3 / 20
3
しおりを挟む
村に来て三日目の朝、セレスティアは食料を買いに出かけた。
屋敷にあった保存食はとうに底を尽き、昨夜は井戸水だけで夜を越した。空腹で目が覚めるという経験は、二十三年の人生で初めてのことだった。
村の中心部にある雑貨屋は、「マーサの店」という看板を掲げた古い建物だった。
扉を開けると、カウベルが乾いた音を立てる。店内には食料品から日用品まで、雑多な品物が所狭しと並んでいた。
「いらっしゃい」
カウンターの奥から、白髪の老婆が顔を出した。丸い眼鏡をかけ、人の良さそうな顔をしている。
「ああ、あんたが噂の都会のお嬢さんかい」
「セレスティアと申します。エルザの孫です」
「知ってるよ。村中の噂になってる」
老婆はにっこりと笑った。
「あたしはマーサ。この店を五十年やってる。何か困ったことがあったら、いつでもおいで」
セレスティアは少し安堵した。村人たちの冷ややかな視線には慣れつつあったが、こうして親しく話しかけてくれる人がいるのは心強い。
「パンと、チーズと、野菜を少しいただけますか。それと……」
「猫の餌かい?」
マーサが目を細めた。
「あんた、ノア先生に会ったんだろう?」
セレスティアは驚いて老婆を見た。
「ノア先生……あの方は、お医者様なのですか?」
「そうさ。三年前にこの村に来た。腕は確かだよ。うちの亭主が倒れた時も、すぐに駆けつけてくれた」
マーサはパンを包みながら、ノアについて語り始めた。
「でもね、変わり者でね。村人との付き合いを避けてるんだ。挨拶しても返事しないし、世間話にも応じない。だから最初の頃は、村の連中も警戒してたよ」
「それでも、医師として認められているのですか」
「腕がいいからねえ。それに、お金がない人からは診療代を取らない。子供が熱を出せば夜中でも往診に行く。そういうところは、皆分かってるんだ」
セレスティアは、あの無愛想な青年の意外な一面を知った。
「でも一番変わってるのは」
マーサは声をひそめた。
「猫だよ。あの人、捨て猫や野良猫を見つけると、必ず保護するんだ。今、あの家には十匹以上の猫がいるはずさ」
「十匹以上……」
「傷ついた動物も同じ。鳥でも狐でも、何でも治療する。村の子供たちは『猫先生』って呼んでるよ」
猫先生。
セレスティアは思わず微笑んだ。あの冷たい態度の青年が、捨て猫を保護しているなど、想像もつかなかった。
「あんたの屋敷の庭にも、猫が来るだろう?」
マーサが言った。
「エルザ様が生きてた頃、よく猫たちに餌をやってたんだ。だから今でも、あの辺りをうろついてる子が何匹かいる」
「ああ、だから……」
三毛猫がいた理由が分かった。あの猫は、祖母に餌をもらっていたのだ。
買い物を終えて屋敷に戻ると、庭に猫がいた。
一匹ではない。五匹だ。
三毛猫、黒猫、白と茶のぶち猫、灰色の縞猫、そして全身真っ白の猫。皆、セレスティアを見つけると警戒して身構えた。
「まあ……」
セレスティアは立ち止まった。
猫たちは痩せている。あばら骨が浮いて見える子もいる。祖母が亡くなってから三年、誰も餌をやる人がいなかったのだろう。
胸が痛んだ。
買い物袋を見下ろす。パン、チーズ、野菜、そして少しの干し肉。人間用の食料だが、猫に分けてやることはできる。
しかし、それでいいのだろうか。
「猫に構うな」とノアは言った。人間嫌いだから、と。
でも、この空腹の猫たちを見て見ぬふりをすることは、セレスティアにはできなかった。
考えた末、彼女はノアの家を訪ねることにした。
玄関の扉を叩くと、しばらく間があって扉が開いた。
ノアは相変わらず無愛想な顔で、セレスティアを見下ろした。
「何だ」
「あの、猫の餌について教えていただきたくて」
「猫の餌?」
「私の屋敷の庭に、猫が五匹います。とても空腹そうで……何を食べさせればいいのか分からなくて」
ノアの目が、わずかに変わった。
無関心から、かすかな興味へ。
「……中に入れ」
ノアの家に入ると、猫の匂いがした。
しかし不快な匂いではない。清潔に保たれた室内には、至るところに猫がいた。棚の上、椅子の上、窓辺、床の上。様々な色と大きさの猫たちが、思い思いの場所でくつろいでいる。
