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【第三章】薬草の香りと嘘の噂
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それからの日々は、まるで冬の朝霧の中を歩いているようでした。
静かで、冷たく、どこに向かっているのか分からない。
アシェル様は相変わらず公務に忙しく、夜更けまで灯の消えない書斎には、もう誰も近づかない。
私もその静寂に慣れはじめた頃でした。
唯一変わらないのは、薬草の香り。
それだけが、私を現実につなぎ止めてくれていたのです。
*
「……リリア様、また煮出してるんですか?」
ミーナが呆れ顔で覗き込みました。
「ええ。カモミールとミントを少し」
「また閣下のためですか?」
「……そうね」
言いながら指先に力が入りました。
小瓶の中のミントの葉がかすかに震える。
この香りが、届くことはもうないとわかっているのに。
「閣下、昨日も帰ってこられませんでしたものね……」
「ええ、公務ですもの」
そう答える私の声は、どこか他人事のようでした。
ミーナが心配そうに眉を寄せました。
「奥さま、あんまりお優しすぎますよ。ちゃんと怒ったっていいのに」
「怒るって……何に、かしら?」
「そりゃもう、愛人の噂です! 王都じゅう、みんなその話ばっかり!」
私は少し笑って言いました。
「そんな噂、昔から絶えないわ。…うちの主人は人目を引く方でしょう?」
「でも今度のユリア嬢は本当に……」
「ミーナ」
私は静かに制しました。
心が揺れないようにと、深く息を吸い込む。
「言わないで。噂は、ハーブよりも早く広がるのよ」
ミーナが気まずそうに唇を噛みました。
「……すみません。ただ、奥さまが傷つくのが嫌で」
「ありがとう。でも、平気よ。本当に」
そう言いながらも、胸のあたりがきゅうっと締めつけられる。
平気なんて、嘘。
だけど、誰にも見せるわけにはいかない。
*
その日の午後、私は書斎の前で足を止めました。
扉が少し開いていて、中から紙をめくる音が聞こえてきます。
そっと覗くと、アシェル様の前でユリア嬢が報告書を差し出していました。
「閣下、こちらの書状は陛下への草案になります」
「ご苦労だった。……内容は一読した。修正は任せる」
「はい。それと……その……舞踏会の件、私は何も」
「言い訳は不要だ。口外しなければ問題ない」
そのやりとりの声を聞くだけで、胸の奥が冷たくなる。
いっそ何も聞こえなければよかったのに。
(どうして私は、まだこんなにも心が揺れるんだろう)
階段へと足を向ける。踏むたびにヒールの音が、まるで拒絶のように響いた。
*
翌日、屋敷の侍女たちが小声で話しているのが聞こえました。
「見た? ユリア嬢、宰相閣下のお部屋から朝まで……」
「まぁ、そんな……本当?」
「だって侍従長が見たって」
「そう言えば奥方さま、最近閣下と食卓でも話さないらしいわよ。もう完全に……」
背後でぱたりと扉を閉める音を立てると、二人の顔が真っ青になりました。
「失礼いたしました、奥さまっ!」
「仕事を続けて」
私は短く言いました。笑うことも、怒ることもできなかった。
自分の部屋へ戻り、鏡の前に立つ。
見慣れた顔。けれど、どこか少し違って見えます。
(こんな顔、してたんだ……)
頬に触れる指が冷たい。
涙も出ない。ただ空気だけが乾いている。
*
夜。
私は机の上に並べた瓶を前に、ゆっくりハーブを調合していました。
カモミールに、ラベンダー。そして少しだけローズマリー。
「あなたの心が安らぎますように」
ぽつりと呟いた声は、思ったよりも震えていました。
お湯を注ぐと、香りが静かに広がる。
その匂いに包まれると、ほんの少しだけ眠れる気がしました。
けれど、翌朝――。
机の上のカップには、昨夜のまま冷めた茶が残っていました。
まるで、何も届いていない証のように。
(もう、やめましょう)
小さく息を吐いて、カップを片付けました。
その瞬間、堰を切ったように涙がにじみ、滴がテーブルを濡らしました。
けれど、ミーナが部屋に入ってくる前にはもう拭き取っていた。
「リリア様……今日も市場へ出ますか?」
「ええ。今朝は気分転換に新しいハーブを探したいの」
そうして外に出ると、いつもの空が少しだけ違って見えました。
冬の風が頬を撫で、刺すように冷たかったけれど――その痛みさえも、少し心地よかった。
*
市場では、いつものように露店の少年が元気に声をかけてきました。
「奥さま、今日はおひとりですか? 旦那さまは?」
「お忙しいの。公務で」
「あ、そうなんですね。でも、奥さまの作る薬草茶、評判ですよ!」
「そうなの?」
「ええ! この前、おばあちゃんの咳が止まったんです!」
その言葉に思わず頬がゆるみました。
誰かの役に立てる。それが、まだ自分を支えてくれていた。
(そうだわ。私にできること、まだある)
家へ戻った私は、屋敷の裏庭で次々に瓶を並べました。
新調したガラス瓶に、小さなラベルを貼っていく。
“癒し” “安眠” “希望”――全部、私の願いの欠片。
ミーナがのぞきこんで笑いました。
「奥さま、まるでお店みたいに!」
「ふふっ。そうね、ここだけの小さな店。誰かの傷を癒せる場所よ」
夕暮れが庭を橙色に染める。
その光の中で、私はひとつの小瓶を手に取った。
瓶の中には、リンドウの花の乾燥片。
それは、母が好きだった花――そして、再生を意味する花。
瓶を胸に抱きながら、そっと呟きました。
