【完結】二十五歳のドレスを脱ぐとき ~「私という色」を探しに出かけます~

朝日みらい

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【第四章】別れの手紙

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 その夜、屋敷の灯はすでに眠りについていました。

 長い廊下の先、依然として書斎だけが淡く光を残している。
 そこに――彼がいる。

 私はドアの前に立ち、拳を開いたまま、しばらく動けずにいました。
 何か言いたいことはあったはずなのに、喉の奥が痛くて、声が出ません。

(もう、言葉で届く人ではないのかもしれない)

 そう思った瞬間、胸の中で、何かが静かに折れた音がしました。



 部屋に戻ると、机の上には開きかけた便箋が一枚。
 昼間から何度も書こうとして、書けなかった手紙です。

 灯を落とし、ランプをひとつだけ灯しました。蝋の光がわずかに紙の上を照らす。
 深呼吸をして、ゆっくりとペンを取ります。

『25歳になりました。わたくしは、あなたの色にはもう染まれません。  
 あなたの幸福を祈りながら、私の幸福を探しに旅に出かけます。だから、私を追いかけないでください。』

 それだけを書いて、ペン先を止めました。

 手紙の端に涙が落ちるのを見て、ふっと笑ってしまいます。
「……泣くのは、最後にしたかったのに」

 折りたたんで封をすると、不思議と心が穏やかになりました。
 書いてしまえば、もう後戻りはできません。
 けれど、清らかな痛みの中に、どこか軽やかな風を感じていたのです。



 窓の外では、細かな雨が降りはじめていました。
 夜の庭が静かに濡れ、遠くでカエルがひと鳴きする。

 私はランプを片手に、薬草棚の前に立ちました。
 ガラス瓶が並ぶその中から、二つの瓶を取り出す。
 一つは“忘れな草”。
 もう一つは“セージ”。

 忘れな草――「真実の愛」。
 セージ――「尊敬」と「再生」。

 それらを小瓶に詰め、深く息を吸いました。
 ハーブの香りが胸の奥まで広がり、どくん、と鼓動がひとつ強く打つ。

「さよならを悲しい匂いにしたくないの。だから、少しだけ香りを残すわ」

 独り言のように呟く声が、部屋に吸い込まれていく。
 瓶の口を布で優しく封じ、夫の机の上へ置きました。
 それが、私が彼に残せる最後の贈り物。



 気づけば指先が冷たくなっていました。
 握りしめた鍵を開き、寝室のドアをそっと閉める。
 廊下の灯火がかすかに揺れ、誰かが起きてこないかと胸が高鳴りました。

(ごめんなさい、ミーナ……)

 侍女の寝室を通り過ぎながら、彼女の寝息を聞いて立ち止まりました。
 起こしたら、きっと泣いて止めてしまう。
 だから、何も告げずに行くしかない。

 白いマントを羽織り、扉の外の空気を吸い込みます。
 雨に濡れた夜気が肌を撫で、冷たさよりも自由の匂いを感じました。

(ああ、夜の空気って、こんなにも広かったのね)

 馬車に荷を積み、静かに門を出ました。  
 音を立てぬよう、車輪が濡れた石畳を転がっていく。

 後ろを振り向くと――屋敷の灯がひとつだけ残っている。
 それは、書斎の明かり。

(アシェル様……どうかお元気で)



 夜明け前、王都の外れに差し掛かるころ、空がほんのり染まり始めました。
 屋根から落ちる雨粒が、まるで拍手のように静かに音を立てる。

 私はリンドウ色のスカーフで髪をまとめました。  
 ハーブの薬包紙を抱きしめると、微かな香りが心を落ち着かせる。

 馬車の御者が声をかけました。
「奥さま、行き先は?」
「……海の見える町、ルーシェまで」

 その名を口にした瞬間、不思議なほど胸の奥が温かくなります。
 憧れも、怖れも、全部がひとつに溶けて、旅立ちの勇気へ変わっていく。



 夜が明けるころ、屋敷の中では小さな騒ぎが起きていました。

「リリア様が……? お部屋にいらっしゃいません!?」
 ミーナの慌てた声が響く。  
 義母は眉をひそめ、アシェル様の手元には……一枚の手紙と、小瓶。

 封を切るかどうか、彼はしばらく動けずにいたそうです。

 やがてランプの灯の下で、静かに文字を追った。

『あなたの幸福を祈りながら、私の幸福を探しに旅に出かけます。だから、私を追いかけないでください。』

 そこに香るセージと忘れな草のかすかな匂い。  
 指先が、微かに震えました。

 その瞳の奥に、何かが崩れていくように。  
 けれど彼は、ただ立ち尽くすことしかできなかった。



 そして私を乗せた馬車は、ゆっくりと王都を離れていきました。

 雨上がりの空から淡い光が差し込む。  
 その光を受けたリリアの瞳が、初めて恐れではなく未来を映していました。

「さあ、25歳の私……自分の色で、生きてみよう」

 その声は、朝の風の中で静かに消えていきました。

 忘れな草とセージの香りを残して――。
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