「十三匹だ」
セレスティアの視線に気づいたノアが言った。
「今は十三匹いる」
「すごい……」
「すごくない。捨てる人間がいるから、こうなる」
その言葉には、静かな怒りが込められていた。
ノアは棚から大きな袋を取り出した。
「これが猫用の餌だ。乾燥させた魚と穀物を混ぜたもので、村の漁師から仕入れている」
「それを、分けていただけますか」
「金は取らない」
ノアは袋をセレスティアに押しつけた。
「その代わり、条件がある」
「条件?」
「毎日、ちゃんと世話をしろ。餌をやるだけじゃない。水も替えろ。病気の兆候がないか、毎日観察しろ。飽きたから放り出す、なんてことは許さない」
厳しい口調だった。しかし、その厳しさの裏にある優しさを、セレスティアは感じ取った。
「分かりました」
彼女はしっかりと頷いた。
「毎日、きちんと世話をします」
ノアはじっとセレスティアを見つめた。嘘をついていないか確かめるように。
そして、小さく頷いた。
「餌のやり方を教える。ついてこい」
ノアは庭に出て、実演してみせた。
餌の量、水の替え方、猫の呼び方。一匹一匹の性格が違うこと、無理に触ろうとしないこと、信頼関係を築くには時間がかかること。
無愛想な口調は変わらなかったが、説明は丁寧だった。
「この黒いのはクロ。臆病だが、慣れれば一番甘えてくる。そっちの三毛はミケ。お前を引っ掻いた奴だ。人間嫌いだが、こいつにも事情がある」
「事情?」
「前の飼い主に虐待されていた。だから人間を信用できない」
セレスティアは胸が詰まった。
あの三毛猫——ミケは、人間に傷つけられた過去があるのだ。だから、近づこうとすると攻撃する。
それは、自己防衛なのだ。
ふと、自分自身と重なる気がした。セレスティアも、人を信じることが怖くなっている。王太子に裏切られ、社交界で笑われ、両親にすら理解されない。心を閉ざしたくなる気持ちは、痛いほど分かる。
「猫は、無理強いしても心を開かない」
ノアが言った。
「ただ側にいて、待つしかない。いつか向こうから近づいてくるのを」
その言葉は、猫のことだけを言っているのだろうか。
セレスティアはノアの横顔を見つめた。この人も、何か傷を抱えているのかもしれない。
餌の袋を抱えて屋敷に戻ると、五匹の猫たちがまだ庭にいた。
教わった通りに餌を準備し、庭の隅に置く。少し離れた場所に水の器も用意した。
猫たちは警戒しながらも、餌の匂いに惹かれてじりじりと近づいてきた。
セレスティアは動かず、じっと見守った。
最初に餌にありついたのは、灰色の縞猫だった。がつがつと貪るように食べる様子が、どれほど空腹だったかを物語っている。
続いて黒猫が、白とぶちの猫が、そして白猫が。
最後まで近づかなかったのは、三毛猫のミケだった。
他の猫たちが食べ終わっても、ミケは離れた場所から様子を窺っている。
「大丈夫よ」
セレスティアは静かに語りかけた。
「怖くないから」
ミケは答えない。じっとこちらを見つめている。
無理強いはしない。ノアの言葉を思い出し、セレスティアは立ち上がって家の中に入った。
窓から庭を見ると、ミケがようやく餌に近づいていた。
セレスティアがいなくなったことを確認して、ようやく安心できたのだろう。
少し寂しかったが、それでいいのだと思った。
信頼は、一日では築けない。
夕方、玄関の扉を叩く音がした。
開けると、マーサが立っていた。手には、焼きたてのパンが入った籠を持っている。
「差し入れだよ。あんた、ろくなもの食べてないだろう」
「マーサさん……ありがとうございます」
セレスティアは思わず目頭が熱くなった。
「おやおや、泣くことはないよ」
マーサは笑いながら家に上がり込んだ。
「あんた、ノア先生と話したんだって? 猫の餌をもらいに行ったって聞いたよ」
「村の人は何でもご存知なんですね」
「狭い村だからねえ。噂はすぐに広まる」
マーサはリビングを見回し、感心したように言った。
「へえ、随分きれいにしたじゃないか。エルザ様が見たら喜ぶよ」
「まだまだ途中ですけど」
