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祭りから三日後、一通の手紙が届いた。
朝、玄関を開けると、郵便配達の少年が封筒を差し出した。
「都からの手紙だよ、お嬢さん」
封筒を見た瞬間、セレスティアの胸がざわついた。
実家の紋章が押された、高級な封筒。差出人は、母イレーネ・フォン・ヴァイスベルクだった。
「……ありがとう」
封筒を受け取り、家の中に戻った。
リビングのソファに座り、しばらく封筒を見つめていた。
開けたくない。でも、開けないわけにはいかない。
意を決して封を切り、中の手紙を取り出した。
『セレスティアへ
一ヶ月の静養期間が過ぎましたが、あなたはまだ戻ってきません。私たちは大変心配しています。
あなたのお父様は、最近体調を崩されています。過度な心労のせいです。あなたが王都を離れてから、社交界では様々な噂が飛び交っています。ヴァイスベルク家の令嬢が、婚約破棄のショックで田舎に逃げ出したと。お父様は、その噂を否定するために奔走されています。
また、あなたに良い縁談の話が来ています。クレメンス侯爵家のご子息が、あなたに興味を持っておられるとのこと。侯爵家は、王家に次ぐ名門です。この機会を逃すべきではありません。
すぐに王都にお戻りなさい。あなたの居場所は、ここにあるのです。田舎で猫と暮らすなど、伯爵令嬢のすることではありません。
母より』
手紙を読み終えた時、セレスティアの手は震えていた。
父が体調を崩している。
それは心配だった。本当に心配だった。
でも——
「あなたの居場所は、ここにあるのです」
その言葉が、胸に刺さった。
私の居場所は、本当に王都にあるのだろうか。
あの息苦しい社交界に、完璧を求められる毎日に、自分を殺して生きる生活に。
今の生活を思い返した。
毎朝、猫たちに餌をやること。ノアの家に通って、子猫の世話をすること。マーサとお茶を飲みながら話すこと。リーナや村人たちと少しずつ打ち解けていくこと。
この一ヶ月で、セレスティアの生活は大きく変わった。
使用人もいない、華やかさもない、不便なことだらけの田舎暮らし。
でも、ここには——自分らしくいられる自由があった。
午後、いつものようにノアの家に行った。
子猫のイチ、ニ、サンは、すっかり大きくなっていた。目もしっかり開き、よちよち歩きから駆け回るようになっている。
「元気そうですね」
「ああ。もう離乳食を食べられる」
ノアは子猫たちにミルクを混ぜた離乳食を与えていた。
セレスティアは黙って手伝った。でも、心ここにあらずだったのだろう。手元が狂い、餌の皿を落としそうになった。
「何かあったのか」
ノアが聞いた。
「顔色が悪い」
「……実家から、手紙が来たんです」
言おうか迷ったが、隠し通せる自信がなかった。
「両親が、王都に戻れと」
ノアの手が止まった。
「そうか」
「新しい縁談も用意されていて……侯爵家のご子息だそうです」
沈黙が流れた。
子猫たちが無邪気に餌を食べる音だけが、部屋に響いている。
「……で、お前はどうしたいんだ」
ノアが聞いた。
その声は、いつもより低かった。
「分かりません」
セレスティアは正直に答えた。
「父が体調を崩しているそうです。心配です。でも……」
でも、ここを離れたくない。
その言葉は、口に出せなかった。
屋敷に戻っても、セレスティアの気持ちは晴れなかった。
庭で猫たちに餌をやりながら、ぼんやりと考える。
王都に戻れば、また同じ生活が始まる。社交界に顔を出し、侯爵家のご子息と見合いをし、新しい婚約者として振る舞う。
それが、伯爵令嬢の義務なのだ。家のために、両親のために。
でも——
「自分のために」という選択肢は、許されないのだろうか。
ミケがそっと近づいてきた。
あの人間嫌いの三毛猫が、今では少しずつセレスティアに心を開きつつあった。完全には近づいてこないが、同じ空間にいることを許してくれるようになった。
「ミケ……」
セレスティアが手を伸ばすと、ミケは逃げなかった。
そっと背中に触れる。ミケは身じろぎしたが、引っ掻いてはこなかった。
「私、どうすればいいの」
猫に話しかけても、答えは返ってこない。
でも、ミケの温かさが、少しだけ心を慰めてくれた。
夕方、マーサが訪ねてきた。
「あんた、元気がないね」
