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公爵邸の書斎。窓から差し込む秋の陽光が、重厚な家具を照らしている。
アレクシスは机の前に座り、羊皮紙に向かっていた。ペンを手に取り、何度か躊躇した後、ゆっくりと文字を綴り始めた。
養子縁組の書類。そして、公爵位継承の放棄宣言。
「本当によろしいのですか」
執事のマクスウェルが心配そうに尋ねた。彼は長年アレクシスに仕えており、この決断がどれほど重いものか理解していた。
「ああ」
アレクシスは疲れた笑みを浮かべた。
「これが最善だ」
昨夜の親族会議は、激しいものだった。エリーゼとの離縁、従弟ヴィクターの養子縁組、そしてアレクシス自身の隠居。全てが一度に決まった。
エリーゼは実家に戻される。離縁の理由は「病により公爵夫人の務めを果たせない」という穏便な表現になった。彼女の家族は抗議したが、舞踏会の事件を目撃した貴族たちの証言があり、反論できなかった。
「ヴィクター様は優秀な方です」
マクスウェルが言った。
「公爵家を立て直してくれるでしょう」
「ああ、彼なら大丈夫だ」
アレクシスは頷いた。ヴィクターは誠実で有能な青年だった。既に結婚して子供もおり、領地経営の経験も豊富だ。彼が次期公爵になれば、公爵家の未来は安泰だろう。
「あなた様はどうされるのですか」
マクスウェルが慎重に尋ねた。
「辺境の別荘に移る」
アレクシスは静かに答えた。
「そこで静かに暮らそうと思う。もう、社交界には顔を出さない」
まだ二十代半ばの若さで、隠居を選ぶ。それは異例だったが、アレクシスは心から望んでいた。
「疲れたんだ」
彼は窓の外を見つめた。
「公爵として、夫として、あらゆることに疲れた。少し休みたい」
マクスウェルは黙って頭を下げた。彼にはアレクシスの気持ちがわかった。この一年半、主人がどれほど苦しんできたか。エリーゼの癇癪に耐え、親族の圧力に晒され、社交界の噂に苦しみ。そして何より、間違った選択をした自分自身を責め続けてきた。
「一つだけ、お願いがあります」
アレクシスが言った。
「何でしょう」
「セラフィーナの結婚式に、匿名で祝儀を送ってほしい」
マクスウェルは驚いた表情を見せたが、すぐに理解した。
「かしこまりました」
「彼女に私からだとわからないように。ただの祝福者の一人として」
アレクシスの声には、深い後悔が滲んでいた。
「彼女の幸せだけが、私にとって唯一の救いなんだ」
---
数日後、ヴィクターが公爵邸を訪れた。
「アレクシス様」
二十五歳の青年は、複雑な表情でアレクシスを見つめた。
「本当によろしいのですか。まだ若いのに」
「ああ」
アレクシスは穏やかに微笑んだ。
「これが私の選択だ」
二人は書斎で向かい合った。ヴィクターは結婚しており、六歳の娘と三歳の息子がいる。家族思いで、領地の民からも慕われている。
「公爵家を頼む」
アレクシスが言った。
「威信を取り戻してほしい。私が傷つけてしまった名誉を」
「お任せください」
ヴィクターは真剣な表情で頷いた。
「必ず、公爵家を立て直します」
二人は固く握手を交わした。
---
同じ頃、エリーゼは実家の伯爵邸で荷物をまとめていた。
「何でこんなことに…」
彼女は泣きながら服を鞄に詰めていた。化粧も乱れ、髪も梳かしていない。かつての美貌は見る影もなかった。
「全部セラフィーナのせいよ…あの女がいなければ…」
まだ彼女は理解していなかった。全ては自分自身の行いの結果だということを。
「エリーゼ」
父親の伯爵が部屋に入ってきた。厳しい表情だった。
「少し、頭を冷やしなさい。お前の振る舞いは度が過ぎた」
「でも!」
「言い訳は聞きたくない」
伯爵は冷たく言った。
「お前は公爵夫人という立場を与えられながら、それを台無しにした。責任を取りなさい」
エリーゼは何も言えなかった。父親の失望した目を見て、初めて自分が何を失ったのか理解し始めた。
---
一週間後、王宮で正式な発表があった。
「アレクシス・クロフォード公爵が健康上の理由により隠居。従弟のヴィクター・クロフォードを養子とし、次期公爵とする」
