「婚約破棄だ」と笑った元婚約者、今さら跪いても遅いですわ

ゆっこ

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 馬車が王都の喧騒を抜け、公爵家の邸宅へ向かう道をゆっくりと進む。
 私は揺れるカーテン越しに風景を眺めながらも、横に座るアレンの存在が気になって仕方なかった。

 先ほどの――あの告白。

(……思い返すだけで胸が熱くなりますわね)

 アレンは私の護衛であり従者。
 いつも一歩引いて、けれど誰より頼もしく私を守ってくれていた。

 まさか、あのアレンが。

 私を――ずっと想ってくれていたなんて。

「リディア様、少し休まれますか?」

 穏やかな低い声。
 私の動揺を気遣うように、そっと手の甲に触れてくる。

「い、いえ……大丈夫ですわ。ありがとうございます、アレン」

 つい声が上ずってしまい、アレンは目を細めて微笑んだ。

「先ほどは急に告げてしまいましたから……驚かせてしまいましたね」

「そ、それは……はい、確かに驚きましたけれど」

 心臓がばくばく鳴っているのが自分でも分かった。

 アレンは続けてそっと言う。

「もし、重荷になっているなら……どうか遠慮なくおっしゃってください」

「いいえ! そんなことはありませんわ!」

 あまりにも強く否定してしまい、自分で自分に驚く。

 アレンが一瞬目を丸くし――すぐに、耳まで赤くした。

(……かわいらしい)

 年下の彼が照れる姿がこんなにも胸を締めつけるなんて、思ってもみなかった。

「ただ……急には決められませんので」

「もちろんです。あなたが私を拒まない限り、私はいつまでも待ち続けます」

 優しすぎる言葉が、まるで体の奥まで染み込んでいく。

(……本当に、何て人なのかしら)

 馬車の車輪の音が心臓の鼓動と混ざり、しばし沈黙が続いた。



 公爵家の屋敷に戻ると、すぐに父が出迎えてくれた。

「リディア! 無事だったか!」

 フォルステイル公爵、つまり私の父は娘に甘いことで有名だが、ひとたび公務に出れば冷徹な判断で国を支える名宰相でもある。

 その父が、私を見るなり駆け寄ってきたのだ。

「ええ、お父様。ご心配をおかけしましたわ」

「心配もするとも! 王太子が、あんな無礼な真似を……!」

 父の怒りはまだ収まっていなかった。

「すぐに正式な抗議文を――いや、こちらから婚約破棄を要求してやろう! あの小娘に言いがかりをつけられた程度で娘を手放すとは……あれは愚か者のすることだ!」

「お父様、ご安心ください。殿下から婚約破棄を宣言されましたので、わたくしは自由の身ですわ」

「それは……良かったのか……?」

 父が複雑な表情を見せると、アレンが一歩前に出た。

「公爵様。殿下の行いによる傷は……リディア様にはございません」

「うむ……アレン、お前がそばにいてくれたようだな。感謝する」

「当然の務めでございます」

 淡々と答えるアレンの横顔はいつもより凛々しく見えた。

(……アレン、本当に頼りになりますわね)

 父は深いため息をつき、私の肩に手を置く。

「リディア。お前が望むなら、殿下に対して相応の報いを与えてもよいのだぞ。フォルステイル家を軽んじた代償は大きい」

 父の言葉に、胸の奥でわずかに冷たいものが動く。

(ざまぁ……そうね。その機会は、いずれ訪れるでしょう)

 ただ今は、まだ。

「お気持ちは嬉しいですわ。ですが……しばらくは静かに過ごしたいのです」

「……わかった。お前がそう言うなら、無理には動かん」

 父の柔らかな声に、少しほっとした。




 その夜。

 自室で一人、私はベッドの端に腰掛けて今日一日の出来事を思い返していた。

(エルネスト殿下のあの顔……今頃、どうしているのかしらね)

 私が愛していないと知った時の、あの絶望と混乱。
 あれは、ほんの序章に過ぎないだろう。

 きっと殿下は、これから自分の失ったものの大きさに気づき始める。

(まあ、今さら気づいたところで遅いんですけれど)

 くすりと笑った、その時。

 コン、コン、と扉が静かに叩かれた。

「……リディア様。今、お時間をいただいてもよろしいですか?」

 アレンの声。

「どうぞ」

 扉が開くと、アレンがそっと室内へ入ってきた。
 控えめな茶色の髪、穏やかな瞳――けれど今日の彼はどこか様子が違う。

「……お休み前に、少しだけお伝えしたいことがあります」

「ええ、何かしら?」

 アレンは近づきすぎない距離で立ち止まり、真剣な表情を浮かべた。

「今日、殿下がリディア様に婚約破棄を突きつけたあの瞬間……私の胸は、怒りで焼けるほどでした」

 低い声。
 いつもは抑えている感情が、その奥に滲んでいる。

「あなたの価値も、あなたの優しさも、何一つ理解しない男が……あなたを傷つけるのが許せなかった」

 アレンがそっと拳を握る。

「ですが――あなたが毅然と殿下を拒絶した姿を見て……私は、誇らしかった」

「アレン……」

 胸がじんわりと熱くなる。

 アレンは続ける。

「殿下は――必ず後悔します。あなたを失った意味を、理解することなく生きてきた罰を」

 その瞳には、決意が宿っていた。

「私は、その後悔を“ざまぁ”と言えるほど……あなたの隣を守りたい」

 息が止まった。

(そんな……そんな言葉……反則ですわよ)

 アレンはそっと手を差し出した。

「今すぐ答えを求めはしません。ただ……あなたが望むなら、いつでも力を貸します」

 手を伸ばそうとした――
 だがその瞬間、屋敷の外から轟音が響き渡った。

「……何?」

 私は思わず窓辺へ駆け寄った。

 遠くで火花のような赤い光が上がっている。

 アレンもすぐに隣に来て、鋭い瞳で外を確認した。

「……あれは、王宮の方向です」

「王宮?」

 胸がざわつく。

 アレンは一瞬だけ迷い、そして私の手を取った。

「リディア様。どうか部屋にお戻りください。危険が及ぶ可能性があります」

「何が起きたの?」

「分かりません。ただ……王宮で何かあったのは間違いない」

 アレンは私の手を離さず、真剣な声で言った。

「――ですが、殿下が関わっている可能性は高い」

 その言葉に、妙な寒気が走る。

(エルネスト殿下に……何が?)

 ざまぁ――とは思ってはいたけれど。
 それがどんな形で訪れるのかまでは考えていなかった。

「アレン……わたくし――」

 その時、屋敷中に鐘の音が鳴り響いた。

 非常を知らせる、重々しい鐘の音。

 アレンは即座に私の前へ立ち、守るように両腕を広げる。

「リディア様、どうか離れずに」

 私はその背中を見つめた。

 先ほどの告白。
 優しい瞳。
 そして今のように、命をかけてでも私を守ろうとしてくれる姿。

(ああ……)

 本当に――この人の隣にいてもいいのかもしれない。

 そう思った瞬間。

「リディア!」

 父の叫び声が廊下から聞こえた。

 扉が勢いよく開かれ、父が血相を変えて部屋へ飛び込んでくる。

「王宮が――反乱に襲われた! 殿下が……!」

「殿下が……どうなさったのです!?」

 私が思わず問いかけると――
 父は唇を固く結び、重々しく告げた。

「――王太子殿下が、拘束された」

「え……?」

 空気が凍りついた。

 アレンが静かに剣に手を添える。

「詳しい状況は?」

「まだわからん。ただ……反乱勢力が殿下を人質に、フォルステイル家を名指しで要求を突きつけている」

「わたくしたちを……?」

 父は深く頷く。

「そうだ。反乱勢力の要求は――“公爵令嬢リディアの身柄”だ」

 血の気が引く。

 王太子との婚約が破棄されたその日のうちに、私は反乱勢力から狙われる。

 あまりにも出来すぎている。

(まさか……殿下が……?)

 嫌な予感が胸を締めつけた。

 アレンが私の前に立ち、低く言った。

「……リディア様は、絶対に渡しません」

 剣を抜きかけるアレンの背を見ながら――
 私はふと、ぞくりと背筋を震わせた。

 エルネストの“ざまぁ”は、まだ序章に過ぎない。

 だけど。

 これから起きるのは――
 私の運命そのものを揺るがす、大きな波なのかもしれない。

(……アレン。わたくし、もう逃げませんわ)

 自分の胸にそう誓った。
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