セレスティアの顔を見るなり、マーサは言った。
「何かあったのかい?」
隠しても無駄だと思った。マーサには、何でも見透かされてしまう。
「実家から、戻ってこいと……」
手紙のことを話すと、マーサは黙って聞いていた。
話し終えた後、マーサは長いため息をついた。
「親御さんの気持ちも、分からないではないねえ」
「はい……」
「でもね、セレスティア」
マーサはセレスティアの手を取った。
「あんたの人生は、あんたのものだよ。親御さんのものじゃない」
「でも、父が体調を崩していて……」
「お父様のことは心配だろうね。でも、お父様の体調と、あんたの人生は別の問題だ」
マーサの言葉は、優しいが芯があった。
「あんたは、この一ヶ月で変わったよ。最初に来た時は、まるで幽霊みたいな顔をしてた。でも今は、ちゃんと生きてる顔をしてる」
「私、変わりましたか……」
「変わったさ。猫の世話をして、村の人と話をして、祭りで踊って。あんたは、自分の足で立ち始めたんだ」
セレスティアの目から、涙がこぼれた。
「でも、どうすればいいか分からないんです。父のことも心配だし、でもここを離れたくない気持ちもあって……」
「焦らなくていいよ」
マーサはセレスティアの背中を優しく撫でた。
「答えはすぐに出なくていい。自分の心と、ゆっくり向き合いな」
その夜、セレスティアは返事を書こうとした。
便箋を前に、ペンを持つ。
でも、何を書けばいいか分からない。
「すぐに戻ります」と書けば、この生活は終わる。猫たち、マーサ、村人たち、そしてノア。全てに別れを告げなければならない。
「もう少し待ってください」と書けば、問題の先送りだ。いつかは決断しなければならない時が来る。
「戻りません」と書けば——家族との絶縁を覚悟しなければならない。
どの選択も、怖かった。
結局、その夜は何も書けなかった。
翌日、ノアの家を訪ねると、彼は珍しく玄関の外に出ていた。
「ノアさん?」
「ああ……」
ノアは何か言いかけて、口を閉じた。
「どうかしましたか」
「いや……」
沈黙が流れた。
ノアは珍しく、落ち着かない様子だった。視線があちこちに泳ぎ、いつもの無愛想な態度が揺らいでいる。
「……昨日の話だが」
ようやくノアが口を開いた。
「手紙のこと」
「はい」
「お前がどうするかは、お前が決めることだ。俺が口を出すことじゃない」
「……はい」
「でも」
ノアは一瞬、セレスティアを見た。
「お前がここに来てから、猫たちは……元気になった」
「猫たちが?」
「ああ。お前の屋敷の五匹も、うちの子猫たちも。お前が世話をするようになってから、毛艶が良くなった」
セレスティアは驚いた。
「それは……嬉しいです」
「だから」
ノアは目をそらした。
「猫たちのために、もう少しいろ。分かるまで、ここにいればいい」
その言葉は、不器用で回りくどかった。
でも、セレスティアには分かった。
ノアは、彼なりの言い方で——ここにいてほしいと言っているのだ。
胸が温かくなった。
「……ありがとうございます」
「礼を言うことじゃない。猫のためだ」
「はい。猫のために、もう少しここにいます」
セレスティアは微笑んだ。
「両親には、『もう少しだけ時間をください』と書いておきます」
ノアは何も言わなかった。
ただ、その無表情な顔が、ほんの少しだけ和らいだような気がした。
その夜、セレスティアは手紙を書いた。
『お父様、お母様へ
お手紙、ありがとうございます。お父様の体調が優れないとのこと、大変心配しております。
縁談のお話も承りました。クレメンス侯爵家のご子息に興味を持っていただけたとは、光栄なことです。
しかし、今の私には、まだ心の準備ができておりません。もう少しだけ、時間をいただけないでしょうか。
この田舎での生活で、私は多くのことを学びました。自分の手で生きること、自分の足で立つこと。それは、伯爵令嬢としての教育では学べなかったことです。
お父様のお体が心配ですので、近いうちにお見舞いに伺いたいと思います。でも、今すぐ永久に戻ることは、お許しください。
もう少しだけ、私に時間をください。
セレスティアより』
書き終えた手紙を封筒に入れ、窓の外を見た。
月が出ている。
まだ答えは見つかっていない。
でも、今はこれでいい。
自分の気持ちと向き合う時間を、もう少しだけもらおう。
そう思った。
朝、玄関を開けると、郵便配達の少年が封筒を差し出した。
「都からの手紙だよ、お嬢さん」
封筒を見た瞬間、セレスティアの胸がざわついた。
実家の紋章が押された、高級な封筒。差出人は、母イレーネ・フォン・ヴァイスベルクだった。
「……ありがとう」
封筒を受け取り、家の中に戻った。
リビングのソファに座り、しばらく封筒を見つめていた。
開けたくない。でも、開けないわけにはいかない。
意を決して封を切り、中の手紙を取り出した。
『セレスティアへ
一ヶ月の静養期間が過ぎましたが、あなたはまだ戻ってきません。私たちは大変心配しています。
あなたのお父様は、最近体調を崩されています。過度な心労のせいです。あなたが王都を離れてから、社交界では様々な噂が飛び交っています。ヴァイスベルク家の令嬢が、婚約破棄のショックで田舎に逃げ出したと。お父様は、その噂を否定するために奔走されています。
また、あなたに良い縁談の話が来ています。クレメンス侯爵家のご子息が、あなたに興味を持っておられるとのこと。侯爵家は、王家に次ぐ名門です。この機会を逃すべきではありません。
すぐに王都にお戻りなさい。あなたの居場所は、ここにあるのです。田舎で猫と暮らすなど、伯爵令嬢のすることではありません。
母より』
手紙を読み終えた時、セレスティアの手は震えていた。
父が体調を崩している。
それは心配だった。本当に心配だった。
でも——
「あなたの居場所は、ここにあるのです」
その言葉が、胸に刺さった。
私の居場所は、本当に王都にあるのだろうか。
あの息苦しい社交界に、完璧を求められる毎日に、自分を殺して生きる生活に。
今の生活を思い返した。
毎朝、猫たちに餌をやること。ノアの家に通って、子猫の世話をすること。マーサとお茶を飲みながら話すこと。リーナや村人たちと少しずつ打ち解けていくこと。
この一ヶ月で、セレスティアの生活は大きく変わった。
使用人もいない、華やかさもない、不便なことだらけの田舎暮らし。
でも、ここには——自分らしくいられる自由があった。
午後、いつものようにノアの家に行った。
子猫のイチ、ニ、サンは、すっかり大きくなっていた。目もしっかり開き、よちよち歩きから駆け回るようになっている。
「元気そうですね」
「ああ。もう離乳食を食べられる」
ノアは子猫たちにミルクを混ぜた離乳食を与えていた。
セレスティアは黙って手伝った。でも、心ここにあらずだったのだろう。手元が狂い、餌の皿を落としそうになった。
「何かあったのか」
ノアが聞いた。
「顔色が悪い」
「……実家から、手紙が来たんです」
言おうか迷ったが、隠し通せる自信がなかった。
「両親が、王都に戻れと」
ノアの手が止まった。
「そうか」
「新しい縁談も用意されていて……侯爵家のご子息だそうです」
沈黙が流れた。
子猫たちが無邪気に餌を食べる音だけが、部屋に響いている。
「……で、お前はどうしたいんだ」
ノアが聞いた。
その声は、いつもより低かった。
「分かりません」
セレスティアは正直に答えた。
「父が体調を崩しているそうです。心配です。でも……」
でも、ここを離れたくない。
その言葉は、口に出せなかった。
屋敷に戻っても、セレスティアの気持ちは晴れなかった。
庭で猫たちに餌をやりながら、ぼんやりと考える。
王都に戻れば、また同じ生活が始まる。社交界に顔を出し、侯爵家のご子息と見合いをし、新しい婚約者として振る舞う。
それが、伯爵令嬢の義務なのだ。家のために、両親のために。
でも——
「自分のために」という選択肢は、許されないのだろうか。
ミケがそっと近づいてきた。
あの人間嫌いの三毛猫が、今では少しずつセレスティアに心を開きつつあった。完全には近づいてこないが、同じ空間にいることを許してくれるようになった。
「ミケ……」
セレスティアが手を伸ばすと、ミケは逃げなかった。
そっと背中に触れる。ミケは身じろぎしたが、引っ掻いてはこなかった。
「私、どうすればいいの」
猫に話しかけても、答えは返ってこない。
でも、ミケの温かさが、少しだけ心を慰めてくれた。
夕方、マーサが訪ねてきた。
「あんた、元気がないね」
セレスティアの顔を見るなり、マーサは言った。
「何かあったのかい?」
隠しても無駄だと思った。マーサには、何でも見透かされてしまう。
「実家から、戻ってこいと……」
手紙のことを話すと、マーサは黙って聞いていた。
話し終えた後、マーサは長いため息をついた。
「親御さんの気持ちも、分からないではないねえ」
「はい……」
「でもね、セレスティア」
マーサはセレスティアの手を取った。
「あんたの人生は、あんたのものだよ。親御さんのものじゃない」
「でも、父が体調を崩していて……」
「お父様のことは心配だろうね。でも、お父様の体調と、あんたの人生は別の問題だ」
マーサの言葉は、優しいが芯があった。
「あんたは、この一ヶ月で変わったよ。最初に来た時は、まるで幽霊みたいな顔をしてた。でも今は、ちゃんと生きてる顔をしてる」
「私、変わりましたか……」
「変わったさ。猫の世話をして、村の人と話をして、祭りで踊って。あんたは、自分の足で立ち始めたんだ」
セレスティアの目から、涙がこぼれた。
「でも、どうすればいいか分からないんです。父のことも心配だし、でもここを離れたくない気持ちもあって……」
「焦らなくていいよ」
マーサはセレスティアの背中を優しく撫でた。
「答えはすぐに出なくていい。自分の心と、ゆっくり向き合いな」
その夜、セレスティアは返事を書こうとした。
便箋を前に、ペンを持つ。
でも、何を書けばいいか分からない。
「すぐに戻ります」と書けば、この生活は終わる。猫たち、マーサ、村人たち、そしてノア。全てに別れを告げなければならない。
「もう少し待ってください」と書けば、問題の先送りだ。いつかは決断しなければならない時が来る。
「戻りません」と書けば——家族との絶縁を覚悟しなければならない。
どの選択も、怖かった。
結局、その夜は何も書けなかった。
翌日、ノアの家を訪ねると、彼は珍しく玄関の外に出ていた。
「ノアさん?」
「ああ……」
ノアは何か言いかけて、口を閉じた。
「どうかしましたか」
「いや……」
沈黙が流れた。
ノアは珍しく、落ち着かない様子だった。視線があちこちに泳ぎ、いつもの無愛想な態度が揺らいでいる。
「……昨日の話だが」
ようやくノアが口を開いた。
「手紙のこと」
「はい」
「お前がどうするかは、お前が決めることだ。俺が口を出すことじゃない」
「……はい」
「でも」
ノアは一瞬、セレスティアを見た。
「お前がここに来てから、猫たちは……元気になった」
「猫たちが?」
「ああ。お前の屋敷の五匹も、うちの子猫たちも。お前が世話をするようになってから、毛艶が良くなった」
セレスティアは驚いた。
「それは……嬉しいです」
「だから」
ノアは目をそらした。
「猫たちのために、もう少しいろ。分かるまで、ここにいればいい」
その言葉は、不器用で回りくどかった。
でも、セレスティアには分かった。
ノアは、彼なりの言い方で——ここにいてほしいと言っているのだ。
胸が温かくなった。
「……ありがとうございます」
「礼を言うことじゃない。猫のためだ」
「はい。猫のために、もう少しここにいます」
セレスティアは微笑んだ。
「両親には、『もう少しだけ時間をください』と書いておきます」
ノアは何も言わなかった。
ただ、その無表情な顔が、ほんの少しだけ和らいだような気がした。
その夜、セレスティアは手紙を書いた。
『お父様、お母様へ
お手紙、ありがとうございます。お父様の体調が優れないとのこと、大変心配しております。
縁談のお話も承りました。クレメンス侯爵家のご子息に興味を持っていただけたとは、光栄なことです。
しかし、今の私には、まだ心の準備ができておりません。もう少しだけ、時間をいただけないでしょうか。
この田舎での生活で、私は多くのことを学びました。自分の手で生きること、自分の足で立つこと。それは、伯爵令嬢としての教育では学べなかったことです。
お父様のお体が心配ですので、近いうちにお見舞いに伺いたいと思います。でも、今すぐ永久に戻ることは、お許しください。
もう少しだけ、私に時間をください。
セレスティアより』
書き終えた手紙を封筒に入れ、窓の外を見た。
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まだ答えは見つかっていない。
でも、今はこれでいい。
自分の気持ちと向き合う時間を、もう少しだけもらおう。
そう思った。
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