【完結】二十五歳のドレスを脱ぐとき ~「私という色」を探しに出かけます~

朝日みらい

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【第一章】夫の色をやめた夜

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 二十五歳の夜、私の世界は、ほんの少しだけ色を変えました。

 王都最大の社交の祭典、冬の大舞踏会。  
 城門をくぐると、胸の奥がひやりと冷えます。  
 青白いシャンデリアの光、幾重にも重ねられたレースドレス、香水の匂い。  
 どれも私にはまだ眩しすぎる煌めきでした。

 結婚して七年。  
 宰相アシェル・ベルアメールの妻として、私は王都の貴族社会に立ち続けてきました。  
 賢く、穏やかに、彼を支えることが妻の役割――そう言い聞かせながら。  
 いつからか、深緑のドレスを身に纏うのが習慣になっていました。  
 それは彼の瞳の色で、夫婦の調和の証とされた色。  
 でも気づけば、私はその中で“私自身”の輪郭を失くしていたのです。

 だから、今日だけは違う私でいたかった。  
 二十五歳、人生の半分を“誰かの妻”として過ごしてきた私が、初めて自分のために選んだ色を纏う夜だから。

「リリア様、本当にその色で行かれるんですか?」
 支度部屋で、侍女のミーナが不安そうに声を震わせました。

「ええ。今日はこれでいいの。深緑はあの方の色。  
 私はもう、それに縛られたくないの」

 鏡の中の私は、淡いピンクのシフォンのドレスを纏っていました。  
 頬に差す紅の延長のような色。優しいのに、少しだけ勇気が要る色。  
 三年前なら選べなかった。あの頃の私はまだ、“誰かの傍ら”でしか呼吸ができなかったから。

 けれど今の私は、ようやく息をしている。  
 ――アシェル様は、気づいてくださるかしら。



 大広間に入った瞬間、光と音の波が押し寄せました。  
 音楽に合わせて渦を巻くドレスの裾、笑い声、近づく視線。  
 私は少し離れた場所でグラスを手に取り、深く息を吸いました。  
 耳に届くのは、相変わらずの囁きと皮肉。

「まあ、宰相夫人ったら大胆だこと。“閣下の色”ではないなんて」
「愛想を尽かされたからだって噂よ」

 どこかで聞いたような声。  
 私は笑いました。二十五歳の笑い方で――十代のひたむきさではなく、  
 一度は失って、ようやく自分を拾い直した人間の笑みで。

(いいの。今日はいつもの私と違う私を見せたかっただけ)

 ……けれど、胸の奥では小さな期待がくすぶっていました。  
 ――どうか、気づいて。たった一瞬でも、目を止めて。

 それでも、その願いは甘くも儚かった。  
 会場の奥、王の傍らに立つ人。宰相アシェル・ベルアメール。  
 深緑の瞳、整えられた黒髪、威厳を纏う姿。いつもどおり完璧で、冷たいまでに眩しい。  
 けれど私が恋い慕ったのは、あの政治家ではなく、  
 疲れた夜にわずかに微笑んで紅茶を受け取ってくれた――ただの一人の人だった。

 彼の隣で微笑むのは、秘書官のユリア・サラディーン。  
 月光のような純白のドレスが、彼の深緑に溶けるほどよく似合う。  
 人々の視線が二人に集まり、音楽が高く広がっていく。

(ああ……それでも、まだこんなに痛いのね)

 グラスの中で泡が弾け、ほろ苦い香りが立ちのぼる。  
 悲しみというより、納得。  
 ――ようやく気づいた。  
 彼に選ばれることが、愛されることではないと知るのは、二十五歳の今だったのです。

(選ばれなくても、私は生きられる。  
 私の人生は、私のもののはず)

 その想いを確かめるように、私は会場を離れました。



 外の空気は澄んでいて、バルコニーには冷たい風が吹いていました。  
 石畳を踏む音も、遠くの笑い声も、もう私には届かない。  
 ただ月明かりだけが優しくドレスの裾を照らします。

「リリア様……寒くありませんか?」
 追ってきたミーナが、心配そうに羽織を差し出しました。

「平気。ねぇミーナ、人は何色にも染まれると思う?」
「もちろんです! リリア様にはピンクが一番似合います!」

 その声に、自然と笑みがこぼれました。  
 彼女の真っ直ぐな優しさは、私の中の迷いを少しずつ溶かしてくれます。

(そうね。たとえ今日、彼に見てもらえなくても)

 明日からは、自分のための色を着よう。  
 二十五歳、まだ遅くはない。  
 たとえ地味で人目につかなくても、私らしい香りで生きていけばいい。

 バルコニーから見上げた夜空は、冬の終わりを告げるように薄く霞んでいました。  
 あの星々のどこかに、きっとまだ「私という色」が輝いている。  
 それを探しに行くのだと、静かに心がつぶやきました。

 ――そうして、その夜。  
 私は夫の色をやめ、自分の色で生きると決めたのです。
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