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【第二章】静かな冷笑
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二十五歳、人生の折り返し。
誰かの色の中に生きてきた私の世界も、そろそろ自分の香りで満たしたい――そう思い始めた朝でした。
屋敷の空気は冷たい霧をまとい、曇天の光が白いカーテンを透かしています。
昨夜、燃やし尽くした小さな勇気の残り火が、まだ胸の奥でちりちりと疼いていました。
「おはようございます、リリア様。……顔色が優れませんね」
侍女のミーナが、心配そうに覗き込みました。
この子は若いのに、人の気持ちにとても敏い。
「大丈夫、少し寝不足なだけよ」
「まさか、あの舞踏会の夜……閣下と言い争いなど?」
「言い争いにすらならなかったわ。話してもいないもの」
自嘲するように笑うと、ミーナが眉をしかめて噛みつくように言いました。
「ひどいです! あんなに綺麗にお支度したのに、閣下は何も仰らなかったなんて」
「……あの方は、仕事で頭がいっぱいなのよ」
「それでも、です! 奥さまの努力を見ようともしないなんて」
ミーナの正しさが、逆に胸を刺しました。
私はそっと唇に指を当てて、微笑みで遮ります。
「しっ。聞かれたら大変よ。アシェル様の耳は鋭いの」
「でも、奥さまが優しすぎるんです」
「優しさしか、取り柄がないのよ、私」
その言葉を自分で口にした瞬間、心の奥で小さな違和感が弾けました。
――“取り柄がない”という言葉を、そろそろ手放していいのではないか。
二十五歳の私には、もう少し別の何かを選ぶ権利があるはずです。
*
朝の食卓に入ると、義母が新聞の陰から静かに声を投げました。
「昨夜のあなたのドレス、話題になっているわよ。悪い意味でね」
空気が凍りました。
その間も、アシェル様は目を上げず、紅茶を口にするだけ。
「ご迷惑をおかけしてしまい、申し訳ありません」
「ほんとに。閣下の妻なのですから、慎重に動いてもらわないと」
常と同じ静かなやりとり。
でもその中で、今日だけは胸の底が妙に澄んで感じられました。
アシェル様が、低く言葉を添えます。
「あなたの評判が、私の仕事に影響することもある。理解してほしい」
――あなたの評判。
その言葉に初めて気づきました。
私はいつまで“誰かの所有物”でいればいいのだろう、と。
喉の奥が少し焼けるような気がしても、私は笑顔を崩しません。
「はい。以後、気をつけます」
彼は軽く頷くだけで、新聞へ視線を戻しました。
変わらない朝。
でも、確かに小さく何かが音を立てて変わり始めた朝でもありました。
(見つめられなくても、私はここにいる)
そう思うだけで、少しだけ寒さが柔らいだ気がしたのです。
*
昼前、私は庭でハーブの世話をしていました。
冬の光に照らされたローズマリーが霜をまとって揺れています。
指先に香りを擦りつけると、清々しい苦味が広がりました。
「誰かのために香りを調えることなら上手なのに、自分のためになると難しいわね」
独りつぶやくと、ミーナが顔を出しました。
「奥さま、自分のために調合したらどうです? 甘くて、自分を癒やす香りを」
「自分を、癒やす……?」
「はい、“やり直せる勇気”の香りを!」
思わず笑ってしまいました。
そんな花が本当にあったら、きっと私はそれを一番先に育てたい。
ミーナの明るい声が、草の香りに溶けていきます。
*
午後、書斎の前を通りかかったときでした。
扉の隙間から、低い声が漏れています。
「……宰相閣下、舞踏会の件、議員たちの反応は?」
「構わん。妻のことは私が処理する」
“処理”――たった二文字が、胸の奥を鋭く切り裂きました。
相手の声、ユリア嬢の優しい響きが続きます。
「奥さまは繊細な方ですから、少し気遣って差し上げても……」
