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第8章 王都からの呼び声
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その手紙が届いたのは、春がゆっくりと夏へ移ろい始めたころでした。
新しく芽吹いた薬草たちが風に揺れる、穏やかな午後のことです。
「リリア様、王都からの封書でございます」
執事のグレゴールが差し出した白い封筒には、懐かしい印章が押されていました。
それを見た瞬間――胸の奥が少しだけざわめきます。
読み慣れた紋章。見間違えるはずがありません。
エインズワース侯爵家、つまりわたしの生家のものです。
嫌な予感というのは、たいてい当たるものですね。
「セリーヌが……重病?」
思わず声が震えました。
手紙の文面には、妹の病状と、“公爵夫人にしか頼めない”という一文が綴られていました。
“妹の命を救えるのは、薬草の心得を持つあなたしかいない”
ああ……どれほど久しぶりに、この名前を自分で呼んだことでしょう。
この領地に嫁いでから、“エインズワース”という響きを避けて生きてきたのに。
メアが心配そうに覗き込みます。
「リリア様……どうなさるのですか?」
胸の奥で、二つの声がせめぎ合っていました。
――帰りたくない。あの家に、あの人たちに。
けれど同時に――。“助けを求めているなら、見捨てたくない”。
結局のところ、わたしは昔から変われないのです。
「……準備をしてください、メア。王都へ行きます」
「え? すぐ……ですか?」
「はい。今この瞬間にも、命の灯は短くなっているかもしれません」
静かに、けれどはっきりと告げました。
言葉を交わす間にも、どこかで扉の音がしました。
振り向くと――アレクシス様が廊下の影からこちらを見ていらっしゃいました。
「王都へ行くつもりか」
「……ご存知でしたか」
いつも通り冷静な表情。けれど、どこか翳りがあるように感じます。
「手紙を見た。行く必要はない。王家にかかわる話になりかねない」
「ですが、病人です。たとえ誰であっても、見殺しにはできません」
「無謀だ」
短く切り捨てられたその声に、思わず胸が締めつけられました。
「危険なのは分かっています。でも……あの人は、私の妹です。せめて薬を届けたいのです」
アレクシス様はしばらく黙ったままでした。
長い沈黙のあと、低く呟かれた言葉が風音に溶けていきます。
「……お前は昔から、そうなのだな」
「え?」
「自分を顧みず、他人を救おうとする」
こちらに視線を向けないまま、彼の表情は深い陰を落としていました。
ほんの一瞬、過去の傷が覗いたように見えます。
「お前の“優しさ”は時に、俺には恐ろしい」
「恐ろしい、ですか?」
「そうだ。また誰かを失いたくない」
その一言に、喉の奥が焼けるようになりました。
……心配してくださっている。それが伝わっただけで、胸がもう痛くて。
「大丈夫です。私を信じてください。必ず無事に戻ります」
彼の瞳が揺れ、そして息を吐く音が聞こえました。
「……分かった。ただし、護衛として兵を三人付ける。拒むな」
「……はい」
出立の日は、思いのほか早く巡ってきました。
霧に包まれた早朝の庭園。薬草の香りが風に乗って淡く広がります。
馬車のそばでは、メアが荷物の確認をしており、グレゴールが「殿下の許可を得た旅路だ。無茶はするな」と釘を刺していました。
その背後で、黒い外套の影が動きます。
アレクシス様です。
「出立の前に、一つ言っておく」
彼はわたしの荷を一瞥すると、いつもの低い声で続けられました。
「何があっても、迷うな。後ろを振り返るな。――俺を信じろ」
「……はい」
「そして、俺を信じられなくなったら……その時はもう、戻ってくるな」
胸の奥が小さく震えました。
それは突き放すようでいて、深い決意のこもった言葉でした。
わたしはそっと微笑みました。
「……大丈夫です。信じています。あなたは、きっと守ってくださる方だから」
少しの間だけ、沈黙が落ちます。
その次の瞬間、アレクシス様の指先が――わたしの額に触れました。
