナの姿がある。
その少し後ろに、地味な軍衣を纏ったソウガが、無言で控えていた。
彼の腰には剣が一本。
かつてザンザの将として振るった剣ではなく、ロウファンで与えられた、どこにでもある剣。
「……行くぞ」
イサナが馬上から声をかけると、ソウガは静かに頷いた。
行列がゆっくりと動き出す。
石畳を踏みしめる蹄の音と、鎧の触れ合う金属音が重なり合う。
ロウファンの都を抜けると、広い大地が広がった。
遠くに霞む山並み。その先にザンザがある。
夕刻、最初の野営地が設けられた。
火が焚かれ、鍋が煮え、兵たちの笑い声とため息が入り混じる。
戦の前夜に似た、独特の張りつめた空気。
イサナは少し離れた場所に、ひとつだけ灯る炎を見つけた。
ソウガだった。
彼は自分の天幕から少し離れた場所に座り、静かに火を見つめている。
兵たちとは距離を置いている。
捕虜であり、元・敵将という立場を考えれば当然の距離感。
イサナは迷った末、足を向けた。
◇ ◇ ◇
野営地の喧騒から少し離れた場所に、パチパチという焚き火の音だけが響いていた。
ソウガがこちらを振り向く。
炎の揺らめきが、その横顔を薄く照らした。
「……どうした」
「別に。見回りよ」
イサナはそう言ってソウガの向かい側に腰を下ろした。
本当は見回りなどとうに済ませている。
焚き火の熱が、頬に当たる。
夜気は冷たく、吐く息も白かった。
「ザンザの地形、だいたいの見取りはついたわ」
「ああ」
ソウガは短く答えたきり、すぐに黙り込む。
沈黙が落ちる。
火のはぜる音だけが、時間を刻んでいた。
(……言わなきゃいけない)
イサナは指先に力を込めた。
膝の上で握った拳が、わずかに震えている。
言葉にするのが怖い。
けれど、言わなければならない。
「ソウガ」
名を呼ぶと、彼は静かに視線を向けてきた。
その瞳は、いつもと変わらない――ように見えた。
だが、イサナの胸の内は、もう以前と同じではない。
「私は……勝手に、あなたを夫にした」
火の色が、にじんだ。
「夫にすると言って、皇帝を説き伏せて、捕虜であるあなたを屋敷に連れて帰った。
それは、あの場で私が選んだことよ」
ソウガは何も言わない。
イサナは続けた。
「……もし、帰りたければ――」
喉がひゅっと鳴る。
言ってしまえば、本当に現実になってしまう気がして。
けれど、言わなければ、彼を鎖で縛ったまま戦場に連れて行くことになる。
「夫に逃げられた妻になっても、いい」
火の音が、やけに大きく聞こえた。
ソウガの表情は変わらない。
ただ、黒い瞳だけが、じっとイサナを見つめている。
「ザンザに戻りたいなら、戻りなさい。
この戦で、ザンザに味方してもいい。……私が勝手に、あなたをロウファンの枠に押し込めたんだから」
言葉を吐き出すたび、胸の奥が削れていくようだった。
(帰ってほしくない。――本当は)
あの屋敷で過ごした日々が、脳裏に浮かぶ。
散らかり放題だった机の上を、黙って整えてしまう手際の良さ。
中庭で木剣を交わしたとき、転びかけた自分を支えた腕の強さ。
肩と腰を揉みほぐされた夜、思わず漏れた声に、自分で驚いた。
月に一度の夜。
同じ寝台の上で、重みを分け合った時間。
(あの生活は、悪くなかった。……むしろ――)
ひとりではない夜があること。
隣に誰かの気配があることが、あんなにも胸を満たしてくれるものだとは思わなかった。
(嬉しかった)
けれど、その言葉を口にすることはできない。
将としての誇りが、女としての本音を押し込めてしまう。
「……それだけ、よ」
イサナはそう締めくくり、視線を火に落とした。
しばらく、沈黙が続く。
夜風が、焚き火の煙を揺らす。
遠くで、兵の笑い声が一度だけあがり、すぐに静まり返った。
ソウガは、ようやく口を開いた。
「……そうか」
