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【第四章】別れの手紙
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その夜、屋敷の灯はすでに眠りについていました。
長い廊下の先、依然として書斎だけが淡く光を残している。
そこに――彼がいる。
私はドアの前に立ち、拳を開いたまま、しばらく動けずにいました。
何か言いたいことはあったはずなのに、喉の奥が痛くて、声が出ません。
(もう、言葉で届く人ではないのかもしれない)
そう思った瞬間、胸の中で、何かが静かに折れた音がしました。
*
部屋に戻ると、机の上には開きかけた便箋が一枚。
昼間から何度も書こうとして、書けなかった手紙です。
灯を落とし、ランプをひとつだけ灯しました。蝋の光がわずかに紙の上を照らす。
深呼吸をして、ゆっくりとペンを取ります。
『25歳になりました。わたくしは、あなたの色にはもう染まれません。
あなたの幸福を祈りながら、私の幸福を探しに旅に出かけます。だから、私を追いかけないでください。』
それだけを書いて、ペン先を止めました。
手紙の端に涙が落ちるのを見て、ふっと笑ってしまいます。
「……泣くのは、最後にしたかったのに」
折りたたんで封をすると、不思議と心が穏やかになりました。
書いてしまえば、もう後戻りはできません。
けれど、清らかな痛みの中に、どこか軽やかな風を感じていたのです。
*
窓の外では、細かな雨が降りはじめていました。
夜の庭が静かに濡れ、遠くでカエルがひと鳴きする。
私はランプを片手に、薬草棚の前に立ちました。
ガラス瓶が並ぶその中から、二つの瓶を取り出す。
一つは“忘れな草”。
もう一つは“セージ”。
忘れな草――「真実の愛」。
セージ――「尊敬」と「再生」。
それらを小瓶に詰め、深く息を吸いました。
ハーブの香りが胸の奥まで広がり、どくん、と鼓動がひとつ強く打つ。
「さよならを悲しい匂いにしたくないの。だから、少しだけ香りを残すわ」
独り言のように呟く声が、部屋に吸い込まれていく。
瓶の口を布で優しく封じ、夫の机の上へ置きました。
それが、私が彼に残せる最後の贈り物。
*
気づけば指先が冷たくなっていました。
握りしめた鍵を開き、寝室のドアをそっと閉める。
廊下の灯火がかすかに揺れ、誰かが起きてこないかと胸が高鳴りました。
(ごめんなさい、ミーナ……)
侍女の寝室を通り過ぎながら、彼女の寝息を聞いて立ち止まりました。
起こしたら、きっと泣いて止めてしまう。
だから、何も告げずに行くしかない。
白いマントを羽織り、扉の外の空気を吸い込みます。
雨に濡れた夜気が肌を撫で、冷たさよりも自由の匂いを感じました。
(ああ、夜の空気って、こんなにも広かったのね)
馬車に荷を積み、静かに門を出ました。
音を立てぬよう、車輪が濡れた石畳を転がっていく。
後ろを振り向くと――屋敷の灯がひとつだけ残っている。
それは、書斎の明かり。
(アシェル様……どうかお元気で)
*
夜明け前、王都の外れに差し掛かるころ、空がほんのり染まり始めました。
屋根から落ちる雨粒が、まるで拍手のように静かに音を立てる。
私はリンドウ色のスカーフで髪をまとめました。
ハーブの薬包紙を抱きしめると、微かな香りが心を落ち着かせる。
馬車の御者が声をかけました。
「奥さま、行き先は?」
「……海の見える町、ルーシェまで」
その名を口にした瞬間、不思議なほど胸の奥が温かくなります。
憧れも、怖れも、全部がひとつに溶けて、旅立ちの勇気へ変わっていく。
*
夜が明けるころ、屋敷の中では小さな騒ぎが起きていました。
「リリア様が……? お部屋にいらっしゃいません!?」
ミーナの慌てた声が響く。
義母は眉をひそめ、アシェル様の手元には……一枚の手紙と、小瓶。
封を切るかどうか、彼はしばらく動けずにいたそうです。
やがてランプの灯の下で、静かに文字を追った。
『あなたの幸福を祈りながら、私の幸福を探しに旅に出かけます。だから、私を追いかけないでください。』
そこに香るセージと忘れな草のかすかな匂い。
指先が、微かに震えました。
その瞳の奥に、何かが崩れていくように。
けれど彼は、ただ立ち尽くすことしかできなかった。
*
そして私を乗せた馬車は、ゆっくりと王都を離れていきました。
雨上がりの空から淡い光が差し込む。
その光を受けたリリアの瞳が、初めて恐れではなく未来を映していました。
「さあ、25歳の私……自分の色で、生きてみよう」