「その必要はない。感情に流される者を、政治に近づけるわけにはいかない」
息が詰まりました。
耳から入った言葉が、花瓶の水に落ちた石のように沈んでいきます。
(私は、ただの“感情”なのね。あの人にとっては)
それでも、涙は出ませんでした。
二十五歳という年齢の持つ静けさが、かえって心を穏やかに保っていました。
――それなら、私のために生きましょう。
薬草のように、見えなくても誰かを癒せる私のままで。
その夜から、私はアシェル様の机に薬草茶を置くのをやめました。
ぬるま湯のような日々を、きっぱりと断ち切るように。
*
それでも時は流れます。
日常は、何の慈悲もなく繰り返される。
「奥さま、今日は市場に行きましょうか。春の苗が届いたそうですよ」
「ええ、出かけましょう」
ミーナと連れ立ち、馬車で揺られながら街を見る。
冬の名残の街並み。その中に、ひとつだけ蕾をつけた白い花が咲いていました。
「奥さま、さっきの店のご主人が言ってました。“リリア夫人は優しい顔で買い物なさる”って。ちゃんと見てる人はいますよ」
「そう……それは少し嬉しいわね」
その言葉に、久しぶりに心から笑えました。
たった一言。それでも、確かに私を見てくれた誰かがいた。
その瞬間、小さな種が胸の奥に蒔かれた気がしました。
*
夜。
書斎の戸が開く音がして、アシェル様が部屋に入ってきました。
月光が肩にかかり、影が私の足元を横切ります。
「まだ起きていたのか」
「ええ、眠れなくて」
それだけの会話。
でも、なぜか今夜だけはその沈黙が怖くありませんでした。
「……体は、どうだ?」
アシェル様が珍しくそう尋ねました。
私はかすかに笑って答えます。
「元気です。心配してくださって、ありがとう」
「そうか」
ひと息分の間を置いて、それだけを残し、彼は去っていきました。
扉の向こうに消える背中を見ながら、胸の奥でそっと呟きました。
(あなたが見なくても、私はここにいる。
だからいつか、自分の色できっと笑ってみせます)
閉まる扉の音が、小さな終止符のように響きました。
誰かの色の中に生きてきた私の世界も、そろそろ自分の香りで満たしたい――そう思い始めた朝でした。
屋敷の空気は冷たい霧をまとい、曇天の光が白いカーテンを透かしています。
昨夜、燃やし尽くした小さな勇気の残り火が、まだ胸の奥でちりちりと疼いていました。
「おはようございます、リリア様。……顔色が優れませんね」
侍女のミーナが、心配そうに覗き込みました。
この子は若いのに、人の気持ちにとても敏い。
「大丈夫、少し寝不足なだけよ」
「まさか、あの舞踏会の夜……閣下と言い争いなど?」
「言い争いにすらならなかったわ。話してもいないもの」
自嘲するように笑うと、ミーナが眉をしかめて噛みつくように言いました。
「ひどいです! あんなに綺麗にお支度したのに、閣下は何も仰らなかったなんて」
「……あの方は、仕事で頭がいっぱいなのよ」
「それでも、です! 奥さまの努力を見ようともしないなんて」
ミーナの正しさが、逆に胸を刺しました。
私はそっと唇に指を当てて、微笑みで遮ります。
「しっ。聞かれたら大変よ。アシェル様の耳は鋭いの」
「でも、奥さまが優しすぎるんです」
「優しさしか、取り柄がないのよ、私」
その言葉を自分で口にした瞬間、心の奥で小さな違和感が弾けました。
――“取り柄がない”という言葉を、そろそろ手放していいのではないか。
二十五歳の私には、もう少し別の何かを選ぶ権利があるはずです。
*
朝の食卓に入ると、義母が新聞の陰から静かに声を投げました。
「昨夜のあなたのドレス、話題になっているわよ。悪い意味でね」
空気が凍りました。
その間も、アシェル様は目を上げず、紅茶を口にするだけ。
「ご迷惑をおかけしてしまい、申し訳ありません」
「ほんとに。閣下の妻なのですから、慎重に動いてもらわないと」
常と同じ静かなやりとり。
でもその中で、今日だけは胸の底が妙に澄んで感じられました。
アシェル様が、低く言葉を添えます。
「あなたの評判が、私の仕事に影響することもある。理解してほしい」
――あなたの評判。
その言葉に初めて気づきました。
私はいつまで“誰かの所有物”でいればいいのだろう、と。
喉の奥が少し焼けるような気がしても、私は笑顔を崩しません。
「はい。以後、気をつけます」
彼は軽く頷くだけで、新聞へ視線を戻しました。
変わらない朝。
でも、確かに小さく何かが音を立てて変わり始めた朝でもありました。
(見つめられなくても、私はここにいる)
そう思うだけで、少しだけ寒さが柔らいだ気がしたのです。
*
昼前、私は庭でハーブの世話をしていました。
冬の光に照らされたローズマリーが霜をまとって揺れています。
指先に香りを擦りつけると、清々しい苦味が広がりました。
「誰かのために香りを調えることなら上手なのに、自分のためになると難しいわね」
独りつぶやくと、ミーナが顔を出しました。
「奥さま、自分のために調合したらどうです? 甘くて、自分を癒やす香りを」
「自分を、癒やす……?」
「はい、“やり直せる勇気”の香りを!」
思わず笑ってしまいました。
そんな花が本当にあったら、きっと私はそれを一番先に育てたい。
ミーナの明るい声が、草の香りに溶けていきます。
*
午後、書斎の前を通りかかったときでした。
扉の隙間から、低い声が漏れています。
「……宰相閣下、舞踏会の件、議員たちの反応は?」
「構わん。妻のことは私が処理する」
“処理”――たった二文字が、胸の奥を鋭く切り裂きました。
相手の声、ユリア嬢の優しい響きが続きます。
「奥さまは繊細な方ですから、少し気遣って差し上げても……」
「その必要はない。感情に流される者を、政治に近づけるわけにはいかない」
息が詰まりました。
耳から入った言葉が、花瓶の水に落ちた石のように沈んでいきます。
(私は、ただの“感情”なのね。あの人にとっては)
それでも、涙は出ませんでした。
二十五歳という年齢の持つ静けさが、かえって心を穏やかに保っていました。
――それなら、私のために生きましょう。
薬草のように、見えなくても誰かを癒せる私のままで。
その夜から、私はアシェル様の机に薬草茶を置くのをやめました。
ぬるま湯のような日々を、きっぱりと断ち切るように。
*
それでも時は流れます。
日常は、何の慈悲もなく繰り返される。
「奥さま、今日は市場に行きましょうか。春の苗が届いたそうですよ」
「ええ、出かけましょう」
ミーナと連れ立ち、馬車で揺られながら街を見る。
冬の名残の街並み。その中に、ひとつだけ蕾をつけた白い花が咲いていました。
「奥さま、さっきの店のご主人が言ってました。“リリア夫人は優しい顔で買い物なさる”って。ちゃんと見てる人はいますよ」
「そう……それは少し嬉しいわね」
その言葉に、久しぶりに心から笑えました。
たった一言。それでも、確かに私を見てくれた誰かがいた。
その瞬間、小さな種が胸の奥に蒔かれた気がしました。
*
夜。
書斎の戸が開く音がして、アシェル様が部屋に入ってきました。
月光が肩にかかり、影が私の足元を横切ります。
「まだ起きていたのか」
「ええ、眠れなくて」
それだけの会話。
でも、なぜか今夜だけはその沈黙が怖くありませんでした。
「……体は、どうだ?」
アシェル様が珍しくそう尋ねました。
私はかすかに笑って答えます。
「元気です。心配してくださって、ありがとう」
「そうか」
ひと息分の間を置いて、それだけを残し、彼は去っていきました。
扉の向こうに消える背中を見ながら、胸の奥でそっと呟きました。
(あなたが見なくても、私はここにいる。
だからいつか、自分の色できっと笑ってみせます)
閉まる扉の音が、小さな終止符のように響きました。
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