短い一言。
イサナはそれ以上何も言えなかった。
怖くて、顔を上げることができない。
しばしの沈黙のあと、ソウガがゆっくりと立ち上がる気配がした。
焚き火の明かりが、彼の影を地面に長く伸ばす。
「イサナ」
名を呼ぶ声は、いつものように抑えられていた。
そこにどんな感情が混じっているのか、イサナには分からない。
顔を上げると、ソウガがこちらを見下ろしていた。
炎の揺らめきが、その瞳の奥を一瞬だけ照らす。
――ほんの少しだけ、寂しそうに見えた。
彼は何も言わなかった。
謝罪も、礼も、約束も、何も。
ただ、わずかに口元をゆるめた。
笑った、のかもしれない。
あるいは、イサナの目が勝手にそう解釈しただけかもしれない。
次の瞬間、ソウガは踵を返した。
焚き火の明かりの輪から外れ、闇の中へと歩み出る。
野営地を囲うテントの列の間を抜け、その先へ。
「……え?」
イサナが立ち上がったときには、すでにソウガの背中は炎の光から離れ、夜の闇に溶けかけていた。
「ソウガ!」
呼び止める声が、夜空に吸い込まれる。
だが、彼は振り返らない。
足音だけが、少しずつ遠ざかっていく。
誰も気づかない。
兵たちは自分たちの火の周りで、明日の戦の話や故郷の話に夢中になっている。
唯一“彼の妻”であるはずのイサナだけが、その背中を目で追っていた。
やがて、ソウガの姿は闇に溶けて見えなくなった。
焚き火の揺らぎだけが残される。
イサナの胸の中に、冷たい穴が開いた。
(……ああ……)
息がうまく吸えない。
胸が痛い。締め付けられる。
(私は……幸せだったんだ)
やっと、言葉になった。
あの家で。
あの男と。
同じ屋根の下で、同じ食卓につき、月に一度、同じ寝台で夜を重ねて。
抱かれた身体が、彼の重みも、温度も、深さも――覚えてしまうほどに。
(ひとりじゃない夜があるのは、こんなにも……)
涙がこぼれそうになった。
けれど、将軍としての意地が、イサナの喉を塞ぐ。
人目もある。ここは戦場の手前だ。
彼女は奥歯を噛み、膝の上で拳を握りしめた。
「……っ」
堪えきれないものが、胸の奥で暴れる。
それでも涙は落とさない。落とすことだけはしたくなかった。
焚き火の火の粉が、夜風にさらわれて消えていく。
その小さな光を見送るように、イサナは黙ってそこに立ち尽くした。
ソウガの気配が完全に遠のいた野営地は、妙に広く感じられた。
彼女の耳に残っているのは、かつて屋敷で聞いた湯気の立つ茶の音と、静かな足音と――
月夜に重なった、低く名前を呼ぶ声だけだった。
雪解け水を集めて流れるリュウカン川は、国の中央を横切りながら何本もの水路へと姿を変え、田畑を潤し、やがて他国へと繋がる交易路となる。
川辺の港には諸国から商人たちが集い、荷馬車と掛け声が行き交う。
賢帝エンジュの治世となって数年、ロウファンは穏やかで、豊かで、安定した国として人々の口に上るようになっていた。
だが、その外縁では――絶えず、飢えた獣のような影が揺れている。
西に隣接する国、ザンザ。
かつて敵将ソウガが仕えたその国は、慢性的な干ばつと悪政に蝕まれ、じわじわと国力を削られていた。
それでも、ザンザ王は諦めない。
諦めるべきところで諦めず、救うべきところを救わない。
彼の目に映るのは、自国民の干からびた指ではなく、ロウファンの豊かな水源だった。
◇ ◇ ◇
「どうかされましたか? エンジュ様」
高い窓から差し込む光を背に、皇帝の隣へと歩み寄ってきたのは、豊かな亜麻色の髪を高く結い上げた女だった。
鮮やかな紅を引いた眦が、柔らかな笑みの形にゆるむ。
皇后ハルファ。
ロウファンの玉座に仕える妃であり、エンジュが公の場で「唯一、遠慮なく愚痴を言える相手」と称する女性でもある。
「ザンザの様子がおかしいな」
窓から遠くの山並みを眺めていたエンジュは、低く呟いた。
「また戦になるかもしれない」
「……やはり、ですか」
ハルファの表情から笑みが薄れる。
ザンザはロウファン西部の水源地帯を狙い、過去に何度も小競り合いを起こしてきた。
大規模な戦のたびに痛い目を見ているはずなのに、懲りる気配がない。
エンジュは短くため息をついた。
「ロウファンに攻め入る暇があれば、自国の国民を救ってやればいいものを」
窓の外、遠くに霞む山々の向こう側に、ザンザの乾いた大地がある。
そこに暮らす民の暮らしぶりを、エンジュは報告書や密偵の報せを通して知っていた。
「勝てもしない戦に軍費をつぎ込み続ける……愚かとしか言いようがない王だ。ザンザの民が気の毒になる」
「それでも、陛下は戦を避けてはおられません」
ハルファの声は静かだった。
「ロウファンを守るために、ですわね」
「ああ」
エンジュは頷く。
「うちは川も肥よくな土地もある。その分、狙われる。
放置すれば、ザンザの余裕はますます失われるだろう。そうなれば、また無謀な兵を差し向けてくる。……被害が広がる前に、動かざるを得ない」
軽く拳を握った指先に、皇帝としての覚悟が滲んだ。
「それに――」
「それに?」
「ザンザには、ロウファンの将を何度も煩わせた“青狼”がいた。
ソウガ。あの男のような者がもういないのなら、なおさら、今のうちに決着をつけた方がいい」
ハルファが小さく首を傾げる。
「“いた”ではなく、“いる”ではありませんか?」
エンジュの口元に、わずかな苦笑が浮かんだ。
「……そうだな。“いる”だったな」
ザンザの青狼は、今はロウファンの王都にいる。
皇帝の直臣アマツキ家の屋敷に、捕虜でありながら“夫”として。
「イサナは、どうなさるおつもりでしょうね」
ハルファがぽつりと呟いた。
アマツキ家の当主にして女将軍。
友であり部下であり、幼い頃からエンジュにとっては“妹”のような存在だった。
「さあな。……それを確かめるためにも、軍議を開くとしよう」
エンジュは窓から視線を外し、踵を返した。
◇ ◇ ◇
軍議の間に集められた顔ぶれは、どれもロウファン屈指の武人たちだった。
地図の上に並ぶ駒が、ザンザとの国境線に密集している。
斥候からの報せでは、小規模な部隊がすでに西側の峠を越えようとしているという。
「ザンザがまた水源を狙って動き出した以上、放置はできぬ」
エンジュは静かに告げた。
「先手を打つ。こちらから部隊を出し、叩き返す」
ざわめきが走る。
イサナは地図の上から視線を離さなかった。
ザンザとの戦は、これで何度目になるだろう。
地形。水路。補給線。
過去の経験から、どこに罠を仕掛ければいいか、どこを突かれれば痛いか、嫌でも頭に入っている。
「――“青狼”を連れて行くべきかと存じます」
年嵩の将が、恐る恐るといった口調で口を開いた。
「ソウガ殿は、ザンザの地理も城砦の構造も、内部事情も知り尽くしておられる。
いまや捕虜ではありますが……この局面では、あの知恵を借りるのが最善かと」
別の将官も頷く。
「裏切りの可能性は?」
短く問うたのは、イサナだった。
視線が一斉に彼女へと注がれる。
「もともと敵将です。戦場に立てば、どちらの側につくか――」
「それを縛るために、そなたはあの男を“夫”にしたのだろう?」
エンジュが軽く口を挟んだ。
「イサナ。そなたの目から見て、ソウガはどうだ」
軍議の間に、僅かな静寂が落ちる。
イサナはほんの一瞬、言葉に詰まった。
捕虜。敵将。青狼。
そして――夫。
あの屋敷で静かに茶を飲む姿。
中庭で木剣を交えたとき、危うく倒れそうになった自分の身体を支えた腕の感触。
月に一度、夜をともにしたときの、あの手つき。
胸の内で次々と浮かび上がる像を、イサナはひとつひとつ押し戻した。
「……裏切るなら、とっくに機会はあったはずです」
淡々とした声で言う。
「城の構造も、ロウファンの軍の配置も、あの男は多少なりとも把握している。
けれど、いままでそれを利用しようとした形跡はない。
少なくとも、私の目に映るソウガは――命令に従う兵として扱うに足ると判断します」
エンジュはじっとイサナを見つめ、やがて頷いた。
「では、決まりだな」
皇帝の一言で、軍議の空気が動く。
「ザンザへの出陣部隊には、アマツキ家当主イサナと、その夫ソウガを随行させる。
ソウガはザンザ側の地理と事情を知る者として、今回の戦の“案内人”となる」
その言葉に、イサナの胸がぎゅっと締め付けられた。
(……私はまた、あの男を戦場に返すのか)
捕虜として。
夫として。
そして、気づきたくなくても気づいてしまった、もうひとつの在り方として。
(私の……大切な人として)
その言葉を心の中で形にした瞬間、イサナは自分の喉が渇くのを感じた。
◇ ◇ ◇
出陣の日、空は薄曇りだった。
城門前に整列した兵士たちの列の先頭に、ロウファンの赤い外套を羽織ったイサナの姿がある。
その少し後ろに、地味な軍衣を纏ったソウガが、無言で控えていた。
彼の腰には剣が一本。
かつてザンザの将として振るった剣ではなく、ロウファンで与えられた、どこにでもある剣。
「……行くぞ」
イサナが馬上から声をかけると、ソウガは静かに頷いた。
行列がゆっくりと動き出す。
石畳を踏みしめる蹄の音と、鎧の触れ合う金属音が重なり合う。
ロウファンの都を抜けると、広い大地が広がった。
遠くに霞む山並み。その先にザンザがある。
夕刻、最初の野営地が設けられた。
火が焚かれ、鍋が煮え、兵たちの笑い声とため息が入り混じる。
戦の前夜に似た、独特の張りつめた空気。
イサナは少し離れた場所に、ひとつだけ灯る炎を見つけた。
ソウガだった。
彼は自分の天幕から少し離れた場所に座り、静かに火を見つめている。
兵たちとは距離を置いている。
捕虜であり、元・敵将という立場を考えれば当然の距離感。
イサナは迷った末、足を向けた。
◇ ◇ ◇
野営地の喧騒から少し離れた場所に、パチパチという焚き火の音だけが響いていた。
ソウガがこちらを振り向く。
炎の揺らめきが、その横顔を薄く照らした。
「……どうした」
「別に。見回りよ」
イサナはそう言ってソウガの向かい側に腰を下ろした。
本当は見回りなどとうに済ませている。
焚き火の熱が、頬に当たる。
夜気は冷たく、吐く息も白かった。
「ザンザの地形、だいたいの見取りはついたわ」
「ああ」
ソウガは短く答えたきり、すぐに黙り込む。
沈黙が落ちる。
火のはぜる音だけが、時間を刻んでいた。
(……言わなきゃいけない)
イサナは指先に力を込めた。
膝の上で握った拳が、わずかに震えている。
言葉にするのが怖い。
けれど、言わなければならない。
「ソウガ」
名を呼ぶと、彼は静かに視線を向けてきた。
その瞳は、いつもと変わらない――ように見えた。
だが、イサナの胸の内は、もう以前と同じではない。
「私は……勝手に、あなたを夫にした」
火の色が、にじんだ。
「夫にすると言って、皇帝を説き伏せて、捕虜であるあなたを屋敷に連れて帰った。
それは、あの場で私が選んだことよ」
ソウガは何も言わない。
イサナは続けた。
「……もし、帰りたければ――」
喉がひゅっと鳴る。
言ってしまえば、本当に現実になってしまう気がして。
けれど、言わなければ、彼を鎖で縛ったまま戦場に連れて行くことになる。
「夫に逃げられた妻になっても、いい」
火の音が、やけに大きく聞こえた。
ソウガの表情は変わらない。
ただ、黒い瞳だけが、じっとイサナを見つめている。
「ザンザに戻りたいなら、戻りなさい。
この戦で、ザンザに味方してもいい。……私が勝手に、あなたをロウファンの枠に押し込めたんだから」
言葉を吐き出すたび、胸の奥が削れていくようだった。
(帰ってほしくない。――本当は)
あの屋敷で過ごした日々が、脳裏に浮かぶ。
散らかり放題だった机の上を、黙って整えてしまう手際の良さ。
中庭で木剣を交わしたとき、転びかけた自分を支えた腕の強さ。
肩と腰を揉みほぐされた夜、思わず漏れた声に、自分で驚いた。
月に一度の夜。
同じ寝台の上で、重みを分け合った時間。
(あの生活は、悪くなかった。……むしろ――)
ひとりではない夜があること。
隣に誰かの気配があることが、あんなにも胸を満たしてくれるものだとは思わなかった。
(嬉しかった)
けれど、その言葉を口にすることはできない。
将としての誇りが、女としての本音を押し込めてしまう。
「……それだけ、よ」
イサナはそう締めくくり、視線を火に落とした。
しばらく、沈黙が続く。
夜風が、焚き火の煙を揺らす。
遠くで、兵の笑い声が一度だけあがり、すぐに静まり返った。
ソウガは、ようやく口を開いた。
「……そうか」
短い一言。
イサナはそれ以上何も言えなかった。
怖くて、顔を上げることができない。
しばしの沈黙のあと、ソウガがゆっくりと立ち上がる気配がした。
焚き火の明かりが、彼の影を地面に長く伸ばす。
「イサナ」
名を呼ぶ声は、いつものように抑えられていた。
そこにどんな感情が混じっているのか、イサナには分からない。
顔を上げると、ソウガがこちらを見下ろしていた。
炎の揺らめきが、その瞳の奥を一瞬だけ照らす。
――ほんの少しだけ、寂しそうに見えた。
彼は何も言わなかった。
謝罪も、礼も、約束も、何も。
ただ、わずかに口元をゆるめた。
笑った、のかもしれない。
あるいは、イサナの目が勝手にそう解釈しただけかもしれない。
次の瞬間、ソウガは踵を返した。
焚き火の明かりの輪から外れ、闇の中へと歩み出る。
野営地を囲うテントの列の間を抜け、その先へ。
「……え?」
イサナが立ち上がったときには、すでにソウガの背中は炎の光から離れ、夜の闇に溶けかけていた。
「ソウガ!」
呼び止める声が、夜空に吸い込まれる。
だが、彼は振り返らない。
足音だけが、少しずつ遠ざかっていく。
誰も気づかない。
兵たちは自分たちの火の周りで、明日の戦の話や故郷の話に夢中になっている。
唯一“彼の妻”であるはずのイサナだけが、その背中を目で追っていた。
やがて、ソウガの姿は闇に溶けて見えなくなった。
焚き火の揺らぎだけが残される。
イサナの胸の中に、冷たい穴が開いた。
(……ああ……)
息がうまく吸えない。
胸が痛い。締め付けられる。
(私は……幸せだったんだ)
やっと、言葉になった。
あの家で。
あの男と。
同じ屋根の下で、同じ食卓につき、月に一度、同じ寝台で夜を重ねて。
抱かれた身体が、彼の重みも、温度も、深さも――覚えてしまうほどに。
(ひとりじゃない夜があるのは、こんなにも……)
涙がこぼれそうになった。
けれど、将軍としての意地が、イサナの喉を塞ぐ。
人目もある。ここは戦場の手前だ。
彼女は奥歯を噛み、膝の上で拳を握りしめた。
「……っ」
堪えきれないものが、胸の奥で暴れる。
それでも涙は落とさない。落とすことだけはしたくなかった。
焚き火の火の粉が、夜風にさらわれて消えていく。
その小さな光を見送るように、イサナは黙ってそこに立ち尽くした。
ソウガの気配が完全に遠のいた野営地は、妙に広く感じられた。
彼女の耳に残っているのは、かつて屋敷で聞いた湯気の立つ茶の音と、静かな足音と――
月夜に重なった、低く名前を呼ぶ声だけだった。
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