社交界は驚愕した。若き公爵の突然の隠居。そしてエリーゼとの離縁。
「やはりあの舞踏会の事件が…」
「公爵様がお気の毒に」
「エリーゼ様は実家に戻られたそうですわ」
噂が飛び交ったが、公式には「健康上の理由」とされた。アレクシスの最後の配慮だった。エリーゼの面目を、最小限は保とうとしたのだ。
---
出発の日。
アレクシスは小さな馬車に荷物を積み込んでいた。多くを持っていく必要はなかった。書物と、いくつかの思い出の品だけ。
「公爵様」
マクスウェルが最後の挨拶に来た。
「お体に気をつけて」
「ありがとう。長い間、世話になった」
二人は握手を交わした。
「セラフィーナ様への祝儀は、確かに届けました」
「そうか」
アレクシスは微かに微笑んだ。
「彼女は幸せになる。それだけが、私の願いだ」
馬車が動き出した。アレクシスは窓から公爵邸を見つめた。多くの思い出が詰まった場所。栄光も、失敗も、全てがここにあった。
だが、もう振り返らない。前を向く。セラフィーナがそうしたように。
馬車は王都を抜け、辺境へと向かった。秋の風が冷たく、木々の葉が舞い散っている。
アレクシスは目を閉じた。心は空虚だったが、同時に解放されたような感覚もあった。
(これでいいのだ)
彼は自分に言い聞かせた。
(これが、私の選択した道の結末だ)
馬車は小さくなり、やがて地平線の彼方に消えていった。
---
同じ日、セラフィーナは結婚式の最終準備をしていた。
「セラフィーナ様、匿名の祝儀が届いております」
執事が言った。
「まあ」
セラフィーナは封筒を受け取った。中には、かなりの額の金貨と、短い手紙が入っていた。
「ご結婚おめでとうございます。どうか末永くお幸せに。—ある祝福者より」
セラフィーナは手紙を読み、静かに微笑んだ。筆跡に、どこか見覚えがあるような気がした。でも、それを確かめようとはしなかった。
「ありがとうございます」
彼女は小さく呟いて、手紙を大切にしまった。
過去は過去。未来は未来。それぞれの道を、それぞれが歩んでいく。
窓の外では、秋の空が高く澄んでいた。
アレクシスは机の前に座り、羊皮紙に向かっていた。ペンを手に取り、何度か躊躇した後、ゆっくりと文字を綴り始めた。
養子縁組の書類。そして、公爵位継承の放棄宣言。
「本当によろしいのですか」
執事のマクスウェルが心配そうに尋ねた。彼は長年アレクシスに仕えており、この決断がどれほど重いものか理解していた。
「ああ」
アレクシスは疲れた笑みを浮かべた。
「これが最善だ」
昨夜の親族会議は、激しいものだった。エリーゼとの離縁、従弟ヴィクターの養子縁組、そしてアレクシス自身の隠居。全てが一度に決まった。
エリーゼは実家に戻される。離縁の理由は「病により公爵夫人の務めを果たせない」という穏便な表現になった。彼女の家族は抗議したが、舞踏会の事件を目撃した貴族たちの証言があり、反論できなかった。
「ヴィクター様は優秀な方です」
マクスウェルが言った。
「公爵家を立て直してくれるでしょう」
「ああ、彼なら大丈夫だ」
アレクシスは頷いた。ヴィクターは誠実で有能な青年だった。既に結婚して子供もおり、領地経営の経験も豊富だ。彼が次期公爵になれば、公爵家の未来は安泰だろう。
「あなた様はどうされるのですか」
マクスウェルが慎重に尋ねた。
「辺境の別荘に移る」
アレクシスは静かに答えた。
「そこで静かに暮らそうと思う。もう、社交界には顔を出さない」
まだ二十代半ばの若さで、隠居を選ぶ。それは異例だったが、アレクシスは心から望んでいた。
「疲れたんだ」
彼は窓の外を見つめた。
「公爵として、夫として、あらゆることに疲れた。少し休みたい」
マクスウェルは黙って頭を下げた。彼にはアレクシスの気持ちがわかった。この一年半、主人がどれほど苦しんできたか。エリーゼの癇癪に耐え、親族の圧力に晒され、社交界の噂に苦しみ。そして何より、間違った選択をした自分自身を責め続けてきた。
「一つだけ、お願いがあります」
アレクシスが言った。
「何でしょう」
「セラフィーナの結婚式に、匿名で祝儀を送ってほしい」
マクスウェルは驚いた表情を見せたが、すぐに理解した。
「かしこまりました」
「彼女に私からだとわからないように。ただの祝福者の一人として」
アレクシスの声には、深い後悔が滲んでいた。
「彼女の幸せだけが、私にとって唯一の救いなんだ」
---
数日後、ヴィクターが公爵邸を訪れた。
「アレクシス様」
二十五歳の青年は、複雑な表情でアレクシスを見つめた。
「本当によろしいのですか。まだ若いのに」
「ああ」
アレクシスは穏やかに微笑んだ。
「これが私の選択だ」
二人は書斎で向かい合った。ヴィクターは結婚しており、六歳の娘と三歳の息子がいる。家族思いで、領地の民からも慕われている。
「公爵家を頼む」
アレクシスが言った。
「威信を取り戻してほしい。私が傷つけてしまった名誉を」
「お任せください」
ヴィクターは真剣な表情で頷いた。
「必ず、公爵家を立て直します」
二人は固く握手を交わした。
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同じ頃、エリーゼは実家の伯爵邸で荷物をまとめていた。
「何でこんなことに…」
彼女は泣きながら服を鞄に詰めていた。化粧も乱れ、髪も梳かしていない。かつての美貌は見る影もなかった。
「全部セラフィーナのせいよ…あの女がいなければ…」
まだ彼女は理解していなかった。全ては自分自身の行いの結果だということを。
「エリーゼ」
父親の伯爵が部屋に入ってきた。厳しい表情だった。
「少し、頭を冷やしなさい。お前の振る舞いは度が過ぎた」
「でも!」
「言い訳は聞きたくない」
伯爵は冷たく言った。
「お前は公爵夫人という立場を与えられながら、それを台無しにした。責任を取りなさい」
エリーゼは何も言えなかった。父親の失望した目を見て、初めて自分が何を失ったのか理解し始めた。
---
一週間後、王宮で正式な発表があった。
「アレクシス・クロフォード公爵が健康上の理由により隠居。従弟のヴィクター・クロフォードを養子とし、次期公爵とする」
社交界は驚愕した。若き公爵の突然の隠居。そしてエリーゼとの離縁。
「やはりあの舞踏会の事件が…」
「公爵様がお気の毒に」
「エリーゼ様は実家に戻られたそうですわ」
噂が飛び交ったが、公式には「健康上の理由」とされた。アレクシスの最後の配慮だった。エリーゼの面目を、最小限は保とうとしたのだ。
---
出発の日。
アレクシスは小さな馬車に荷物を積み込んでいた。多くを持っていく必要はなかった。書物と、いくつかの思い出の品だけ。
「公爵様」
マクスウェルが最後の挨拶に来た。
「お体に気をつけて」
「ありがとう。長い間、世話になった」
二人は握手を交わした。
「セラフィーナ様への祝儀は、確かに届けました」
「そうか」
アレクシスは微かに微笑んだ。
「彼女は幸せになる。それだけが、私の願いだ」
馬車が動き出した。アレクシスは窓から公爵邸を見つめた。多くの思い出が詰まった場所。栄光も、失敗も、全てがここにあった。
だが、もう振り返らない。前を向く。セラフィーナがそうしたように。
馬車は王都を抜け、辺境へと向かった。秋の風が冷たく、木々の葉が舞い散っている。
アレクシスは目を閉じた。心は空虚だったが、同時に解放されたような感覚もあった。
(これでいいのだ)
彼は自分に言い聞かせた。
(これが、私の選択した道の結末だ)
馬車は小さくなり、やがて地平線の彼方に消えていった。
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同じ日、セラフィーナは結婚式の最終準備をしていた。
「セラフィーナ様、匿名の祝儀が届いております」
執事が言った。
「まあ」
セラフィーナは封筒を受け取った。中には、かなりの額の金貨と、短い手紙が入っていた。
「ご結婚おめでとうございます。どうか末永くお幸せに。—ある祝福者より」
セラフィーナは手紙を読み、静かに微笑んだ。筆跡に、どこか見覚えがあるような気がした。でも、それを確かめようとはしなかった。
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