1 / 14
【第一章】夫の色をやめた夜
しおりを挟む
二十五歳の夜、私の世界は、ほんの少しだけ色を変えました。
王都最大の社交の祭典、冬の大舞踏会。
城門をくぐると、胸の奥がひやりと冷えます。
青白いシャンデリアの光、幾重にも重ねられたレースドレス、香水の匂い。
どれも私にはまだ眩しすぎる煌めきでした。
結婚して七年。
宰相アシェル・ベルアメールの妻として、私は王都の貴族社会に立ち続けてきました。
賢く、穏やかに、彼を支えることが妻の役割――そう言い聞かせながら。
いつからか、深緑のドレスを身に纏うのが習慣になっていました。
それは彼の瞳の色で、夫婦の調和の証とされた色。
でも気づけば、私はその中で“私自身”の輪郭を失くしていたのです。
だから、今日だけは違う私でいたかった。
二十五歳、人生の半分を“誰かの妻”として過ごしてきた私が、初めて自分のために選んだ色を纏う夜だから。
「リリア様、本当にその色で行かれるんですか?」
支度部屋で、侍女のミーナが不安そうに声を震わせました。
「ええ。今日はこれでいいの。深緑はあの方の色。
私はもう、それに縛られたくないの」
鏡の中の私は、淡いピンクのシフォンのドレスを纏っていました。
頬に差す紅の延長のような色。優しいのに、少しだけ勇気が要る色。
三年前なら選べなかった。あの頃の私はまだ、“誰かの傍ら”でしか呼吸ができなかったから。
けれど今の私は、ようやく息をしている。
――アシェル様は、気づいてくださるかしら。
*
大広間に入った瞬間、光と音の波が押し寄せました。
音楽に合わせて渦を巻くドレスの裾、笑い声、近づく視線。
私は少し離れた場所でグラスを手に取り、深く息を吸いました。
耳に届くのは、相変わらずの囁きと皮肉。
「まあ、宰相夫人ったら大胆だこと。“閣下の色”ではないなんて」
「愛想を尽かされたからだって噂よ」
どこかで聞いたような声。
私は笑いました。二十五歳の笑い方で――十代のひたむきさではなく、
一度は失って、ようやく自分を拾い直した人間の笑みで。
(いいの。今日はいつもの私と違う私を見せたかっただけ)
……けれど、胸の奥では小さな期待がくすぶっていました。
――どうか、気づいて。たった一瞬でも、目を止めて。
それでも、その願いは甘くも儚かった。
会場の奥、王の傍らに立つ人。宰相アシェル・ベルアメール。
深緑の瞳、整えられた黒髪、威厳を纏う姿。いつもどおり完璧で、冷たいまでに眩しい。
けれど私が恋い慕ったのは、あの政治家ではなく、
疲れた夜にわずかに微笑んで紅茶を受け取ってくれた――ただの一人の人だった。
彼の隣で微笑むのは、秘書官のユリア・サラディーン。
月光のような純白のドレスが、彼の深緑に溶けるほどよく似合う。
人々の視線が二人に集まり、音楽が高く広がっていく。
(ああ……それでも、まだこんなに痛いのね)
グラスの中で泡が弾け、ほろ苦い香りが立ちのぼる。
悲しみというより、納得。
――ようやく気づいた。
彼に選ばれることが、愛されることではないと知るのは、二十五歳の今だったのです。
(選ばれなくても、私は生きられる。
私の人生は、私のもののはず)
その想いを確かめるように、私は会場を離れました。
*
外の空気は澄んでいて、バルコニーには冷たい風が吹いていました。
石畳を踏む音も、遠くの笑い声も、もう私には届かない。
ただ月明かりだけが優しくドレスの裾を照らします。
「リリア様……寒くありませんか?」
追ってきたミーナが、心配そうに羽織を差し出しました。
「平気。ねぇミーナ、人は何色にも染まれると思う?」
「もちろんです! リリア様にはピンクが一番似合います!」
その声に、自然と笑みがこぼれました。
彼女の真っ直ぐな優しさは、私の中の迷いを少しずつ溶かしてくれます。
(そうね。たとえ今日、彼に見てもらえなくても)
明日からは、自分のための色を着よう。
二十五歳、まだ遅くはない。
たとえ地味で人目につかなくても、私らしい香りで生きていけばいい。
バルコニーから見上げた夜空は、冬の終わりを告げるように薄く霞んでいました。
あの星々のどこかに、きっとまだ「私という色」が輝いている。
それを探しに行くのだと、静かに心がつぶやきました。
――そうして、その夜。
私は夫の色をやめ、自分の色で生きると決めたのです。
王都最大の社交の祭典、冬の大舞踏会。
城門をくぐると、胸の奥がひやりと冷えます。
青白いシャンデリアの光、幾重にも重ねられたレースドレス、香水の匂い。
どれも私にはまだ眩しすぎる煌めきでした。
結婚して七年。
宰相アシェル・ベルアメールの妻として、私は王都の貴族社会に立ち続けてきました。
賢く、穏やかに、彼を支えることが妻の役割――そう言い聞かせながら。
いつからか、深緑のドレスを身に纏うのが習慣になっていました。
それは彼の瞳の色で、夫婦の調和の証とされた色。
でも気づけば、私はその中で“私自身”の輪郭を失くしていたのです。
だから、今日だけは違う私でいたかった。
二十五歳、人生の半分を“誰かの妻”として過ごしてきた私が、初めて自分のために選んだ色を纏う夜だから。
「リリア様、本当にその色で行かれるんですか?」
支度部屋で、侍女のミーナが不安そうに声を震わせました。
「ええ。今日はこれでいいの。深緑はあの方の色。
私はもう、それに縛られたくないの」
鏡の中の私は、淡いピンクのシフォンのドレスを纏っていました。
頬に差す紅の延長のような色。優しいのに、少しだけ勇気が要る色。
三年前なら選べなかった。あの頃の私はまだ、“誰かの傍ら”でしか呼吸ができなかったから。
けれど今の私は、ようやく息をしている。
――アシェル様は、気づいてくださるかしら。
*
大広間に入った瞬間、光と音の波が押し寄せました。
音楽に合わせて渦を巻くドレスの裾、笑い声、近づく視線。
私は少し離れた場所でグラスを手に取り、深く息を吸いました。
耳に届くのは、相変わらずの囁きと皮肉。
「まあ、宰相夫人ったら大胆だこと。“閣下の色”ではないなんて」
「愛想を尽かされたからだって噂よ」
どこかで聞いたような声。
私は笑いました。二十五歳の笑い方で――十代のひたむきさではなく、
一度は失って、ようやく自分を拾い直した人間の笑みで。
(いいの。今日はいつもの私と違う私を見せたかっただけ)
……けれど、胸の奥では小さな期待がくすぶっていました。
――どうか、気づいて。たった一瞬でも、目を止めて。
それでも、その願いは甘くも儚かった。
会場の奥、王の傍らに立つ人。宰相アシェル・ベルアメール。
深緑の瞳、整えられた黒髪、威厳を纏う姿。いつもどおり完璧で、冷たいまでに眩しい。
けれど私が恋い慕ったのは、あの政治家ではなく、
疲れた夜にわずかに微笑んで紅茶を受け取ってくれた――ただの一人の人だった。
彼の隣で微笑むのは、秘書官のユリア・サラディーン。
月光のような純白のドレスが、彼の深緑に溶けるほどよく似合う。
人々の視線が二人に集まり、音楽が高く広がっていく。
(ああ……それでも、まだこんなに痛いのね)
グラスの中で泡が弾け、ほろ苦い香りが立ちのぼる。
悲しみというより、納得。
――ようやく気づいた。
彼に選ばれることが、愛されることではないと知るのは、二十五歳の今だったのです。
(選ばれなくても、私は生きられる。
私の人生は、私のもののはず)
その想いを確かめるように、私は会場を離れました。
*
外の空気は澄んでいて、バルコニーには冷たい風が吹いていました。
石畳を踏む音も、遠くの笑い声も、もう私には届かない。
ただ月明かりだけが優しくドレスの裾を照らします。
「リリア様……寒くありませんか?」
追ってきたミーナが、心配そうに羽織を差し出しました。
「平気。ねぇミーナ、人は何色にも染まれると思う?」
「もちろんです! リリア様にはピンクが一番似合います!」
その声に、自然と笑みがこぼれました。
彼女の真っ直ぐな優しさは、私の中の迷いを少しずつ溶かしてくれます。
(そうね。たとえ今日、彼に見てもらえなくても)
明日からは、自分のための色を着よう。
二十五歳、まだ遅くはない。
たとえ地味で人目につかなくても、私らしい香りで生きていけばいい。
バルコニーから見上げた夜空は、冬の終わりを告げるように薄く霞んでいました。
あの星々のどこかに、きっとまだ「私という色」が輝いている。
それを探しに行くのだと、静かに心がつぶやきました。
――そうして、その夜。
私は夫の色をやめ、自分の色で生きると決めたのです。
24
あなたにおすすめの小説
幼馴染みで婚約者だった彼に切り捨てられてしまいましたが、自分にできることをしながら生きていたところ意外な良縁に恵まれました。
四季
恋愛
マリエ・フローレニシアとダット・ティオドールは幼馴染みであり婚約者同士。
仲は悪くなかった。
だが、ダットがアレンティーナという女性と仕事で知り合った時から、二人の関係は崩れていって……。
婚約破棄されたので実家へ帰って編み物をしていたのですが……まさかの事件が起こりまして!? ~人生は大きく変わりました~
四季
恋愛
私ニーナは、婚約破棄されたので実家へ帰って編み物をしていたのですが……ある日のこと、まさかの事件が起こりまして!?
結婚から数ヶ月が経った頃、夫が裏でこそこそ女性と会っていることを知りました。その話はどうやら事実のようなので、離婚します。
四季
恋愛
結婚から数ヶ月が経った頃、夫が裏でこそこそ女性と会っていることを知りました。その話はどうやら事実のようなので、離婚します。
本を返すため婚約者の部屋へ向かったところ、女性を連れ込んでよく分からないことをしているところを目撃してしまいました。
四季
恋愛
本を返すため婚約者の部屋へ向かったところ、女性を連れ込んでよく分からないことをしているところを目撃してしまいました。
婚約破棄され泣きながら帰宅している途中で落命してしまったのですが、待ち受けていた運命は思いもよらぬもので……?
四季
恋愛
理不尽に婚約破棄された"私"は、泣きながら家へ帰ろうとしていたところ、通りすがりの謎のおじさんに刃物で刺され、死亡した。
そうして訪れた死後の世界で対面したのは女神。
女神から思いもよらぬことを告げられた"私"は、そこから、終わりの見えないの旅に出ることとなる。
長い旅の先に待つものは……??
晩餐会の会場に、ぱぁん、と乾いた音が響きました。どうやら友人でもある女性が婚約破棄されてしまったようです。
四季
恋愛
晩餐会の会場に、ぱぁん、と乾いた音が響きました。
どうやら友人でもある女性が婚約破棄されてしまったようです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる