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猫の世話を始めて、一週間が経った。
セレスティアの生活は、猫たちを中心に回るようになっていた。朝起きて最初にすることは、庭に出て猫たちに餌をやること。水を替え、食べ残しを片付け、猫たちの様子を観察する。
最初は戸惑うことばかりだった。
餌の量が多すぎて残されたり、水の器が倒れていたり。猫同士が喧嘩を始めた時はどうすればいいか分からず、おろおろするばかりだった。
それでも、少しずつ慣れてきた。
五匹の猫たちにも、それぞれ名前をつけた。灰色の縞猫はシマ。黒猫はクロ——ノアの家の猫と同じ名前になってしまったが、他に思いつかなかった。白と茶のぶち猫はブチ、白猫はユキ。そして三毛猫は、ノアに倣ってミケと呼ぶことにした。
シマは食いしん坊で、いつも一番に餌に飛びつく。
クロは臆病で、セレスティアが近づくと逃げてしまうが、遠くからじっと見ている。
ブチは好奇心旺盛で、セレスティアの周りをうろうろする。
ユキはおっとりしていて、日向ぼっこが大好き。
そしてミケは、相変わらず警戒心が強く、決して近づいてこない。
その日の朝、セレスティアはシマの様子がおかしいことに気づいた。
いつも真っ先に餌に飛びつくシマが、今日は皿の前に座ったまま動かない。鼻を近づけるが、食べようとしない。
「シマ? どうしたの?」
声をかけても、シマはぐったりとしている。目がとろんとして、元気がない。
セレスティアは心臓が跳ねた。
病気だ。シマが病気になった。
どうすればいい。何をすればいい。猫の病気のことなど、何も知らない。
頭が真っ白になりかけた時、ノアの顔が浮かんだ。
彼は医師だ。人間だけでなく、動物も診るとマーサが言っていた。
セレスティアはシマを抱き上げ——シマは抵抗する力もないようで、ぐったりと腕の中に収まった——ノアの家へ走った。
玄関を激しく叩くと、すぐに扉が開いた。
「何だ、朝から騒々しい……」
「ノアさん、シマが! シマの様子がおかしいんです!」
ノアの目が、腕の中の猫に向けられた。
一瞬で表情が変わる。無愛想な顔が、真剣な医師の顔になった。
「中に入れ」
ノアは手際よくシマを診察台——彼の家には、動物用の簡易診察台があった——に載せた。
体温を測り、目と口の中を確認し、腹部を触診する。
セレスティアは不安で押しつぶされそうになりながら、その様子を見守った。
「……軽い風邪だな」
しばらくして、ノアが言った。
「風邪?」
「季節の変わり目で、体調を崩したんだろう。熱が少しある。大したことはない」
セレスティアはへなへなとその場に座り込んだ。
「よかった……大したことなくて……」
「大げさだな」
ノアは棚から小さな瓶を取り出した。
「この薬を、餌に混ぜて飲ませろ。一日二回、三日間。それと、他の猫とは隔離しておけ。風邪がうつる可能性がある」
「分かりました」
セレスティアは薬の瓶を受け取った。
「ありがとうございます。本当に」
「礼はいらない」
ノアはぶっきらぼうに言った。
「それより、他の猫たちの様子も見ておけ。同じ症状が出たら、すぐに連れて来い」
「はい」
シマを連れて帰る前に、セレスティアはノアに聞いた。
「あの……猫の病気のこと、もっと教えていただけませんか。私、何も知らなくて、今日みたいなことがあると、どうしていいか分からなくて」
ノアは無言でセレスティアを見つめた。
「……面倒だな」
「すみません、ご迷惑なら」
「来い」
ノアは部屋の奥へ歩いていった。戸惑いながらついていくと、そこは書斎のような空間だった。壁一面に本棚があり、医学書や動物の飼育に関する本がぎっしりと詰まっている。
ノアは一冊の本を抜き出し、セレスティアに渡した。
「これを読め。猫の病気と応急処置について書いてある」
「お借りしていいんですか」
「貸すだけだ。汚すな」
「ありがとうございます」
セレスティアは本を大切に受け取った。
ノアは相変わらず無愛想だったが、こうして本を貸してくれるところを見ると、本当に悪い人ではないのだろう。
「それと」
ノアが付け加えた。
「お前の対応は、悪くなかった」
「え?」
「猫の異変に気づいて、すぐに連れてきた。それは正しい判断だ」
セレスティアは目を見開いた。
ノアが、褒めてくれた?
