獅子王の運命の番は、捨てられた猫獣人の私でした

天音ねる(旧:えんとっぷ)

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家からの追放1

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 5:断絶
世界から、音が消えた。
激しく降り注ぐ雨音も、遠くで鳴り響く雷鳴も、自分の喉から漏れるか細い嗚咽さえも、もうミミの耳には届かなかった。
ただ、固く閉ざされた扉と、その向こう側から聞こえてきた鍵をかける冷たい金属音だけが、永遠に終わらない悪夢のように、脳内で何度も何度も繰り返される。

退屈だった。
かつて愛した(と、思い込んでいた)男が、最後に投げつけた言葉。
それは、ミミがこれまで捧げてきた献身、愛情、そして彼女の人生そのものを、根こそぎ否定する呪いの言葉だった。

(たいくつ…だった…)

私のいる時間は、退屈。
私の作る料理は、退屈。
私の言葉は、退屈。
私の愛は、退屈。
私という存在そのものが、退屈。

「……あ……ぅ……」

意味のある言葉にならない声が、凍える唇から漏れ落ちる。
どれくらいの時間、そうしていただろうか。降りしきる雨は、ミミの薄い部屋着を通り越し、体温を容赦なく奪っていく。手足の感覚はとうになくなり、全身が氷のように冷え切っていた。
このままここで凍えて死んでしまえたなら、どれだけ楽だろうか。
そう、思った。

しかし、死ぬことさえ、許されない。
ふと、脳裏に、今はもう顔もおぼろげな、幼い頃に亡くなった祖母の言葉が蘇った。
『ミミ。どんなに辛いことがあってもね、命だけは粗末にしちゃいけないよ。生きてさえいれば、いつか必ず、温かい陽の差す日が来るんだからね』

(おばあちゃん…)

温かい陽の差す日、なんて、もう二度と来ない。
私の世界は、もう永遠に、この冷たい雨が降り続く暗闇の中だ。
それでも。
それでも、ここで野垂れ死ぬのは、優しい祖母の思い出まで汚してしまうような気がした。

「……かなきゃ」

どこへ?
行くあてなど、どこにもない。
帰る家も、待っていてくれる人も、もうこの世界のどこにも存在しないのだから。

それでも、ミミは、まるで錆びついたブリキ人形のように、ぎし、ぎし、と音を立てて体を起こした。泥水で汚れた手のひらで、顔を覆う。雨なのか涙なのか、もう分からない雫が、指の間からぽたぽたと滴り落ちた。

震える足で、一歩、また一歩と、覚束ない足取りで歩き出す。
行き先は、決まっていなかった。
ただ、この場所から、幸せだった日々の残骸がこびりついたこの場所から、一刻も早く離れたかった。

夜の闇は、どこまでも深い。
貴族や騎士たちが住む官舎街の豪奢な街灯は、ここではもう届かない。ぬかるんだ道に足を取られ、何度も転びそうになる。そのたびに、どこからか湧いてくる、ほんのわずかな力で、必死に体勢を立て直した。

(そうだ…)

不意に、ミミの心に、一つの場所が思い浮かんだ。
それは、希望と呼ぶにはあまりにもか細く、儚い光。
けれど、今の彼女にとっては、唯一手を伸ばすことのできる、蜘蛛の糸のようなものだった。

実家。

自分が生まれ育った、あの家。
厳格だけれど、本当は優しい父。
心配性で、いつも自分のことを気にかけてくれていた母。
あの二人なら。
血の繋がった両親なら、きっと。
こんな惨めな姿になった娘を、見捨てたりはしないはずだ。

事情を話せば、きっと分かってくれる。
一晩でいい。屋根のある場所で、冷たい雨と風をしのぎ、体を休ませてほしい。
ただ、それだけでよかった。

そのか細い希望だけを道標に、ミミは歩き続けた。
官舎街を抜け、商業地区を通り過ぎ、職人たちが暮らす地区を横切る。
道中、夜警の兵士や、酒場帰りの獣人たちとすれ違った。彼らは皆、ずぶ濡れで泥だらけの、亡霊のようなミミの姿を一瞥すると、気味悪そうに顔を背け、足早に通り過ぎていく。誰も、声をかけてはくれなかった。
今の自分が、誰の目にも、関わるべきではない「何か」に見えているのだと、ミミは痛いほど理解した。

ガロウに言われた罵詈雑言が、繰り返し頭の中でこだまする。
『地味で取り柄のない猫獣人』
『存在そのものが、俺の汚点だ』
イザベラの嘲笑が、耳の奥で鳴り響く。
『思い込みも激しいのね』
『あなたでは不釣り合いだわ』

そのたびに、足が止まりそうになる。
心が、ぽきりと折れてしまいそうになる。
けれど、ミミは奥歯を食いしばり、首を振って、その声を振り払った。

(違う。私は、汚点なんかじゃない。私は、お父様とお母様の大切な娘なんだ)
(家に帰れば、きっと大丈夫。大丈夫なんだから…)

自分に言い聞かせるように、呪文のように、その言葉を心の中で繰り返す。
幼い頃の、温かい思い出が不意に蘇った。
庭の木から落ちて膝を擦りむいた時、血が出るまで自分の指を吸ってくれて、痛いの痛いの飛んでいけ、と唱えてくれた母の優しい笑顔。
初めて一人で裁縫ができた時、ぶっきらぼうな顔をしながらも、「よくやったな」と頭を撫でてくれた、父のごつごつした大きな手のひらの感触。

あの温もりは、本物だったはずだ。
偽りなんかじゃなかったはずだ。

どれくらい歩いただろうか。
降り続いていた雨が、少しずつ小降りになり、東の空が白み始める頃。
ミミは、ようやく見慣れた通りの一角にたどり着いた。
そこには、昔と何も変わらない、彼女が生まれ育った家が、静かに佇んでいた。
こぢんまりとした、石と木でできた、質素だけれど頑丈な家。窓枠に飾られたゼラニウムの鉢植えは、母が丹精込めて育てているものだ。

しかし、かつては世界で一番安心できる場所だったはずの我が家が、今のミミには、まるで乗り越えられない巨大な城壁のように見えた。
家の前にたどり着いた途端、ミミの足は鉛のように重くなり、ぴたりと動かなくなってしまう。

(本当に、入っていいのだろうか)

門の前で、彼女は立ち尽くした。
こんな姿で、どう説明すればいい?
番に捨てられた娘。一族の恥。
そんな娘が、のこのこと戻ってきたら、両親は何と思うだろう。
ガロウ様との結婚が決まった時、あれほど喜んでくれた父の顔。貴族の家にお前を嫁がせることができて、自分は鼻が高いと、親戚中に自慢して回っていた。
その父を、自分は裏切ることになるのではないか。

心臓が、恐怖で早鐘を打つ。
帰りたい。でも、怖い。
帰りたい。でも、顔を見せるのが、怖い。
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