獅子王の運命の番は、捨てられた猫獣人の私でした

天音ねる(旧:えんとっぷ)

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温かさを求めて2

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それは、かつて自分が、愛する夫のために心を込めて作った、あの料理の匂いによく似ていた。牛肉と、香味野菜と、赤ワインがじっくりと煮込まれた、芳醇で、温かな香り。
ミミは、まるで魔法にでもかかったかのように、その匂いに引き寄せられるように、無意識のうちに足を進めていた。

匂いの元は、大通りから少し入ったところにある、一軒の小さな食堂だった。
『森の恵み亭』と書かれた、素朴な木の看板。
窓からは、温かなオレンジ色の光が漏れ、中からは楽しげな人々の笑い声が聞こえてくる。
ミミは、ショーウィンドウに飾られた料理の見本に、釘付けになった。
湯気の立つビーフシチュー、こんがりと焼かれた鳥の丸焼き、色とりどりの野菜が添えられた肉厚のステーキ。
そのどれもが、今のミミにとっては、手の届かない夢の世界の食べ物だった。

ふと、店内の様子が目に入る。
窓際のテーブルでは、小さな子供を連れた家族連れが、幸せそうに食事をしていた。父親らしき狼獣人が、シチューの肉を小さく切って、息子の皿に乗せてやっている。母親らしき兎獣人は、その様子を、愛おしそうに見守っていた。
かつての、自分の姿が、そこに重なる。
いつか、ガロウとの間に子供が生まれたら、きっと、こんな風に、温かい食卓を囲むのだろう。
そう、信じて疑わなかった、あの頃の自分が。

「…………っ!」

胸が、張り裂けそうに痛んだ。
見ていられない。
こんな幸せな光景は、今の自分には、あまりにも眩しすぎて、残酷すぎる。

ミミは、その場から逃げ出すように、踵を返した。
涙が、溢れそうになるのを必死でこらえる。
人々の幸せそうな声が聞こえない場所へ。誰の視線も届かない、暗い場所へ。
彼女は、まるで何かに追われるように、近くにあった、薄暗く、じめじめとした裏路地へと、転がり込むように駆け込んだ。

どん、と背中を壁に打ち付ける。
そのまま、ずるずると、その場に崩れ落ちた。
もう、一歩も、動けない。
指の先から、急速に力が失われていく。
視界が、ぐにゃりと歪み、白く霞んでいく。

(ああ…ここで、終わりなんだ…)

遠のく意識の中、ミミはぼんやりと思った。
故郷を捨て、王都まで来たけれど、結局、何も変わらなかった。どこへ行っても、私に居場所なんてなかったんだ。

(おばあちゃん…ごめんなさい…)

最後に、優しい祖母の顔が浮かんだ。
生きてさえいれば、温かい陽の差す日が来ると、そう言ってくれた。

(私…もう、頑張れないよ…)

心の中で、そう謝罪した、その時だった。

「――お嬢ちゃん、大丈夫かい?」

不意に、頭の上から、声が降ってきた。
低く、少ししゃがれていて、それでいて、不思議な温かみと、芯の通った力強さを感じさせる、女の声だった。
ミミは、ほとんど動かなくなった首を、最後の力を振り絞って、ゆっくりと、ゆっくりと、持ち上げた。

逆光の中に、誰かが立っていた。
山のように、大きな影。
目が霞んで、はっきりと姿を捉えることはできない。けれど、その影は、まるで後光でも差しているかのように、温かく、大きく見えた。

「こんなところで寝てたら、風邪ひくどころか、悪い奴らに何をされるか分かったもんじゃないよ」

声の主は、呆れたように、しかし、その口調とは裏腹に、どこか心配そうな声音で続けた。

ミミは、かすむ目で、必死に目の前の影に焦点を合わせようとする。
ようやく見えてきたのは、自分が見上げるほどに背の高い、恰幅のいい、熊獣人の女性の姿だった。
日に焼けた健康そうな肌。働き者であることを示す、太く、逞しい腕。年季の入った、少し汚れたエプロン。そして、深いシワが刻まれた目元で、こちらを心配そうに覗き込んでいる、優しい、茶色い瞳。

「…ひでぇ顔だねぇ」

女性は、ミミの惨状を見ても、驚くでもなく、眉をひそめるでもなく、ただ、ため息をついた。

「こりゃ、腹が減ってるだけじゃなさそうだ。どこか、悪いのかい?」

ミミは、何か答えようとした。
大丈夫です、と。放っておいてください、と。
しかし、喉はカラカラに乾ききり、唇はひび割れて、ひゅう、ひゅう、と、か細い息が漏れるだけだった。

ミミがもう、返事をする力も残されていないことを悟ると、女性は、「ったく、しょうがないねぇ」と、もう一度、今度は諦めたように呟いた。
そして、屈強な熊獣人ならではの、しかし、予想外に優しい手つきで、ミミの額にそっと触れた。

「…おやまあ、ひどい熱じゃないか。こりゃいけない」

そう言うと、彼女は、次の瞬間、いともたやすく、ミミの体をその太い腕の中へと抱え上げた。
まるで、軽い毛布でも持ち上げるかのように。

「え…?」

あまりに突然のことに、ミミの意識が一瞬だけ、はっきりと覚醒する。
しかし、抵抗する力など、どこにも残されていなかった。

「ちょっと我慢しなよ。すぐに温かい場所に連れてってやるからさ」

ぶっきらぼうな、けれど、不思議なほど安心できる声。
ミミの体は、その女性の、分厚い胸板に、すっぽりと包まれる。
ごつごつしているけれど、温かい。
石鹸と、そして、先ほど嗅いだ、あの美味しそうなシチューの匂いが、その人からはした。

女性は、ミミを抱きかかえたまま、しっかりとした足取りで、薄暗い裏路地から、明るい通りへと歩き出す。
ミミの薄れゆく意識が、最後に捉えたのは、カラン、という、軽やかで、優しい、店の扉のベルの音だった。

(…あったかい…)

その温もりに包まれながら、ミミの意識は、安堵に満たされた、深く、静かな闇の中へと、静かに、静かに、落ちていった。
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