「あ、ありがとう……ございます」
「早く帰れ。シマが待ってる」
追い出されるように家を出たが、セレスティアの胸は温かかった。
屋敷に戻り、シマを寝室に隔離した。
古い毛布でベッドを作り、水と薬入りの餌を用意する。シマは相変わらずぐったりしていたが、餌を少しだけ口にしてくれた。
「よしよし、偉いわね」
セレスティアはシマの背中をそっと撫でた。
「薬を飲んで、ゆっくり休めば、すぐに元気になるから」
シマが弱々しく鳴いた。
その声が、胸に染みた。
これまでの人生で、こんなふうに誰かの世話をしたことがあっただろうか。
いつも世話をされる側だった。使用人が服を用意し、食事を運び、部屋を掃除してくれた。自分は何もしなくても、全てが整えられていた。
でも今は違う。
この猫の命は、自分の手にかかっている。
その重みが、不思議と心地よかった。
午後になって、セレスティアはノアから借りた本を読み始めた。
『猫の健康管理と病気の早期発見』というタイトルの本には、様々な病気の症状と対処法が書かれている。風邪、下痢、皮膚病、怪我の応急処置……。どれも初めて知ることばかりだった。
熱中して読んでいると、いつの間にか日が傾いていた。
慌てて庭に出て、他の四匹の猫たちに餌をやる。幸い、皆元気そうだった。
ミケは相変わらず距離を保っていたが、今日は少しだけ近くまで来たような気がした。
夕方、玄関を叩く音がした。
開けると、マーサが立っていた。手には例によって、焼きたてのパンとスープの入った鍋を持っている。
「シマが病気だって聞いたよ。大丈夫かい?」
「ノアさんに診てもらって、軽い風邪だと分かりました。今は隔離して、薬を飲ませています」
「そうかい、よかった」
マーサは安堵した顔で頷いた。
「あんた、ちゃんとやってるじゃないか。偉いよ」
「いえ、私なんて、何もできなくて……ノアさんに助けてもらっただけです」
「でも、すぐにノア先生のところに連れていったんだろう? それが大事なんだよ」
マーサはリビングに上がり込み、スープを温め始めた。
「あんた、最近ちゃんと食べてる? 痩せたんじゃないかい」
「掃除と猫の世話で、忙しくて……」
「だめだよ、ちゃんと食べなきゃ。あんたが倒れたら、猫たちはどうなるんだい」
その言葉にはっとした。
そうだ。自分が倒れたら、猫たちの世話をする人がいなくなる。
「すみません。ちゃんと食べます」
「素直でよろしい」
マーサは笑って、スープをよそってくれた。
食事をしながら、マーサはセレスティアにいろいろなことを教えてくれた。
村の生活の知恵、季節ごとの注意点、近所の人々の性格。都会育ちのセレスティアにとって、全てが新鮮な情報だった。
「ところでね」
マーサが言った。
「ノア先生が、あんたに本を貸したんだって?」
「はい、猫の病気についての本を」
「へえ……」
マーサは意味深な顔をした。
「あの人、自分の本を人に貸すなんて、初めて聞いたよ」
「そうなんですか?」
「本当さ。あの書斎の本は、先生の宝物みたいなもんだからね。誰にも触らせないって、村の子供が前に言ってた」
セレスティアは驚いた。
そんな大切な本を、自分に貸してくれたのか。
「あんた、気に入られたのかもしれないね」
「まさか。ノアさん、いつも無愛想ですし」
「だからだよ」
マーサはにっこりと笑った。
「無愛想な人が、特別なことをしてくれる。それって、すごいことだと思わないかい?」
セレスティアは黙り込んだ。
確かに、ノアは言葉では何も言わない。表情も変えない。でも、行動で示してくれている。
猫の餌を分けてくれたこと。飼い方を教えてくれたこと。シマを診てくれたこと。本を貸してくれたこと。
全て、言葉にはしなくても、優しさの表れなのかもしれない。
夜、シマの様子を見に行った。
薬が効いたのか、シマは少し元気になったようだった。目に力が戻り、セレスティアが近づくと顔を上げた。
「よかった……少し良くなったのね」
セレスティアはシマの傍に座り、そっと背中を撫でた。
シマが喉を鳴らした。ゴロゴロという、満足げな音。
「あなたが元気になってくれて、本当に嬉しい」
社交界では、誰かのために心配することなどなかった。皆が自分の利益のために動き、表面的な笑顔の下で計算し合っていた。
でも今、セレスティアは純粋にシマのことを心配している。見返りなど求めていない。ただ、この小さな命が回復することだけを願っている。
これが、本当の「気持ち」というものなのかもしれない。
シマがセレスティアの手に頭を擦りつけてきた。
その仕草が愛おしくて、涙が滲んだ。
「ありがとう、シマ」
セレスティアは呟いた。
「私に、大切なことを教えてくれて」
翌日、ノアが屋敷を訪ねてきた。
玄関を開けたセレスティアは、驚いて目を見開いた。
「ノアさん? どうしてここに……」
「シマの様子を見に来た」
それだけ言って、ノアは家に入った。
シマを隔離している部屋に案内すると、ノアは手際よく診察を始めた。体温を測り、目と口を確認し、腹部を触診する。
「熱は下がっている。経過は良好だ」
「よかった……」
「あと二日、薬を続けろ。それで完治するはずだ」
「ありがとうございます」
ノアは立ち上がり、窓の外を見た。庭では、他の四匹の猫たちが日向ぼっこをしている。
「あいつらも、元気そうだな」
「はい。毎日観察していますが、今のところ風邪の症状は出ていません」
「そうか」
ノアはわずかに——本当にわずかに——口元を緩めた。
笑った、というほどではない。でも、いつもの仏頂面が、少しだけ柔らかくなった気がした。
「お前、ちゃんとやってるな」
「え?」
「猫の世話。思ったより、ちゃんとやっている」
セレスティアは頬が熱くなるのを感じた。
「あ、ありがとうございます。まだまだ分からないことばかりですけど」
「分からなければ聞きに来い」
ノアはそう言って、玄関に向かった。
「あ、あの、ノアさん!」
セレスティアは慌てて呼び止めた。
「お礼に、何かさせてください。お茶でも……」
「いらない」
「でも」
「礼はいらないと言った」
ノアは振り返らずに扉を開けた。
「……猫たちが元気なら、それでいい」
扉が閉まる。
セレスティアは、閉じた扉を見つめながら、胸の中で何かが温かくなるのを感じていた。
セレスティアの生活は、猫たちを中心に回るようになっていた。朝起きて最初にすることは、庭に出て猫たちに餌をやること。水を替え、食べ残しを片付け、猫たちの様子を観察する。
最初は戸惑うことばかりだった。
餌の量が多すぎて残されたり、水の器が倒れていたり。猫同士が喧嘩を始めた時はどうすればいいか分からず、おろおろするばかりだった。
それでも、少しずつ慣れてきた。
五匹の猫たちにも、それぞれ名前をつけた。灰色の縞猫はシマ。黒猫はクロ——ノアの家の猫と同じ名前になってしまったが、他に思いつかなかった。白と茶のぶち猫はブチ、白猫はユキ。そして三毛猫は、ノアに倣ってミケと呼ぶことにした。
シマは食いしん坊で、いつも一番に餌に飛びつく。
クロは臆病で、セレスティアが近づくと逃げてしまうが、遠くからじっと見ている。
ブチは好奇心旺盛で、セレスティアの周りをうろうろする。
ユキはおっとりしていて、日向ぼっこが大好き。
そしてミケは、相変わらず警戒心が強く、決して近づいてこない。
その日の朝、セレスティアはシマの様子がおかしいことに気づいた。
いつも真っ先に餌に飛びつくシマが、今日は皿の前に座ったまま動かない。鼻を近づけるが、食べようとしない。
「シマ? どうしたの?」
声をかけても、シマはぐったりとしている。目がとろんとして、元気がない。
セレスティアは心臓が跳ねた。
病気だ。シマが病気になった。
どうすればいい。何をすればいい。猫の病気のことなど、何も知らない。
頭が真っ白になりかけた時、ノアの顔が浮かんだ。
彼は医師だ。人間だけでなく、動物も診るとマーサが言っていた。
セレスティアはシマを抱き上げ——シマは抵抗する力もないようで、ぐったりと腕の中に収まった——ノアの家へ走った。
玄関を激しく叩くと、すぐに扉が開いた。
「何だ、朝から騒々しい……」
「ノアさん、シマが! シマの様子がおかしいんです!」
ノアの目が、腕の中の猫に向けられた。
一瞬で表情が変わる。無愛想な顔が、真剣な医師の顔になった。
「中に入れ」
ノアは手際よくシマを診察台——彼の家には、動物用の簡易診察台があった——に載せた。
体温を測り、目と口の中を確認し、腹部を触診する。
セレスティアは不安で押しつぶされそうになりながら、その様子を見守った。
「……軽い風邪だな」
しばらくして、ノアが言った。
「風邪?」
「季節の変わり目で、体調を崩したんだろう。熱が少しある。大したことはない」
セレスティアはへなへなとその場に座り込んだ。
「よかった……大したことなくて……」
「大げさだな」
ノアは棚から小さな瓶を取り出した。
「この薬を、餌に混ぜて飲ませろ。一日二回、三日間。それと、他の猫とは隔離しておけ。風邪がうつる可能性がある」
「分かりました」
セレスティアは薬の瓶を受け取った。
「ありがとうございます。本当に」
「礼はいらない」
ノアはぶっきらぼうに言った。
「それより、他の猫たちの様子も見ておけ。同じ症状が出たら、すぐに連れて来い」
「はい」
シマを連れて帰る前に、セレスティアはノアに聞いた。
「あの……猫の病気のこと、もっと教えていただけませんか。私、何も知らなくて、今日みたいなことがあると、どうしていいか分からなくて」
ノアは無言でセレスティアを見つめた。
「……面倒だな」
「すみません、ご迷惑なら」
「来い」
ノアは部屋の奥へ歩いていった。戸惑いながらついていくと、そこは書斎のような空間だった。壁一面に本棚があり、医学書や動物の飼育に関する本がぎっしりと詰まっている。
ノアは一冊の本を抜き出し、セレスティアに渡した。
「これを読め。猫の病気と応急処置について書いてある」
「お借りしていいんですか」
「貸すだけだ。汚すな」
「ありがとうございます」
セレスティアは本を大切に受け取った。
ノアは相変わらず無愛想だったが、こうして本を貸してくれるところを見ると、本当に悪い人ではないのだろう。
「それと」
ノアが付け加えた。
「お前の対応は、悪くなかった」
「え?」
「猫の異変に気づいて、すぐに連れてきた。それは正しい判断だ」
セレスティアは目を見開いた。
ノアが、褒めてくれた?
「あ、ありがとう……ございます」
「早く帰れ。シマが待ってる」
追い出されるように家を出たが、セレスティアの胸は温かかった。
屋敷に戻り、シマを寝室に隔離した。
古い毛布でベッドを作り、水と薬入りの餌を用意する。シマは相変わらずぐったりしていたが、餌を少しだけ口にしてくれた。
「よしよし、偉いわね」
セレスティアはシマの背中をそっと撫でた。
「薬を飲んで、ゆっくり休めば、すぐに元気になるから」
シマが弱々しく鳴いた。
その声が、胸に染みた。
これまでの人生で、こんなふうに誰かの世話をしたことがあっただろうか。
いつも世話をされる側だった。使用人が服を用意し、食事を運び、部屋を掃除してくれた。自分は何もしなくても、全てが整えられていた。
でも今は違う。
この猫の命は、自分の手にかかっている。
その重みが、不思議と心地よかった。
午後になって、セレスティアはノアから借りた本を読み始めた。
『猫の健康管理と病気の早期発見』というタイトルの本には、様々な病気の症状と対処法が書かれている。風邪、下痢、皮膚病、怪我の応急処置……。どれも初めて知ることばかりだった。
熱中して読んでいると、いつの間にか日が傾いていた。
慌てて庭に出て、他の四匹の猫たちに餌をやる。幸い、皆元気そうだった。
ミケは相変わらず距離を保っていたが、今日は少しだけ近くまで来たような気がした。
夕方、玄関を叩く音がした。
開けると、マーサが立っていた。手には例によって、焼きたてのパンとスープの入った鍋を持っている。
「シマが病気だって聞いたよ。大丈夫かい?」
「ノアさんに診てもらって、軽い風邪だと分かりました。今は隔離して、薬を飲ませています」
「そうかい、よかった」
マーサは安堵した顔で頷いた。
「あんた、ちゃんとやってるじゃないか。偉いよ」
「いえ、私なんて、何もできなくて……ノアさんに助けてもらっただけです」
「でも、すぐにノア先生のところに連れていったんだろう? それが大事なんだよ」
マーサはリビングに上がり込み、スープを温め始めた。
「あんた、最近ちゃんと食べてる? 痩せたんじゃないかい」
「掃除と猫の世話で、忙しくて……」
「だめだよ、ちゃんと食べなきゃ。あんたが倒れたら、猫たちはどうなるんだい」
その言葉にはっとした。
そうだ。自分が倒れたら、猫たちの世話をする人がいなくなる。
「すみません。ちゃんと食べます」
「素直でよろしい」
マーサは笑って、スープをよそってくれた。
食事をしながら、マーサはセレスティアにいろいろなことを教えてくれた。
村の生活の知恵、季節ごとの注意点、近所の人々の性格。都会育ちのセレスティアにとって、全てが新鮮な情報だった。
「ところでね」
マーサが言った。
「ノア先生が、あんたに本を貸したんだって?」
「はい、猫の病気についての本を」
「へえ……」
マーサは意味深な顔をした。
「あの人、自分の本を人に貸すなんて、初めて聞いたよ」
「そうなんですか?」
「本当さ。あの書斎の本は、先生の宝物みたいなもんだからね。誰にも触らせないって、村の子供が前に言ってた」
セレスティアは驚いた。
そんな大切な本を、自分に貸してくれたのか。
「あんた、気に入られたのかもしれないね」
「まさか。ノアさん、いつも無愛想ですし」
「だからだよ」
マーサはにっこりと笑った。
「無愛想な人が、特別なことをしてくれる。それって、すごいことだと思わないかい?」
セレスティアは黙り込んだ。
確かに、ノアは言葉では何も言わない。表情も変えない。でも、行動で示してくれている。
猫の餌を分けてくれたこと。飼い方を教えてくれたこと。シマを診てくれたこと。本を貸してくれたこと。
全て、言葉にはしなくても、優しさの表れなのかもしれない。
夜、シマの様子を見に行った。
薬が効いたのか、シマは少し元気になったようだった。目に力が戻り、セレスティアが近づくと顔を上げた。
「よかった……少し良くなったのね」
セレスティアはシマの傍に座り、そっと背中を撫でた。
シマが喉を鳴らした。ゴロゴロという、満足げな音。
「あなたが元気になってくれて、本当に嬉しい」
社交界では、誰かのために心配することなどなかった。皆が自分の利益のために動き、表面的な笑顔の下で計算し合っていた。
でも今、セレスティアは純粋にシマのことを心配している。見返りなど求めていない。ただ、この小さな命が回復することだけを願っている。
これが、本当の「気持ち」というものなのかもしれない。
シマがセレスティアの手に頭を擦りつけてきた。
その仕草が愛おしくて、涙が滲んだ。
「ありがとう、シマ」
セレスティアは呟いた。
「私に、大切なことを教えてくれて」
翌日、ノアが屋敷を訪ねてきた。
玄関を開けたセレスティアは、驚いて目を見開いた。
「ノアさん? どうしてここに……」
「シマの様子を見に来た」
それだけ言って、ノアは家に入った。
シマを隔離している部屋に案内すると、ノアは手際よく診察を始めた。体温を測り、目と口を確認し、腹部を触診する。
「熱は下がっている。経過は良好だ」
「よかった……」
「あと二日、薬を続けろ。それで完治するはずだ」
「ありがとうございます」
ノアは立ち上がり、窓の外を見た。庭では、他の四匹の猫たちが日向ぼっこをしている。
「あいつらも、元気そうだな」
「はい。毎日観察していますが、今のところ風邪の症状は出ていません」
「そうか」
ノアはわずかに——本当にわずかに——口元を緩めた。
笑った、というほどではない。でも、いつもの仏頂面が、少しだけ柔らかくなった気がした。
「お前、ちゃんとやってるな」
「え?」
「猫の世話。思ったより、ちゃんとやっている」
セレスティアは頬が熱くなるのを感じた。
「あ、ありがとうございます。まだまだ分からないことばかりですけど」
「分からなければ聞きに来い」
ノアはそう言って、玄関に向かった。
「あ、あの、ノアさん!」
セレスティアは慌てて呼び止めた。
「お礼に、何かさせてください。お茶でも……」
「いらない」
「でも」
「礼はいらないと言った」
ノアは振り返らずに扉を開けた。
「……猫たちが元気なら、それでいい」
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