【完結】二十五歳のドレスを脱ぐとき ~「私という色」を探しに出かけます~

朝日みらい

文字の大きさ
3 / 14

【第三章】薬草の香りと嘘の噂

しおりを挟む
 それからの日々は、まるで冬の朝霧の中を歩いているようでした。  
 静かで、冷たく、どこに向かっているのか分からない。

 アシェル様は相変わらず公務に忙しく、夜更けまで灯の消えない書斎には、もう誰も近づかない。  
 私もその静寂に慣れはじめた頃でした。

 唯一変わらないのは、薬草の香り。  
 それだけが、私を現実につなぎ止めてくれていたのです。



「……リリア様、また煮出してるんですか?」
 ミーナが呆れ顔で覗き込みました。
「ええ。カモミールとミントを少し」
「また閣下のためですか?」
「……そうね」

 言いながら指先に力が入りました。  
 小瓶の中のミントの葉がかすかに震える。  
 この香りが、届くことはもうないとわかっているのに。

「閣下、昨日も帰ってこられませんでしたものね……」
「ええ、公務ですもの」
 そう答える私の声は、どこか他人事のようでした。

 ミーナが心配そうに眉を寄せました。
「奥さま、あんまりお優しすぎますよ。ちゃんと怒ったっていいのに」
「怒るって……何に、かしら?」
「そりゃもう、愛人の噂です! 王都じゅう、みんなその話ばっかり!」

 私は少し笑って言いました。
「そんな噂、昔から絶えないわ。…うちの主人は人目を引く方でしょう?」
「でも今度のユリア嬢は本当に……」
「ミーナ」
 私は静かに制しました。  
 心が揺れないようにと、深く息を吸い込む。

「言わないで。噂は、ハーブよりも早く広がるのよ」

 ミーナが気まずそうに唇を噛みました。
「……すみません。ただ、奥さまが傷つくのが嫌で」
「ありがとう。でも、平気よ。本当に」

 そう言いながらも、胸のあたりがきゅうっと締めつけられる。  
 平気なんて、嘘。  
 だけど、誰にも見せるわけにはいかない。



 その日の午後、私は書斎の前で足を止めました。  
 扉が少し開いていて、中から紙をめくる音が聞こえてきます。  
 そっと覗くと、アシェル様の前でユリア嬢が報告書を差し出していました。

「閣下、こちらの書状は陛下への草案になります」
「ご苦労だった。……内容は一読した。修正は任せる」
「はい。それと……その……舞踏会の件、私は何も」
「言い訳は不要だ。口外しなければ問題ない」

 そのやりとりの声を聞くだけで、胸の奥が冷たくなる。  
 いっそ何も聞こえなければよかったのに。

(どうして私は、まだこんなにも心が揺れるんだろう)

 階段へと足を向ける。踏むたびにヒールの音が、まるで拒絶のように響いた。



 翌日、屋敷の侍女たちが小声で話しているのが聞こえました。
「見た? ユリア嬢、宰相閣下のお部屋から朝まで……」
「まぁ、そんな……本当?」
「だって侍従長が見たって」
「そう言えば奥方さま、最近閣下と食卓でも話さないらしいわよ。もう完全に……」

 背後でぱたりと扉を閉める音を立てると、二人の顔が真っ青になりました。
「失礼いたしました、奥さまっ!」
「仕事を続けて」
 私は短く言いました。笑うことも、怒ることもできなかった。

 自分の部屋へ戻り、鏡の前に立つ。  
 見慣れた顔。けれど、どこか少し違って見えます。
(こんな顔、してたんだ……)

 頬に触れる指が冷たい。  
 涙も出ない。ただ空気だけが乾いている。



 夜。  
 私は机の上に並べた瓶を前に、ゆっくりハーブを調合していました。  
 カモミールに、ラベンダー。そして少しだけローズマリー。

「あなたの心が安らぎますように」

 ぽつりと呟いた声は、思ったよりも震えていました。  
 お湯を注ぐと、香りが静かに広がる。  
 その匂いに包まれると、ほんの少しだけ眠れる気がしました。



 けれど、翌朝――。

 机の上のカップには、昨夜のまま冷めた茶が残っていました。  
 まるで、何も届いていない証のように。

(もう、やめましょう)