二人でテーブルを囲み、マーサが持ってきたパンを分け合った。焼きたてのパンは、王都のどんな高級菓子よりも美味しく感じられた。
「ところでね」
マーサがお茶を啜りながら言った。
「あんた、ノア先生とまともに話せたのは、この村に来て初めての人だよ」
「え?」
「あの人、本当に人付き合いが苦手でね。診療の時以外は誰とも口を利かない。あたしが話しかけても、必要なこと以外は答えないんだ」
セレスティアは驚いた。確かにノアは無愛想だったが、猫のことについてはきちんと教えてくれた。
「猫の話だったからかもしれません」
「そうかもしれないねえ」
マーサは意味深な笑みを浮かべた。
「でもあんた、諦めないでおやりよ。あの人にも、話し相手が必要だと思うんだ」
話し相手。
セレスティアは窓の外を見た。ノアの家の方向には、夕日が沈みかけている。
あの無愛想な医師は今、十三匹の猫たちと何をしているのだろう。
「そうですね」
セレスティアは小さく呟いた。
「猫の世話のこと、もっと教えてもらいたいですし」
その夜、セレスティアは祖母の日記を見つけた。
屋敷の掃除を進める中で、書斎の引き出しから出てきたのだ。古びた革表紙のノートには、祖母の几帳面な文字が並んでいる。
最後の記述は、亡くなる一週間前のものだった。
『今日も猫たちが来た。ミケはまだ私に心を開いてくれないけれど、それでもいい。この子なりのペースがある。人間も、猫も、傷つけば時間がかかるものだ。でも、諦めずに側にいれば、いつかきっと通じ合える。私はそう信じている』
セレスティアは日記を閉じ、胸に抱いた。
祖母は最後まで、猫たちを愛していたのだ。
そして今、その猫たちがセレスティアの前にいる。
「おばあ様」
セレスティアは呟いた。
「私、ちゃんと世話しますから」
窓の外で、猫の鳴き声がした。
明日も、猫たちが待っている。
屋敷にあった保存食はとうに底を尽き、昨夜は井戸水だけで夜を越した。空腹で目が覚めるという経験は、二十三年の人生で初めてのことだった。
村の中心部にある雑貨屋は、「マーサの店」という看板を掲げた古い建物だった。
扉を開けると、カウベルが乾いた音を立てる。店内には食料品から日用品まで、雑多な品物が所狭しと並んでいた。
「いらっしゃい」
カウンターの奥から、白髪の老婆が顔を出した。丸い眼鏡をかけ、人の良さそうな顔をしている。
「ああ、あんたが噂の都会のお嬢さんかい」
「セレスティアと申します。エルザの孫です」
「知ってるよ。村中の噂になってる」
老婆はにっこりと笑った。
「あたしはマーサ。この店を五十年やってる。何か困ったことがあったら、いつでもおいで」
セレスティアは少し安堵した。村人たちの冷ややかな視線には慣れつつあったが、こうして親しく話しかけてくれる人がいるのは心強い。
「パンと、チーズと、野菜を少しいただけますか。それと……」
「猫の餌かい?」
マーサが目を細めた。
「あんた、ノア先生に会ったんだろう?」
セレスティアは驚いて老婆を見た。
「ノア先生……あの方は、お医者様なのですか?」
「そうさ。三年前にこの村に来た。腕は確かだよ。うちの亭主が倒れた時も、すぐに駆けつけてくれた」
マーサはパンを包みながら、ノアについて語り始めた。
「でもね、変わり者でね。村人との付き合いを避けてるんだ。挨拶しても返事しないし、世間話にも応じない。だから最初の頃は、村の連中も警戒してたよ」
「それでも、医師として認められているのですか」
「腕がいいからねえ。それに、お金がない人からは診療代を取らない。子供が熱を出せば夜中でも往診に行く。そういうところは、皆分かってるんだ」
セレスティアは、あの無愛想な青年の意外な一面を知った。
「でも一番変わってるのは」
マーサは声をひそめた。
「猫だよ。あの人、捨て猫や野良猫を見つけると、必ず保護するんだ。今、あの家には十匹以上の猫がいるはずさ」
「十匹以上……」
「傷ついた動物も同じ。鳥でも狐でも、何でも治療する。村の子供たちは『猫先生』って呼んでるよ」
猫先生。
セレスティアは思わず微笑んだ。あの冷たい態度の青年が、捨て猫を保護しているなど、想像もつかなかった。
「あんたの屋敷の庭にも、猫が来るだろう?」
マーサが言った。
「エルザ様が生きてた頃、よく猫たちに餌をやってたんだ。だから今でも、あの辺りをうろついてる子が何匹かいる」
「ああ、だから……」
三毛猫がいた理由が分かった。あの猫は、祖母に餌をもらっていたのだ。
買い物を終えて屋敷に戻ると、庭に猫がいた。
一匹ではない。五匹だ。
三毛猫、黒猫、白と茶のぶち猫、灰色の縞猫、そして全身真っ白の猫。皆、セレスティアを見つけると警戒して身構えた。
「まあ……」
セレスティアは立ち止まった。
猫たちは痩せている。あばら骨が浮いて見える子もいる。祖母が亡くなってから三年、誰も餌をやる人がいなかったのだろう。
胸が痛んだ。
買い物袋を見下ろす。パン、チーズ、野菜、そして少しの干し肉。人間用の食料だが、猫に分けてやることはできる。
しかし、それでいいのだろうか。
「猫に構うな」とノアは言った。人間嫌いだから、と。
でも、この空腹の猫たちを見て見ぬふりをすることは、セレスティアにはできなかった。
考えた末、彼女はノアの家を訪ねることにした。
玄関の扉を叩くと、しばらく間があって扉が開いた。
ノアは相変わらず無愛想な顔で、セレスティアを見下ろした。
「何だ」
「あの、猫の餌について教えていただきたくて」
「猫の餌?」
「私の屋敷の庭に、猫が五匹います。とても空腹そうで……何を食べさせればいいのか分からなくて」
ノアの目が、わずかに変わった。
無関心から、かすかな興味へ。
「……中に入れ」
ノアの家に入ると、猫の匂いがした。
しかし不快な匂いではない。清潔に保たれた室内には、至るところに猫がいた。棚の上、椅子の上、窓辺、床の上。様々な色と大きさの猫たちが、思い思いの場所でくつろいでいる。
「十三匹だ」
セレスティアの視線に気づいたノアが言った。
「今は十三匹いる」
「すごい……」
「すごくない。捨てる人間がいるから、こうなる」
その言葉には、静かな怒りが込められていた。
ノアは棚から大きな袋を取り出した。
「これが猫用の餌だ。乾燥させた魚と穀物を混ぜたもので、村の漁師から仕入れている」
「それを、分けていただけますか」
「金は取らない」
ノアは袋をセレスティアに押しつけた。
「その代わり、条件がある」
「条件?」
「毎日、ちゃんと世話をしろ。餌をやるだけじゃない。水も替えろ。病気の兆候がないか、毎日観察しろ。飽きたから放り出す、なんてことは許さない」
厳しい口調だった。しかし、その厳しさの裏にある優しさを、セレスティアは感じ取った。
「分かりました」
彼女はしっかりと頷いた。
「毎日、きちんと世話をします」
ノアはじっとセレスティアを見つめた。嘘をついていないか確かめるように。
そして、小さく頷いた。
「餌のやり方を教える。ついてこい」
ノアは庭に出て、実演してみせた。
餌の量、水の替え方、猫の呼び方。一匹一匹の性格が違うこと、無理に触ろうとしないこと、信頼関係を築くには時間がかかること。
無愛想な口調は変わらなかったが、説明は丁寧だった。
「この黒いのはクロ。臆病だが、慣れれば一番甘えてくる。そっちの三毛はミケ。お前を引っ掻いた奴だ。人間嫌いだが、こいつにも事情がある」
「事情?」
「前の飼い主に虐待されていた。だから人間を信用できない」
セレスティアは胸が詰まった。
あの三毛猫——ミケは、人間に傷つけられた過去があるのだ。だから、近づこうとすると攻撃する。
それは、自己防衛なのだ。
ふと、自分自身と重なる気がした。セレスティアも、人を信じることが怖くなっている。王太子に裏切られ、社交界で笑われ、両親にすら理解されない。心を閉ざしたくなる気持ちは、痛いほど分かる。
「猫は、無理強いしても心を開かない」
ノアが言った。
「ただ側にいて、待つしかない。いつか向こうから近づいてくるのを」
その言葉は、猫のことだけを言っているのだろうか。
セレスティアはノアの横顔を見つめた。この人も、何か傷を抱えているのかもしれない。
餌の袋を抱えて屋敷に戻ると、五匹の猫たちがまだ庭にいた。
教わった通りに餌を準備し、庭の隅に置く。少し離れた場所に水の器も用意した。
