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第一章 オメガの僕が、最後に恋をした騎士は冷酷すぎる
第3話 夜明けの質問
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装甲車両は、獣が荒野を駆けるように、揺れながらも着実に進んでいた。
エンジン音と、時折タイヤが石を跳ね上げる音だけが響く車内で、俺とレオンは長いこと無言だった。彼の横顔は硬く、彫像のように整っている。その灰色の瞳は、闇の先にある何かをずっと見据えていた。
俺は、自分の指先が冷たく強張っているのを感じていた。恐怖、混乱、そしてほんの少しの安堵。いくつもの感情が渦巻き、言葉にならなかった。
けれど、どうしても聞かなければいけないことがあった。それは、凍てついた俺の心を溶かした、たった一言。
「……あの……」
掠れた声は、自分でも驚くほど小さかった。運転席のレオンは、視線を前に向けたまま、かすかに眉を動かす。
「なんだ」
「……どうして、俺の……名前を?」
勇気を振り絞って尋ねた。彼にとっては、数ある情報の一つに過ぎなかったのかもしれない。だとしても、知りたかった。
レオンはしばらく黙っていた。気まずい沈黙に、聞くんじゃなかったと後悔しかけた時、彼が口を開いた。
「君に関するデータは、すべて頭に入っている。年齢、身体的特徴、遺伝子情報……名前も、その一つだ」
「……任務、だからですか」
「ああ」
やはり、そうか。
簡潔な肯定に、胸がちくりと痛んだ。勝手に期待して、勝手に落ち込む。俺は昔から何も変わっていない。
俯いた俺の耳に、レオンの少しだけ低い声が続いた。
「……だが、番号で呼ぶ気にはなれなかった」
顔を上げると、レオンはバックミラー越しに、一瞬だけ俺を見ていた。その瞳の色は、相変わらず読み取れない。
でも、その言葉だけで十分だった。冷え切っていた指先に、じんわりと熱が戻ってくる。
「……うれ、しかっ……た、です」
途切れ途切れに、ようやく絞り出す。
「名前で、呼ばれたの……初めて、だったから」
レオンは答えなかった。ただ、車内の空気がほんの少しだけ、和らいだ気がした。
「俺は……これから、どうなるんですか?」
次の質問は、純粋な不安からだった。施設から出られたのはいい。だが、この荒野でどうやって生きていけばいいのか、見当もつかない。
すると、レオンは心底不思議そうな声で聞き返してきた。
「どうなるとは?」
「え……?」
「お前が、お前の好きに生きるんだ。違うのか?」
好きに、生きる。
その言葉の意味が、俺には分からなかった。生まれてからずっと、誰かの都合で生かされてきた。スケジュールは管理され、食事も体調もすべて決められていた。俺に「好き」という選択肢が与えられたことなど、一度もなかったのだ。
俺が戸惑っていると、レオンは小さく息を吐いた。
「……そうか。そこからか」
その声には、呆れとも憐憫ともつかない響きがあった。「まず、腹ごしらえだ」
車両が緩やかに速度を落とし、岩陰に隠れるように停車した。レオンはコンソールから銀色のパックを二つ取り出し、一つを俺に放ってよこす。
「食え。高カロリーのレーションだ。うまくはないが、体力は回復する」
受け取ったパックは、ずしりと重い。今まで口にしてきた栄養剤とは明らかに違う、「食べ物」の感触。戸惑いながらも封を切ると、ビスケットのようなものと、ペースト状の何かが出てきた。
おそるおそるビスケットを口に運ぶ。味はほとんどしなかったが、噛みしめるうちに、穀物の素朴な甘みが広がった。
「食べる」という行為が、こんなにも能動的なものだったなんて知らなかった。
夢中で食べている俺を、レオンは静かに見ていた。
「……あなたは、一体何者なんですか?」
食事が、俺に少しの勇気をくれた。
「どうして、あんな場所から俺を……?」
レオンは自分のレーションを一口かじると、少しだけ遠い目をした。
「元々は、〈エデン・ドーム〉を守る側の騎士だった」
「え……じゃあ……」
「ある人に未来を託された。……繁殖能力だけが価値じゃない、新しい未来を、だ」
彼は静かにそう言うと、ふっと自嘲するように口の端を上げた。
「だが、見ての通りだ。今は祖国を裏切った、ただの逃亡者にすぎん。君と一緒にな」
その時、俺は初めて見た。
レオンの「冷徹な任務人間」という仮面の下にある、人間らしい表情を。ほんのわずかな笑みだったが、それは彼の印象をがらりと変えた。この人も、何かを背負い、傷つき、それでも前に進もうとしている人間なのだと、初めて理解できた。
「……一緒、ですね」
俺がぽつりと呟くと、レオンは少しだけ目を見開いた。
その時、車のフロントガラスの向こう、地平線の稜線が、うっすらと白み始めていることに気づいた。黒一色だった世界に、紺色と、燃えるようなオレンジ色が滲み出していく。
「……あ……」
夜明けだ。
生まれて初めて見る、本物の夜明け。
偽物の空調と照明で作られたドームの朝とは、まるで違う。世界がゆっくりと呼吸を始め、その輪郭を現していく荘厳な光景に、俺は息を呑んだ。闇が光に塗り替えられていく。絶望が、希望に変わる瞬間のようだった。
「……きれい……」
無意識に、言葉がこぼれた。
隣で、レオンが俺の横顔を見ている気配がした。
「ああ」と、彼が静かに相槌を打つ。
「世界は、お前が思っていたよりずっと広いんだ、アキ」
その声は、今まで聞いたどの彼の声よりも、優しく響いた。
荒野を照らし始めた朝日に、俺はこれから始まる長い旅の、ほんの小さな一歩目を踏み出した気がした。
エンジン音と、時折タイヤが石を跳ね上げる音だけが響く車内で、俺とレオンは長いこと無言だった。彼の横顔は硬く、彫像のように整っている。その灰色の瞳は、闇の先にある何かをずっと見据えていた。
俺は、自分の指先が冷たく強張っているのを感じていた。恐怖、混乱、そしてほんの少しの安堵。いくつもの感情が渦巻き、言葉にならなかった。
けれど、どうしても聞かなければいけないことがあった。それは、凍てついた俺の心を溶かした、たった一言。
「……あの……」
掠れた声は、自分でも驚くほど小さかった。運転席のレオンは、視線を前に向けたまま、かすかに眉を動かす。
「なんだ」
「……どうして、俺の……名前を?」
勇気を振り絞って尋ねた。彼にとっては、数ある情報の一つに過ぎなかったのかもしれない。だとしても、知りたかった。
レオンはしばらく黙っていた。気まずい沈黙に、聞くんじゃなかったと後悔しかけた時、彼が口を開いた。
「君に関するデータは、すべて頭に入っている。年齢、身体的特徴、遺伝子情報……名前も、その一つだ」
「……任務、だからですか」
「ああ」
やはり、そうか。
簡潔な肯定に、胸がちくりと痛んだ。勝手に期待して、勝手に落ち込む。俺は昔から何も変わっていない。
俯いた俺の耳に、レオンの少しだけ低い声が続いた。
「……だが、番号で呼ぶ気にはなれなかった」
顔を上げると、レオンはバックミラー越しに、一瞬だけ俺を見ていた。その瞳の色は、相変わらず読み取れない。
でも、その言葉だけで十分だった。冷え切っていた指先に、じんわりと熱が戻ってくる。
「……うれ、しかっ……た、です」
途切れ途切れに、ようやく絞り出す。
「名前で、呼ばれたの……初めて、だったから」
レオンは答えなかった。ただ、車内の空気がほんの少しだけ、和らいだ気がした。
「俺は……これから、どうなるんですか?」
次の質問は、純粋な不安からだった。施設から出られたのはいい。だが、この荒野でどうやって生きていけばいいのか、見当もつかない。
すると、レオンは心底不思議そうな声で聞き返してきた。
「どうなるとは?」
「え……?」
「お前が、お前の好きに生きるんだ。違うのか?」
好きに、生きる。
その言葉の意味が、俺には分からなかった。生まれてからずっと、誰かの都合で生かされてきた。スケジュールは管理され、食事も体調もすべて決められていた。俺に「好き」という選択肢が与えられたことなど、一度もなかったのだ。
俺が戸惑っていると、レオンは小さく息を吐いた。
「……そうか。そこからか」
その声には、呆れとも憐憫ともつかない響きがあった。「まず、腹ごしらえだ」
車両が緩やかに速度を落とし、岩陰に隠れるように停車した。レオンはコンソールから銀色のパックを二つ取り出し、一つを俺に放ってよこす。
「食え。高カロリーのレーションだ。うまくはないが、体力は回復する」
受け取ったパックは、ずしりと重い。今まで口にしてきた栄養剤とは明らかに違う、「食べ物」の感触。戸惑いながらも封を切ると、ビスケットのようなものと、ペースト状の何かが出てきた。
おそるおそるビスケットを口に運ぶ。味はほとんどしなかったが、噛みしめるうちに、穀物の素朴な甘みが広がった。
「食べる」という行為が、こんなにも能動的なものだったなんて知らなかった。
夢中で食べている俺を、レオンは静かに見ていた。
「……あなたは、一体何者なんですか?」
食事が、俺に少しの勇気をくれた。
「どうして、あんな場所から俺を……?」
レオンは自分のレーションを一口かじると、少しだけ遠い目をした。
「元々は、〈エデン・ドーム〉を守る側の騎士だった」
「え……じゃあ……」
「ある人に未来を託された。……繁殖能力だけが価値じゃない、新しい未来を、だ」
彼は静かにそう言うと、ふっと自嘲するように口の端を上げた。
「だが、見ての通りだ。今は祖国を裏切った、ただの逃亡者にすぎん。君と一緒にな」
その時、俺は初めて見た。
レオンの「冷徹な任務人間」という仮面の下にある、人間らしい表情を。ほんのわずかな笑みだったが、それは彼の印象をがらりと変えた。この人も、何かを背負い、傷つき、それでも前に進もうとしている人間なのだと、初めて理解できた。
「……一緒、ですね」
俺がぽつりと呟くと、レオンは少しだけ目を見開いた。
その時、車のフロントガラスの向こう、地平線の稜線が、うっすらと白み始めていることに気づいた。黒一色だった世界に、紺色と、燃えるようなオレンジ色が滲み出していく。
「……あ……」
夜明けだ。
生まれて初めて見る、本物の夜明け。
偽物の空調と照明で作られたドームの朝とは、まるで違う。世界がゆっくりと呼吸を始め、その輪郭を現していく荘厳な光景に、俺は息を呑んだ。闇が光に塗り替えられていく。絶望が、希望に変わる瞬間のようだった。
「……きれい……」
無意識に、言葉がこぼれた。
隣で、レオンが俺の横顔を見ている気配がした。
「ああ」と、彼が静かに相槌を打つ。
「世界は、お前が思っていたよりずっと広いんだ、アキ」
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