ひやりとした感触。けれど、とてもやさしい。
「……無事で帰れ」
その声は、春の雪解けよりも静かで、確かに温かかった。
馬車の扉が閉まると、メアがそっと声を潜めます。
「リリア様、本当に行ってしまうのですか? 公爵様……すごく心配されてましたよ」
「わかっています。でも、私が行かなきゃ……」
「うーん……でも、どうしてあんな怖い顔して送り出すんでしょうねえ。素直じゃないなあ」
思わず苦笑してしまいました。
そう、あの方はいつも不器用なのです。優しさを言葉にできない人。
車輪が動き出し、屋敷の門が遠ざかっていきます。
窓の外には、曇り空の下でひときわ目立つ黒いコートの影。
その姿が小さくなるまで、わたしは目を離せませんでした。
「……アレクシス様。次にお会いする時、胸を張って“帰ってきました”と言えるように」
王都までの道は長く、夜には雨も降りました。
揺れる馬車の中、ランプの灯がかすかに揺れて、メアがため息をつきます。
「うう、腰が痛いです。公爵様、きっと追ってきますよ、こんな旅」
「……まさか。公爵様はわたしを信じてくれています」
わたしは首を横に振りました。
「でも結局、アレクシス様は奥さまから目が離せないんですよ」
その瞬間、胸の奥にぽっと灯りがともるようでした。
まるで“薬草園の灯”が再び心に戻ってきたみたいに。
夜更け。窓の外では、雲の切れ間から星がのぞいていました。
心の中で、誰にも聞こえない祈りを捧げます。
――セリーヌ。どうか生きていて。
どれほどあなたに傷つけられても、私はあなたを見捨てることはできないの。
そう、わたしが“25番目の花嫁”としてここに立てているのは、過去の痛みがあったからこそ。
あの痛みが、わたしを強くしてくれた。
翌朝、王都の尖塔がかすかに見え始めました。
懐かしい街並み。けれどそこに帰ることが“居場所”ではないことを、いまなら知っています。
メアがふっと笑いました。
「ほら見てください、リリア様。公爵様の言った通り、夜が明けました。素敵な朝ですね」
わたしは窓を開けて春の風を吸い込みました。
「ええ。夜は必ず明けるわね」
静かに、でも確かに。
新しい陽の光が旅路を照らしていきます。
新しく芽吹いた薬草たちが風に揺れる、穏やかな午後のことです。
「リリア様、王都からの封書でございます」
執事のグレゴールが差し出した白い封筒には、懐かしい印章が押されていました。
それを見た瞬間――胸の奥が少しだけざわめきます。
読み慣れた紋章。見間違えるはずがありません。
エインズワース侯爵家、つまりわたしの生家のものです。
嫌な予感というのは、たいてい当たるものですね。
「セリーヌが……重病?」
思わず声が震えました。
手紙の文面には、妹の病状と、“公爵夫人にしか頼めない”という一文が綴られていました。
“妹の命を救えるのは、薬草の心得を持つあなたしかいない”
ああ……どれほど久しぶりに、この名前を自分で呼んだことでしょう。
この領地に嫁いでから、“エインズワース”という響きを避けて生きてきたのに。
メアが心配そうに覗き込みます。
「リリア様……どうなさるのですか?」
胸の奥で、二つの声がせめぎ合っていました。
――帰りたくない。あの家に、あの人たちに。
けれど同時に――。“助けを求めているなら、見捨てたくない”。
結局のところ、わたしは昔から変われないのです。
「……準備をしてください、メア。王都へ行きます」
「え? すぐ……ですか?」
「はい。今この瞬間にも、命の灯は短くなっているかもしれません」
静かに、けれどはっきりと告げました。
言葉を交わす間にも、どこかで扉の音がしました。
振り向くと――アレクシス様が廊下の影からこちらを見ていらっしゃいました。
「王都へ行くつもりか」
「……ご存知でしたか」
いつも通り冷静な表情。けれど、どこか翳りがあるように感じます。
「手紙を見た。行く必要はない。王家にかかわる話になりかねない」
「ですが、病人です。たとえ誰であっても、見殺しにはできません」
「無謀だ」
短く切り捨てられたその声に、思わず胸が締めつけられました。
「危険なのは分かっています。でも……あの人は、私の妹です。せめて薬を届けたいのです」
アレクシス様はしばらく黙ったままでした。
長い沈黙のあと、低く呟かれた言葉が風音に溶けていきます。
「……お前は昔から、そうなのだな」
「え?」
「自分を顧みず、他人を救おうとする」
こちらに視線を向けないまま、彼の表情は深い陰を落としていました。
ほんの一瞬、過去の傷が覗いたように見えます。
「お前の“優しさ”は時に、俺には恐ろしい」
「恐ろしい、ですか?」
「そうだ。また誰かを失いたくない」
その一言に、喉の奥が焼けるようになりました。
……心配してくださっている。それが伝わっただけで、胸がもう痛くて。
「大丈夫です。私を信じてください。必ず無事に戻ります」
彼の瞳が揺れ、そして息を吐く音が聞こえました。
「……分かった。ただし、護衛として兵を三人付ける。拒むな」
「……はい」
出立の日は、思いのほか早く巡ってきました。
霧に包まれた早朝の庭園。薬草の香りが風に乗って淡く広がります。
馬車のそばでは、メアが荷物の確認をしており、グレゴールが「殿下の許可を得た旅路だ。無茶はするな」と釘を刺していました。
その背後で、黒い外套の影が動きます。
アレクシス様です。
「出立の前に、一つ言っておく」
彼はわたしの荷を一瞥すると、いつもの低い声で続けられました。
「何があっても、迷うな。後ろを振り返るな。――俺を信じろ」
「……はい」
「そして、俺を信じられなくなったら……その時はもう、戻ってくるな」
胸の奥が小さく震えました。
それは突き放すようでいて、深い決意のこもった言葉でした。
わたしはそっと微笑みました。
「……大丈夫です。信じています。あなたは、きっと守ってくださる方だから」
少しの間だけ、沈黙が落ちます。
その次の瞬間、アレクシス様の指先が――わたしの額に触れました。
ひやりとした感触。けれど、とてもやさしい。
「……無事で帰れ」
その声は、春の雪解けよりも静かで、確かに温かかった。
馬車の扉が閉まると、メアがそっと声を潜めます。
「リリア様、本当に行ってしまうのですか? 公爵様……すごく心配されてましたよ」
「わかっています。でも、私が行かなきゃ……」
「うーん……でも、どうしてあんな怖い顔して送り出すんでしょうねえ。素直じゃないなあ」
思わず苦笑してしまいました。
そう、あの方はいつも不器用なのです。優しさを言葉にできない人。
車輪が動き出し、屋敷の門が遠ざかっていきます。
窓の外には、曇り空の下でひときわ目立つ黒いコートの影。
その姿が小さくなるまで、わたしは目を離せませんでした。
「……アレクシス様。次にお会いする時、胸を張って“帰ってきました”と言えるように」
王都までの道は長く、夜には雨も降りました。
揺れる馬車の中、ランプの灯がかすかに揺れて、メアがため息をつきます。
「うう、腰が痛いです。公爵様、きっと追ってきますよ、こんな旅」
「……まさか。公爵様はわたしを信じてくれています」
わたしは首を横に振りました。
「でも結局、アレクシス様は奥さまから目が離せないんですよ」
その瞬間、胸の奥にぽっと灯りがともるようでした。
まるで“薬草園の灯”が再び心に戻ってきたみたいに。
夜更け。窓の外では、雲の切れ間から星がのぞいていました。
心の中で、誰にも聞こえない祈りを捧げます。
――セリーヌ。どうか生きていて。
どれほどあなたに傷つけられても、私はあなたを見捨てることはできないの。
そう、わたしが“25番目の花嫁”としてここに立てているのは、過去の痛みがあったからこそ。
あの痛みが、わたしを強くしてくれた。
翌朝、王都の尖塔がかすかに見え始めました。
懐かしい街並み。けれどそこに帰ることが“居場所”ではないことを、いまなら知っています。
メアがふっと笑いました。
「ほら見てください、リリア様。公爵様の言った通り、夜が明けました。素敵な朝ですね」
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静かに、でも確かに。
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