25番目の花嫁 ~妹の身代わりで嫁いだら、冷徹公爵が私を溺愛し始めました~

朝日みらい

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第7章 夜明けの毛布

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 春も終わりに近づくころ、公爵領は花と光に満ちておりました。  
 わたしの整えた薬草園にも、小鳥がさえずり、領民の子どもたちが楽しそうに駆けまわっています。

 ……ええ、泥だらけです。もちろん“わたしも”。

 「リリア様! またそんなところで膝をついて! お召し物が……!」
 侍女のメアの声が悲鳴めいて聞こえましたが、気づかぬふりです。
 「これで根が呼吸できます。もう少し空気に触れさせてあげないと」

 草の葉を一枚つまみ、日の光に透かしてみます。  
 薄緑の葉脈。その小さな命の線を見ていると、不思議なほど心が落ち着くのです。

 「はあ……こんな夫人、フィラーデン王国じゅう探してもいませんよ」
 メアが呆れつつ笑うので、つられて笑ってしまいました。  
 以前は笑い合うことなんてできなかったのに。  
 少しずつ、わたしにも“居場所”ができてきた――そんな気がしました。

 しかし、世の中というものは、静かな日々を長くは許してくれません。
 

 それは、領地の貴婦人たちがヴァレンティーヌ邸を訪れた日のことでした。  
 アレクシス様の代理としてわたしがお茶会の主催を務める。  
 まさか、それが“試練の日”になるとは思いもせずに。

 「まあ、これが噂の薬草園? ……夫人自ら土をいじられるとか」
 「信じられませんこと。“氷の公爵”も、ずいぶん変わった趣味を」

 響く笑い声に、わたしは笑顔のままティーカップを置きました。  
 正直、聞き流すことなど慣れているはずでした――けれど、この時ばかりは胸が痛みました。

 「薬草を栽培しているだけです。領民のためにも役立ちますから」
 「まあ、領民のため? 公爵夫人なら、もう少し優雅に振る舞われたほうがよろしいのに」
 「まるで薬草屋の娘みたいだわ」

 その言葉に、会場の空気がくすくすと笑いに染まりました。

 指先が震えます。  
 頭では理解していても、“侮り”はやはり慣れません。  
 けれどわたしは微笑んだまま、視線を落としました。

 (いいのです。わたしがどんな風に見られても――薬草が人を救うことを、知っていれば)

 

 ところが、その穏やかな笑みの奥で、別の視線がじっとわたしを見ていたのでした。  
 アレクシス様です。

 領地の報告会議があったはずなのに、いつの間にか現れており、  
 廊下の奥からお茶会の様子を一部始終見ていらっしゃったようでした。

 貴婦人たちはすぐに姿勢を正しましたが、もう遅いことに気づいていません。  
 アレクシス様の瞳は、氷より冷たく、静かでした。

 「……お前たちは何をしている」

 一言、それだけ。  
 低い声が響いた瞬間、部屋中の空気が凍りつきました。

 「こ、これは……! ご挨拶を――」
 「言い訳は要らん」

 アレクシス様が口を開くたびに、誰もが息を潜めました。  
 「私の妻は、この地を癒やす者だ。泥にまみれようと、花を育てようと、それがこの領を豊かにする。  
 ――それを笑う者は、私の名をも侮辱するのと同じだ」

 静かな声。怒号でも叱責でもないのに、その場にいた者すべてが震えました。

 「我が妻を“泥仕事”と呼ぶことは二度と許さぬ」

 貴婦人たちが青ざめて一斉に頭を下げ、逃げるように退散していきました。

 

 残されたのは、わたしとアレクシス様だけ。  
 沈黙の中、足音が近づきます。

 「リリアーナ」
 名前を呼ばれただけで、なぜだか涙がこみあげてしまいました。

 「その……ご迷惑をお掛けして、申し訳ありません」
 「迷惑などではない」

 近づいた彼の手が、そっとわたしの頬に触れました。  
 指先が驚くほど柔らかくて、温かくて――。

 「俺が黙っていたのが悪かった。……お前の努力が、誰も知らぬままなのが許せなかった」

 それ以上、何も言えませんでした。  
 視界が霞んで、気づけば彼の胸元の黒い外套に涙の跡を落としていました。

 「泣くな」
 「そんな、泣くつもりなんて……あの、その、アレクシス様が……!」

 焦るわたしに、彼は少しだけ困ったように言いました。  
 「お前が泣くと、見えなくなる。……俺が、どう伝えるべきだったのかも」

 公爵様が……困惑している?  
 その事実が、なんだかおかしくて。  
 涙の合間に、思わず笑ってしまいました。

 「……困らせてすみません。でも、うれしいです。私の努力を見ていてくださって」

 「当然だ。お前の働きは、この地の春よりも価値がある」

 わたしはその言葉を胸の奥で大切に抱きしめました。  
 そして、勇気を出して彼の手を取ります。  
 「ありがとうございます、アレクシス様」

 彼は驚いたように目を見開き、次の瞬間、小さく息を吐きました。  
 「……全く、お前という人は」

 ですがその声には、確かな温度がありました。

 

 その夜。  
 部屋に戻ってもしばらく眠れませんでした。  
 昼間の出来事を思い出すたび、頬が熱くなってしまうのです。

 ――公爵様が、私を「妻」と呼んでくださった。

 契約婚と言われていたのに。形式だけの関係だと思っていたのに。  
 その一言が、あまりにも心に響きすぎて。

 

 外を流れる風が、かすかに雨を含んでいるようでした。  
 しとしとと窓に当たる水音を聞きながら、ベッドの上で目を閉じかけたその時です。

 ――ノックの音。

 「……リリアーナ、起きているか」

 あの声。静かなのに、胸の奥まで響く声。  
 「はい、少しだけ」

 ドアを開けると、アレクシス様が立っていらっしゃいました。  
 灰色の上着に、片手には厚い毛布が抱えられています。

 「昼のことで疲れただろう。風邪をひくな」

 そのまま、彼は毛布をわたしの肩にかけてくださいました。  
 まるで日向の布のように温かくて、頬がまた熱くなります。

 「アレクシス様……ありがとうございます。でも、そんな、ご自分で――」

 「使用人を起こすと騒がしい。……俺がやった方が早い」

 そう言って肩口を直してくださる手の動きがやさしすぎて、  
 喉が詰まったように声が出ませんでした。

 ふと見上げれば、近くにある彼の瞳が――夜明けの灰色の光を宿して見えました。  
 凍てつく冬の空のようだと思っていたその目が、いまは不思議なほど柔らかい。

 「お前がこの屋敷に来てから、夜が長くなくなった」

 「……わたし、ですか?」

 「灯りを絶やさず働く者がいると、不思議と孤独を忘れる」

 静かな声。  
 それはまるで、遠い昔に自分の中へ閉じこめた痛みを語るような口調でした。

 わたしは毛布を握りしめ、思わず言いました。  
 「わたしは、ここにいます。アレクシス様がどんな夜でも――」

 言いかけて顔が真っ赤になりました。  
 言いすぎです、これではまるで告白ではありませんか!

 でも、アレクシス様は笑いませんでした。  
 ただ、そっとわたしの髪に触れて言いました。

 「……分かった。覚えておこう」

 その仕草があまりにやさしくて、胸がぎゅっと痛くなる。  
 彼の手が髪を撫でるたび、春の風よりも穏やかに心がほどけていきました。
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