その声は、朝の風の中で静かに消えていきました。
忘れな草とセージの香りを残して――。
長い廊下の先、依然として書斎だけが淡く光を残している。
そこに――彼がいる。
私はドアの前に立ち、拳を開いたまま、しばらく動けずにいました。
何か言いたいことはあったはずなのに、喉の奥が痛くて、声が出ません。
(もう、言葉で届く人ではないのかもしれない)
そう思った瞬間、胸の中で、何かが静かに折れた音がしました。
*
部屋に戻ると、机の上には開きかけた便箋が一枚。
昼間から何度も書こうとして、書けなかった手紙です。
灯を落とし、ランプをひとつだけ灯しました。蝋の光がわずかに紙の上を照らす。
深呼吸をして、ゆっくりとペンを取ります。
『25歳になりました。わたくしは、あなたの色にはもう染まれません。
あなたの幸福を祈りながら、私の幸福を探しに旅に出かけます。だから、私を追いかけないでください。』
それだけを書いて、ペン先を止めました。
手紙の端に涙が落ちるのを見て、ふっと笑ってしまいます。
「……泣くのは、最後にしたかったのに」
折りたたんで封をすると、不思議と心が穏やかになりました。
書いてしまえば、もう後戻りはできません。
けれど、清らかな痛みの中に、どこか軽やかな風を感じていたのです。
*
窓の外では、細かな雨が降りはじめていました。
夜の庭が静かに濡れ、遠くでカエルがひと鳴きする。
私はランプを片手に、薬草棚の前に立ちました。
ガラス瓶が並ぶその中から、二つの瓶を取り出す。
一つは“忘れな草”。
もう一つは“セージ”。
忘れな草――「真実の愛」。
セージ――「尊敬」と「再生」。
それらを小瓶に詰め、深く息を吸いました。
ハーブの香りが胸の奥まで広がり、どくん、と鼓動がひとつ強く打つ。
「さよならを悲しい匂いにしたくないの。だから、少しだけ香りを残すわ」
独り言のように呟く声が、部屋に吸い込まれていく。
瓶の口を布で優しく封じ、夫の机の上へ置きました。
それが、私が彼に残せる最後の贈り物。
*
気づけば指先が冷たくなっていました。
握りしめた鍵を開き、寝室のドアをそっと閉める。
廊下の灯火がかすかに揺れ、誰かが起きてこないかと胸が高鳴りました。
(ごめんなさい、ミーナ……)
侍女の寝室を通り過ぎながら、彼女の寝息を聞いて立ち止まりました。
起こしたら、きっと泣いて止めてしまう。
だから、何も告げずに行くしかない。
白いマントを羽織り、扉の外の空気を吸い込みます。
雨に濡れた夜気が肌を撫で、冷たさよりも自由の匂いを感じました。
(ああ、夜の空気って、こんなにも広かったのね)
馬車に荷を積み、静かに門を出ました。
音を立てぬよう、車輪が濡れた石畳を転がっていく。
後ろを振り向くと――屋敷の灯がひとつだけ残っている。
それは、書斎の明かり。
(アシェル様……どうかお元気で)
*
夜明け前、王都の外れに差し掛かるころ、空がほんのり染まり始めました。
屋根から落ちる雨粒が、まるで拍手のように静かに音を立てる。
私はリンドウ色のスカーフで髪をまとめました。
ハーブの薬包紙を抱きしめると、微かな香りが心を落ち着かせる。
馬車の御者が声をかけました。
「奥さま、行き先は?」
「……海の見える町、ルーシェまで」
その名を口にした瞬間、不思議なほど胸の奥が温かくなります。
憧れも、怖れも、全部がひとつに溶けて、旅立ちの勇気へ変わっていく。
*
夜が明けるころ、屋敷の中では小さな騒ぎが起きていました。
「リリア様が……? お部屋にいらっしゃいません!?」
ミーナの慌てた声が響く。
義母は眉をひそめ、アシェル様の手元には……一枚の手紙と、小瓶。
封を切るかどうか、彼はしばらく動けずにいたそうです。
やがてランプの灯の下で、静かに文字を追った。
『あなたの幸福を祈りながら、私の幸福を探しに旅に出かけます。だから、私を追いかけないでください。』
そこに香るセージと忘れな草のかすかな匂い。
指先が、微かに震えました。
その瞳の奥に、何かが崩れていくように。
けれど彼は、ただ立ち尽くすことしかできなかった。
*
そして私を乗せた馬車は、ゆっくりと王都を離れていきました。
雨上がりの空から淡い光が差し込む。
その光を受けたリリアの瞳が、初めて恐れではなく未来を映していました。
「さあ、25歳の私……自分の色で、生きてみよう」
その声は、朝の風の中で静かに消えていきました。
忘れな草とセージの香りを残して――。
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