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秋の夜、公爵邸で盛大な舞踏会が開かれていた。
シャンデリアが煌めく大広間に、王国の名だたる貴族たちが集まっている。楽団が優雅な音楽を奏で、人々が踊り、笑い、会話を楽しんでいた。
この舞踏会は、公爵家の威信を取り戻すための重要な行事だった。最近の評判の悪さを払拭し、公爵家の健在を示す機会。アレクシスは重臣たちの強い勧めで、この舞踏会を開催した。
「公爵夫人も出席されるのですか?」
準備の段階で、執事が心配そうに尋ねた。
「ああ」
アレクシスは疲れた表情で答えた。
「今夜は大丈夫だと言っている」
実際、エリーゼはこの数日、比較的穏やかだった。いつもの癇癪もなく、舞踏会の準備にも協力的だった。アレクシスは一縷の望みを抱いた。もしかしたら、彼女も変わろうとしているのかもしれない。
だが、それは甘い期待だった。
---
舞踏会が始まって二時間ほど経った頃だった。
エリーゼは豪華なドレスに身を包み、アレクシスの隣に立っていた。表情は固く、笑顔も不自然だったが、それでも公爵夫人としての体裁は保っていた。
「公爵夫人、お久しぶりです」
貴族夫人の一人が挨拶に来た。
「ええ」
エリーゼは短く答えた。
「お元気でしたか?最近お姿を見ませんでしたので」
「ええ、少し体調を崩していましたの」
型通りの会話。しかし、エリーゼの手は小刻みに震えていた。アレクシスはそれに気づいたが、何も言えなかった。
「セラフィーナ様の診療所、素晴らしいですわね」
別の夫人が話題を変えた。悪気はなかった。ただの社交的な会話のつもりだった。
「多くの人々を救っていらっしゃるそうで」
「結婚式も来月だそうですわ。本当にお幸せそう」
その瞬間、エリーゼの顔色が変わった。
「あの」
アレクシスが止めようとしたが、遅かった。
「セラフィーナの話はやめてくださる?」
エリーゼの声が冷たくなった。
「え?」
貴族夫人たちが戸惑った表情を見せた。
「私、あの女の名前を聞くのが嫌なの」
「エリーゼ」
アレクシスが小声で警告したが、エリーゼは聞いていなかった。
「病弱だった癖に、今は健康ですって?笑わせるわ。きっと何か怪しい薬でも使っているのよ」
「公爵夫人、それは…」
夫人たちが困惑した。周囲の会話が止まり始めた。人々がこちらを見ている。
「それに無料診療所?偽善よ、偽善!自分を良く見せたいだけじゃない!」
エリーゼの声が大きくなった。もう周囲の全員が注目している。
「エリーゼ、落ち着いて」
アレクシスが彼女の腕を取ろうとした。
「触らないで!」
エリーゼは腕を振り払った。その拍子に、近くにいた侍女がバランスを崩した。
「きゃっ!」
侍女が持っていたワイングラスが床に落ち、赤いワインが大理石の床に広がった。
「何やってるの!」
エリーゼは侍女に詰め寄った。
「ごめんなさい、公爵夫人様」
侍女は慌てて跪いた。
「謝って済むと思ってるの!この役立たず!」
エリーゼは侍女の頬を平手で打った。
パシン、という音が広間に響いた。
会場が凍りついた。楽団の演奏が止まった。全員がこの光景を目撃していた。
侍女は頬を押さえ、涙を浮かべている。エリーゼは肩で息をしながら、周囲を睨みつけた。
「何よ!何を見てるの!」
貴族たちは唖然としていた。公爵夫人が使用人を公衆の面前で殴打する。これは前代未聞のスキャンダルだった。
「エリーゼ!」
アレクシスが強い口調で言った。
「部屋に戻りなさい」
「嫌よ!」
エリーゼは叫んだ。
「私は何も悪くないわ!この娘が不注意だったのよ!」
「公爵夫人」
執事が進み出た。
「どうかお部屋で休まれては」
「あなたもセラフィーナの味方なの!みんな私の敵なのね!」
エリーゼは泣き叫び始めた。化粧が涙で滲み、醜く崩れていく。
「セラフィーナなんて大嫌い!病弱の癖に!貧弱な癖に!なのに幸せになるなんて!許せない!」
その姿を、数百人の貴族たちが見ていた。哀れみ、軽蔑、驚愕。様々な感情が視線に込められていた。
「もういい!」
アレクシスは決断した。彼は執事と警備の騎士に目配せをした。
「公爵夫人を寝室へ」
「離しなさい!離して!」
エリーゼは抵抗したが、二人の侍女に両脇を支えられ、半ば引きずられるように広間から連れ出された。
「私は公爵夫人よ!誰も私に命令できないわ!アレクシス!アレクシス!」
その叫び声が廊下に響き、やがて遠ざかっていった。
大広間には重い沈黙が流れた。
アレクシスは深々と頭を下げた。
「皆様、大変失礼いたしました。妻の無礼、深くお詫び申し上げます」
貴族たちは戸惑いながら、小さく頷いた。
「舞踏会は中止とさせていただきます。本日はお引き取りください」
アレクシスの声には、深い疲労が滲んでいた。
貴族たちは静かに会場を後にした。誰もが複雑な表情で、小声で話し合っている。
「まさか、あそこまでとは…」
「公爵様がお気の毒だ」
「公爵家の未来は…」
アレクシスは一人、大広間に残された。散乱したワイングラス、途中で止まった音楽、消えかけたキャンドル。
彼は床に広がった赤ワインを見つめた。まるで血のようだと思った。公爵家の威信という血が、こうして流れ出ていく。
「公爵様」
執事が戻ってきた。
「公爵夫人は寝室に。医師を呼びましょうか」
「いや、いい」
アレクシスは首を振った。
「これは、病気ではない」
彼は窓辺に歩み寄り、夜空を見上げた。
「バルトロメウスを呼んでくれ」
「は」
「明日、親族会議を開く。もう、決めなければならない」
執事は静かに頭を下げ、退出した。
アレクシスは一人、長い夜を過ごした。決断の時が来た。もう先延ばしにはできない。
---
翌朝、王都中にスキャンダルが広まっていた。
「公爵夫人が舞踏会で大暴れ」
「侍女を殴打」
「セラフィーナ様への嫉妬で錯乱」
噂は尾ひれをつけて広がり、公爵家の評判は地に落ちた。
一方、セラフィーナは診療所で穏やかに仕事をしていた。噂は耳に入ったが、彼女は何も言わなかった。ただ、目の前の患者を丁寧に診察し、薬を調合し、優しく微笑むだけだった。
「セラフィーナ」
エドウィンが心配そうに声をかけた。
「大丈夫ですか」
「ええ」
彼女は穏やかに答えた。
「もう、過去のことです。私には今、守るべき未来があります」
彼女の目には、迷いがなかった。エドウィンは彼女の手を取り、優しく握った。
「そうですね」
二人は微笑み合い、再び仕事に戻った。
外では秋の風が吹き、木々の葉が舞い落ちている。季節は移り変わり、人の運命も変わっていく。
公爵家の破綻と、侯爵令嬢の幸福。二つの道は、もう交わることはなかった。
シャンデリアが煌めく大広間に、王国の名だたる貴族たちが集まっている。楽団が優雅な音楽を奏で、人々が踊り、笑い、会話を楽しんでいた。
この舞踏会は、公爵家の威信を取り戻すための重要な行事だった。最近の評判の悪さを払拭し、公爵家の健在を示す機会。アレクシスは重臣たちの強い勧めで、この舞踏会を開催した。
「公爵夫人も出席されるのですか?」
準備の段階で、執事が心配そうに尋ねた。
「ああ」
アレクシスは疲れた表情で答えた。
「今夜は大丈夫だと言っている」
実際、エリーゼはこの数日、比較的穏やかだった。いつもの癇癪もなく、舞踏会の準備にも協力的だった。アレクシスは一縷の望みを抱いた。もしかしたら、彼女も変わろうとしているのかもしれない。
だが、それは甘い期待だった。
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舞踏会が始まって二時間ほど経った頃だった。
エリーゼは豪華なドレスに身を包み、アレクシスの隣に立っていた。表情は固く、笑顔も不自然だったが、それでも公爵夫人としての体裁は保っていた。
「公爵夫人、お久しぶりです」
貴族夫人の一人が挨拶に来た。
「ええ」
エリーゼは短く答えた。
「お元気でしたか?最近お姿を見ませんでしたので」
「ええ、少し体調を崩していましたの」
型通りの会話。しかし、エリーゼの手は小刻みに震えていた。アレクシスはそれに気づいたが、何も言えなかった。
「セラフィーナ様の診療所、素晴らしいですわね」
別の夫人が話題を変えた。悪気はなかった。ただの社交的な会話のつもりだった。
「多くの人々を救っていらっしゃるそうで」
「結婚式も来月だそうですわ。本当にお幸せそう」
その瞬間、エリーゼの顔色が変わった。
「あの」
アレクシスが止めようとしたが、遅かった。
「セラフィーナの話はやめてくださる?」
エリーゼの声が冷たくなった。
「え?」
貴族夫人たちが戸惑った表情を見せた。
「私、あの女の名前を聞くのが嫌なの」
「エリーゼ」
アレクシスが小声で警告したが、エリーゼは聞いていなかった。
「病弱だった癖に、今は健康ですって?笑わせるわ。きっと何か怪しい薬でも使っているのよ」
「公爵夫人、それは…」
夫人たちが困惑した。周囲の会話が止まり始めた。人々がこちらを見ている。
「それに無料診療所?偽善よ、偽善!自分を良く見せたいだけじゃない!」
エリーゼの声が大きくなった。もう周囲の全員が注目している。
「エリーゼ、落ち着いて」
アレクシスが彼女の腕を取ろうとした。
「触らないで!」
エリーゼは腕を振り払った。その拍子に、近くにいた侍女がバランスを崩した。
「きゃっ!」
侍女が持っていたワイングラスが床に落ち、赤いワインが大理石の床に広がった。
「何やってるの!」
エリーゼは侍女に詰め寄った。
「ごめんなさい、公爵夫人様」
侍女は慌てて跪いた。
「謝って済むと思ってるの!この役立たず!」
エリーゼは侍女の頬を平手で打った。
パシン、という音が広間に響いた。
会場が凍りついた。楽団の演奏が止まった。全員がこの光景を目撃していた。
侍女は頬を押さえ、涙を浮かべている。エリーゼは肩で息をしながら、周囲を睨みつけた。
「何よ!何を見てるの!」
貴族たちは唖然としていた。公爵夫人が使用人を公衆の面前で殴打する。これは前代未聞のスキャンダルだった。
「エリーゼ!」
アレクシスが強い口調で言った。
「部屋に戻りなさい」
「嫌よ!」
エリーゼは叫んだ。
「私は何も悪くないわ!この娘が不注意だったのよ!」
「公爵夫人」
執事が進み出た。
「どうかお部屋で休まれては」
「あなたもセラフィーナの味方なの!みんな私の敵なのね!」
エリーゼは泣き叫び始めた。化粧が涙で滲み、醜く崩れていく。
「セラフィーナなんて大嫌い!病弱の癖に!貧弱な癖に!なのに幸せになるなんて!許せない!」
その姿を、数百人の貴族たちが見ていた。哀れみ、軽蔑、驚愕。様々な感情が視線に込められていた。
「もういい!」
アレクシスは決断した。彼は執事と警備の騎士に目配せをした。
「公爵夫人を寝室へ」
「離しなさい!離して!」
エリーゼは抵抗したが、二人の侍女に両脇を支えられ、半ば引きずられるように広間から連れ出された。
「私は公爵夫人よ!誰も私に命令できないわ!アレクシス!アレクシス!」
その叫び声が廊下に響き、やがて遠ざかっていった。
大広間には重い沈黙が流れた。
アレクシスは深々と頭を下げた。
「皆様、大変失礼いたしました。妻の無礼、深くお詫び申し上げます」
貴族たちは戸惑いながら、小さく頷いた。
「舞踏会は中止とさせていただきます。本日はお引き取りください」
アレクシスの声には、深い疲労が滲んでいた。
貴族たちは静かに会場を後にした。誰もが複雑な表情で、小声で話し合っている。
「まさか、あそこまでとは…」
「公爵様がお気の毒だ」
「公爵家の未来は…」
アレクシスは一人、大広間に残された。散乱したワイングラス、途中で止まった音楽、消えかけたキャンドル。
彼は床に広がった赤ワインを見つめた。まるで血のようだと思った。公爵家の威信という血が、こうして流れ出ていく。
「公爵様」
執事が戻ってきた。
「公爵夫人は寝室に。医師を呼びましょうか」
「いや、いい」
アレクシスは首を振った。
「これは、病気ではない」
彼は窓辺に歩み寄り、夜空を見上げた。
「バルトロメウスを呼んでくれ」
「は」
「明日、親族会議を開く。もう、決めなければならない」
執事は静かに頭を下げ、退出した。
アレクシスは一人、長い夜を過ごした。決断の時が来た。もう先延ばしにはできない。
---
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「公爵夫人が舞踏会で大暴れ」
「侍女を殴打」
「セラフィーナ様への嫉妬で錯乱」
噂は尾ひれをつけて広がり、公爵家の評判は地に落ちた。
一方、セラフィーナは診療所で穏やかに仕事をしていた。噂は耳に入ったが、彼女は何も言わなかった。ただ、目の前の患者を丁寧に診察し、薬を調合し、優しく微笑むだけだった。
「セラフィーナ」
エドウィンが心配そうに声をかけた。
「大丈夫ですか」
「ええ」
彼女は穏やかに答えた。
「もう、過去のことです。私には今、守るべき未来があります」
彼女の目には、迷いがなかった。エドウィンは彼女の手を取り、優しく握った。
「そうですね」
二人は微笑み合い、再び仕事に戻った。
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