「いつか、この香りで誰かを救える日が来るといいのに」
その願いはまだ静かで、小さな自分だけの約束でした。
静かで、冷たく、どこに向かっているのか分からない。
アシェル様は相変わらず公務に忙しく、夜更けまで灯の消えない書斎には、もう誰も近づかない。
私もその静寂に慣れはじめた頃でした。
唯一変わらないのは、薬草の香り。
それだけが、私を現実につなぎ止めてくれていたのです。
*
「……リリア様、また煮出してるんですか?」
ミーナが呆れ顔で覗き込みました。
「ええ。カモミールとミントを少し」
「また閣下のためですか?」
「……そうね」
言いながら指先に力が入りました。
小瓶の中のミントの葉がかすかに震える。
この香りが、届くことはもうないとわかっているのに。
「閣下、昨日も帰ってこられませんでしたものね……」
「ええ、公務ですもの」
そう答える私の声は、どこか他人事のようでした。
ミーナが心配そうに眉を寄せました。
「奥さま、あんまりお優しすぎますよ。ちゃんと怒ったっていいのに」
「怒るって……何に、かしら?」
「そりゃもう、愛人の噂です! 王都じゅう、みんなその話ばっかり!」
私は少し笑って言いました。
「そんな噂、昔から絶えないわ。…うちの主人は人目を引く方でしょう?」
「でも今度のユリア嬢は本当に……」
「ミーナ」
私は静かに制しました。
心が揺れないようにと、深く息を吸い込む。
「言わないで。噂は、ハーブよりも早く広がるのよ」
ミーナが気まずそうに唇を噛みました。
「……すみません。ただ、奥さまが傷つくのが嫌で」
「ありがとう。でも、平気よ。本当に」
そう言いながらも、胸のあたりがきゅうっと締めつけられる。
平気なんて、嘘。
だけど、誰にも見せるわけにはいかない。
*
その日の午後、私は書斎の前で足を止めました。
扉が少し開いていて、中から紙をめくる音が聞こえてきます。
そっと覗くと、アシェル様の前でユリア嬢が報告書を差し出していました。
「閣下、こちらの書状は陛下への草案になります」
「ご苦労だった。……内容は一読した。修正は任せる」
「はい。それと……その……舞踏会の件、私は何も」
「言い訳は不要だ。口外しなければ問題ない」
そのやりとりの声を聞くだけで、胸の奥が冷たくなる。
いっそ何も聞こえなければよかったのに。
(どうして私は、まだこんなにも心が揺れるんだろう)
階段へと足を向ける。踏むたびにヒールの音が、まるで拒絶のように響いた。
*
翌日、屋敷の侍女たちが小声で話しているのが聞こえました。
「見た? ユリア嬢、宰相閣下のお部屋から朝まで……」
「まぁ、そんな……本当?」
「だって侍従長が見たって」
「そう言えば奥方さま、最近閣下と食卓でも話さないらしいわよ。もう完全に……」
背後でぱたりと扉を閉める音を立てると、二人の顔が真っ青になりました。
「失礼いたしました、奥さまっ!」
「仕事を続けて」
私は短く言いました。笑うことも、怒ることもできなかった。
自分の部屋へ戻り、鏡の前に立つ。
見慣れた顔。けれど、どこか少し違って見えます。
(こんな顔、してたんだ……)
頬に触れる指が冷たい。
涙も出ない。ただ空気だけが乾いている。
*
夜。
私は机の上に並べた瓶を前に、ゆっくりハーブを調合していました。
カモミールに、ラベンダー。そして少しだけローズマリー。
「あなたの心が安らぎますように」
ぽつりと呟いた声は、思ったよりも震えていました。
お湯を注ぐと、香りが静かに広がる。
その匂いに包まれると、ほんの少しだけ眠れる気がしました。
けれど、翌朝――。
机の上のカップには、昨夜のまま冷めた茶が残っていました。
まるで、何も届いていない証のように。
(もう、やめましょう)
小さく息を吐いて、カップを片付けました。
その瞬間、堰を切ったように涙がにじみ、滴がテーブルを濡らしました。
けれど、ミーナが部屋に入ってくる前にはもう拭き取っていた。
「リリア様……今日も市場へ出ますか?」
「ええ。今朝は気分転換に新しいハーブを探したいの」
そうして外に出ると、いつもの空が少しだけ違って見えました。
冬の風が頬を撫で、刺すように冷たかったけれど――その痛みさえも、少し心地よかった。
*
市場では、いつものように露店の少年が元気に声をかけてきました。
「奥さま、今日はおひとりですか? 旦那さまは?」
「お忙しいの。公務で」
「あ、そうなんですね。でも、奥さまの作る薬草茶、評判ですよ!」
「そうなの?」
「ええ! この前、おばあちゃんの咳が止まったんです!」
その言葉に思わず頬がゆるみました。
誰かの役に立てる。それが、まだ自分を支えてくれていた。
(そうだわ。私にできること、まだある)
家へ戻った私は、屋敷の裏庭で次々に瓶を並べました。
新調したガラス瓶に、小さなラベルを貼っていく。
“癒し” “安眠” “希望”――全部、私の願いの欠片。
ミーナがのぞきこんで笑いました。
「奥さま、まるでお店みたいに!」
「ふふっ。そうね、ここだけの小さな店。誰かの傷を癒せる場所よ」
夕暮れが庭を橙色に染める。
その光の中で、私はひとつの小瓶を手に取った。
瓶の中には、リンドウの花の乾燥片。
それは、母が好きだった花――そして、再生を意味する花。
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その願いはまだ静かで、小さな自分だけの約束でした。
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