猫たちは警戒しながらも、餌の匂いに惹かれてじりじりと近づいてきた。
セレスティアは動かず、じっと見守った。
最初に餌にありついたのは、灰色の縞猫だった。がつがつと貪るように食べる様子が、どれほど空腹だったかを物語っている。
続いて黒猫が、白とぶちの猫が、そして白猫が。
最後まで近づかなかったのは、三毛猫のミケだった。
他の猫たちが食べ終わっても、ミケは離れた場所から様子を窺っている。
「大丈夫よ」
セレスティアは静かに語りかけた。
「怖くないから」
ミケは答えない。じっとこちらを見つめている。
無理強いはしない。ノアの言葉を思い出し、セレスティアは立ち上がって家の中に入った。
窓から庭を見ると、ミケがようやく餌に近づいていた。
セレスティアがいなくなったことを確認して、ようやく安心できたのだろう。
少し寂しかったが、それでいいのだと思った。
信頼は、一日では築けない。
夕方、玄関の扉を叩く音がした。
開けると、マーサが立っていた。手には、焼きたてのパンが入った籠を持っている。
「差し入れだよ。あんた、ろくなもの食べてないだろう」
「マーサさん……ありがとうございます」
セレスティアは思わず目頭が熱くなった。
「おやおや、泣くことはないよ」
マーサは笑いながら家に上がり込んだ。
「あんた、ノア先生と話したんだって? 猫の餌をもらいに行ったって聞いたよ」
「村の人は何でもご存知なんですね」
「狭い村だからねえ。噂はすぐに広まる」
マーサはリビングを見回し、感心したように言った。
「へえ、随分きれいにしたじゃないか。エルザ様が見たら喜ぶよ」
「まだまだ途中ですけど」
二人でテーブルを囲み、マーサが持ってきたパンを分け合った。焼きたてのパンは、王都のどんな高級菓子よりも美味しく感じられた。
「ところでね」
マーサがお茶を啜りながら言った。
「あんた、ノア先生とまともに話せたのは、この村に来て初めての人だよ」
「え?」
「あの人、本当に人付き合いが苦手でね。診療の時以外は誰とも口を利かない。あたしが話しかけても、必要なこと以外は答えないんだ」
セレスティアは驚いた。確かにノアは無愛想だったが、猫のことについてはきちんと教えてくれた。
「猫の話だったからかもしれません」
「そうかもしれないねえ」
マーサは意味深な笑みを浮かべた。
「でもあんた、諦めないでおやりよ。あの人にも、話し相手が必要だと思うんだ」
話し相手。
セレスティアは窓の外を見た。ノアの家の方向には、夕日が沈みかけている。
あの無愛想な医師は今、十三匹の猫たちと何をしているのだろう。
「そうですね」
セレスティアは小さく呟いた。
「猫の世話のこと、もっと教えてもらいたいですし」
その夜、セレスティアは祖母の日記を見つけた。
屋敷の掃除を進める中で、書斎の引き出しから出てきたのだ。古びた革表紙のノートには、祖母の几帳面な文字が並んでいる。
最後の記述は、亡くなる一週間前のものだった。
『今日も猫たちが来た。ミケはまだ私に心を開いてくれないけれど、それでもいい。この子なりのペースがある。人間も、猫も、傷つけば時間がかかるものだ。でも、諦めずに側にいれば、いつかきっと通じ合える。私はそう信じている』
セレスティアは日記を閉じ、胸に抱いた。
祖母は最後まで、猫たちを愛していたのだ。
そして今、その猫たちがセレスティアの前にいる。
「おばあ様」
セレスティアは呟いた。
「私、ちゃんと世話しますから」
窓の外で、猫の鳴き声がした。
明日も、猫たちが待っている。
0
あなたにおすすめの小説
【完結】無口な旦那様は妻が可愛くて仕方ない
ベル
恋愛
旦那様とは政略結婚。
公爵家の次期当主であった旦那様と、領地の経営が悪化し、没落寸前の伯爵令嬢だった私。
旦那様と結婚したおかげで私の家は安定し、今では昔よりも裕福な暮らしができるようになりました。
そんな私は旦那様に感謝しています。
無口で何を考えているか分かりにくい方ですが、とてもお優しい方なのです。
そんな二人の日常を書いてみました。
お読みいただき本当にありがとうございますm(_ _)m
無事完結しました!