 小さく息を吐いて、カップを片付けました。
 その瞬間、堰を切ったように涙がにじみ、滴がテーブルを濡らしました。
 けれど、ミーナが部屋に入ってくる前にはもう拭き取っていた。

「リリア様……今日も市場へ出ますか?」
「ええ。今朝は気分転換に新しいハーブを探したいの」

 そうして外に出ると、いつもの空が少しだけ違って見えました。  
 冬の風が頬を撫で、刺すように冷たかったけれど――その痛みさえも、少し心地よかった。



 市場では、いつものように露店の少年が元気に声をかけてきました。
「奥さま、今日はおひとりですか? 旦那さまは?」
「お忙しいの。公務で」
「あ、そうなんですね。でも、奥さまの作る薬草茶、評判ですよ!」
「そうなの?」
「ええ! この前、おばあちゃんの咳が止まったんです!」

 その言葉に思わず頬がゆるみました。  
 誰かの役に立てる。それが、まだ自分を支えてくれていた。

(そうだわ。私にできること、まだある)

 家へ戻った私は、屋敷の裏庭で次々に瓶を並べました。
 新調したガラス瓶に、小さなラベルを貼っていく。  
 “癒し” “安眠” “希望”――全部、私の願いの欠片。

 ミーナがのぞきこんで笑いました。
「奥さま、まるでお店みたいに!」
「ふふっ。そうね、ここだけの小さな店。誰かの傷を癒せる場所よ」

 夕暮れが庭を橙色に染める。  
 その光の中で、私はひとつの小瓶を手に取った。

 瓶の中には、リンドウの花の乾燥片。  
 それは、母が好きだった花――そして、再生を意味する花。

 瓶を胸に抱きながら、そっと呟きました。
「いつか、この香りで誰かを救える日が来るといいのに」

 その願いはまだ静かで、小さな自分だけの約束でした。  
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

幼馴染みで婚約者だった彼に切り捨てられてしまいましたが、自分にできることをしながら生きていたところ意外な良縁に恵まれました。

四季
恋愛
マリエ・フローレニシアとダット・ティオドールは幼馴染みであり婚約者同士。 仲は悪くなかった。 だが、ダットがアレンティーナという女性と仕事で知り合った時から、二人の関係は崩れていって……。

婚約破棄されたので実家へ帰って編み物をしていたのですが……まさかの事件が起こりまして!? ~人生は大きく変わりました~

四季
恋愛
私ニーナは、婚約破棄されたので実家へ帰って編み物をしていたのですが……ある日のこと、まさかの事件が起こりまして!?

結婚から数ヶ月が経った頃、夫が裏でこそこそ女性と会っていることを知りました。その話はどうやら事実のようなので、離婚します。

四季
恋愛
結婚から数ヶ月が経った頃、夫が裏でこそこそ女性と会っていることを知りました。その話はどうやら事実のようなので、離婚します。

本を返すため婚約者の部屋へ向かったところ、女性を連れ込んでよく分からないことをしているところを目撃してしまいました。

四季
恋愛
本を返すため婚約者の部屋へ向かったところ、女性を連れ込んでよく分からないことをしているところを目撃してしまいました。

婚約破棄され泣きながら帰宅している途中で落命してしまったのですが、待ち受けていた運命は思いもよらぬもので……?

四季
恋愛
理不尽に婚約破棄された"私"は、泣きながら家へ帰ろうとしていたところ、通りすがりの謎のおじさんに刃物で刺され、死亡した。 そうして訪れた死後の世界で対面したのは女神。 女神から思いもよらぬことを告げられた"私"は、そこから、終わりの見えないの旅に出ることとなる。 長い旅の先に待つものは……??

王家に生まれたエリーザはまだ幼い頃に城の前に捨てられた。が、その結果こうして幸せになれたのかもしれない。

四季
恋愛
王家に生まれたエリーザはまだ幼い頃に城の前に捨てられた。

妹と婚約者が口づけしているところを目撃してしまう、って……。~これはスルーできませんので終わりにします~

四季
恋愛
妹と婚約者が口づけしているところを目撃してしまう、って……。

晩餐会の会場に、ぱぁん、と乾いた音が響きました。どうやら友人でもある女性が婚約破棄されてしまったようです。

四季
恋愛
晩餐会の会場に、ぱぁん、と乾いた音が響きました。 どうやら友人でもある女性が婚約破棄されてしまったようです。

処理中です...