「お前みたいな卑しい闇属性の魔女など側室でもごめんだ」と言われましたが、私も殿下に嫁ぐ気はありません!
野生のイエネコ
恋愛
闇の精霊の加護を受けている私は、闇属性を差別する国で迫害されていた。いつか私を受け入れてくれる人を探そうと夢に見ていたデビュタントの舞踏会で、闇属性を差別する王太子に罵倒されて心が折れてしまう。
私が国を出奔すると、闇精霊の森という場所に住まう、不思議な男性と出会った。なぜかその男性が私の事情を聞くと、国に与えられた闇精霊の加護が消滅して、国は大混乱に。
そんな中、闇精霊の森での生活は穏やかに進んでいく。
お姫様は死に、魔女様は目覚めた
悠十
恋愛
とある大国に、小さいけれど豊かな国の姫君が側妃として嫁いだ。
しかし、離宮に案内されるも、離宮には侍女も衛兵も居ない。ベルを鳴らしても、人を呼んでも誰も来ず、姫君は長旅の疲れから眠り込んでしまう。
そして、深夜、姫君は目覚め、体の不調を感じた。そのまま気を失い、三度目覚め、三度気を失い、そして……
「あ、あれ? えっ、なんで私、前の体に戻ってるわけ?」
姫君だった少女は、前世の魔女の体に魂が戻ってきていた。
「えっ、まさか、あのまま死んだ⁉」
魔女は慌てて遠見の水晶を覗き込む。自分の――姫君の体は、嫁いだ大国はいったいどうなっているのか知るために……
幽閉王女と指輪の精霊~嫁いだら幽閉された!餓死する前に脱出したい!~
二階堂吉乃
恋愛
同盟国へ嫁いだヴァイオレット姫。夫である王太子は初夜に現れなかった。たった1人幽閉される姫。やがて貧しい食事すら届かなくなる。長い幽閉の末、死にかけた彼女を救ったのは、家宝の指輪だった。
1年後。同盟国を訪れたヴァイオレットの従兄が彼女を発見する。忘れられた牢獄には姫のミイラがあった。激怒した従兄は同盟を破棄してしまう。
一方、下町に代書業で身を立てる美少女がいた。ヴィーと名を偽ったヴァイオレットは指輪の精霊と助けあいながら暮らしていた。そこへ元夫?である王太子が視察に来る。彼は下町を案内してくれたヴィーに恋をしてしまう…。
【完結】お父様の再婚相手は美人様
すみ 小桜(sumitan)
恋愛
シャルルの父親が子連れと再婚した!
二人は美人親子で、当主であるシャルルをあざ笑う。
でもこの国では、美人だけではどうにもなりませんよ。
冷遇妃マリアベルの監視報告書
Mag_Mel
ファンタジー
シルフィード王国に敗戦国ソラリから献上されたのは、"太陽の姫"と讃えられた妹ではなく、悪女と噂される姉、マリアベル。
第一王子の四番目の妃として迎えられた彼女は、王宮の片隅に追いやられ、嘲笑と陰湿な仕打ちに晒され続けていた。
そんな折、「王家の影」は第三王子セドリックよりマリアベルの監視業務を命じられる。年若い影が記す報告書には、ただ静かに耐え続け、死を待つかのように振舞うひとりの女の姿があった。
王位継承争いと策謀が渦巻く王宮で、冷遇妃の運命は思わぬ方向へと狂い始める――。
(小説家になろう様にも投稿しています)
完結 愚王の側妃として嫁ぐはずの姉が逃げました
らむ
恋愛
とある国に食欲に色欲に娯楽に遊び呆け果てには金にもがめついと噂の、見た目も醜い王がいる。
そんな愚王の側妃として嫁ぐのは姉のはずだったのに、失踪したために代わりに嫁ぐことになった妹の私。
しかしいざ対面してみると、なんだか噂とは違うような…
完結決定済み
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる