婚約破棄されたので田舎で猫と暮らします

たくわん

文字の大きさ
8 / 20

8

しおりを挟む
祭りから三日後、一通の手紙が届いた。

朝、玄関を開けると、郵便配達の少年が封筒を差し出した。

「都からの手紙だよ、お嬢さん」

封筒を見た瞬間、セレスティアの胸がざわついた。

実家の紋章が押された、高級な封筒。差出人は、母イレーネ・フォン・ヴァイスベルクだった。

「……ありがとう」

封筒を受け取り、家の中に戻った。

リビングのソファに座り、しばらく封筒を見つめていた。

開けたくない。でも、開けないわけにはいかない。

意を決して封を切り、中の手紙を取り出した。


『セレスティアへ

一ヶ月の静養期間が過ぎましたが、あなたはまだ戻ってきません。私たちは大変心配しています。

あなたのお父様は、最近体調を崩されています。過度な心労のせいです。あなたが王都を離れてから、社交界では様々な噂が飛び交っています。ヴァイスベルク家の令嬢が、婚約破棄のショックで田舎に逃げ出したと。お父様は、その噂を否定するために奔走されています。

また、あなたに良い縁談の話が来ています。クレメンス侯爵家のご子息が、あなたに興味を持っておられるとのこと。侯爵家は、王家に次ぐ名門です。この機会を逃すべきではありません。

すぐに王都にお戻りなさい。あなたの居場所は、ここにあるのです。田舎で猫と暮らすなど、伯爵令嬢のすることではありません。

母より』


手紙を読み終えた時、セレスティアの手は震えていた。

父が体調を崩している。

それは心配だった。本当に心配だった。

でも——

「あなたの居場所は、ここにあるのです」

その言葉が、胸に刺さった。

私の居場所は、本当に王都にあるのだろうか。

あの息苦しい社交界に、完璧を求められる毎日に、自分を殺して生きる生活に。

今の生活を思い返した。

毎朝、猫たちに餌をやること。ノアの家に通って、子猫の世話をすること。マーサとお茶を飲みながら話すこと。リーナや村人たちと少しずつ打ち解けていくこと。

この一ヶ月で、セレスティアの生活は大きく変わった。

使用人もいない、華やかさもない、不便なことだらけの田舎暮らし。

でも、ここには——自分らしくいられる自由があった。


午後、いつものようにノアの家に行った。

子猫のイチ、ニ、サンは、すっかり大きくなっていた。目もしっかり開き、よちよち歩きから駆け回るようになっている。

「元気そうですね」

「ああ。もう離乳食を食べられる」

ノアは子猫たちにミルクを混ぜた離乳食を与えていた。

セレスティアは黙って手伝った。でも、心ここにあらずだったのだろう。手元が狂い、餌の皿を落としそうになった。

「何かあったのか」

ノアが聞いた。

「顔色が悪い」

「……実家から、手紙が来たんです」

言おうか迷ったが、隠し通せる自信がなかった。

「両親が、王都に戻れと」

ノアの手が止まった。

「そうか」

「新しい縁談も用意されていて……侯爵家のご子息だそうです」

沈黙が流れた。

子猫たちが無邪気に餌を食べる音だけが、部屋に響いている。

「……で、お前はどうしたいんだ」

ノアが聞いた。

その声は、いつもより低かった。

「分かりません」

セレスティアは正直に答えた。

「父が体調を崩しているそうです。心配です。でも……」

でも、ここを離れたくない。

その言葉は、口に出せなかった。


屋敷に戻っても、セレスティアの気持ちは晴れなかった。

庭で猫たちに餌をやりながら、ぼんやりと考える。

王都に戻れば、また同じ生活が始まる。社交界に顔を出し、侯爵家のご子息と見合いをし、新しい婚約者として振る舞う。

それが、伯爵令嬢の義務なのだ。家のために、両親のために。

でも——

「自分のために」という選択肢は、許されないのだろうか。

ミケがそっと近づいてきた。

あの人間嫌いの三毛猫が、今では少しずつセレスティアに心を開きつつあった。完全には近づいてこないが、同じ空間にいることを許してくれるようになった。

「ミケ……」

セレスティアが手を伸ばすと、ミケは逃げなかった。

そっと背中に触れる。ミケは身じろぎしたが、引っ掻いてはこなかった。

「私、どうすればいいの」

猫に話しかけても、答えは返ってこない。

でも、ミケの温かさが、少しだけ心を慰めてくれた。


夕方、マーサが訪ねてきた。

「あんた、元気がないね」

セレスティアの顔を見るなり、マーサは言った。

「何かあったのかい?」

隠しても無駄だと思った。マーサには、何でも見透かされてしまう。

「実家から、戻ってこいと……」

手紙のことを話すと、マーサは黙って聞いていた。

話し終えた後、マーサは長いため息をついた。

「親御さんの気持ちも、分からないではないねえ」

「はい……」

「でもね、セレスティア」

マーサはセレスティアの手を取った。

「あんたの人生は、あんたのものだよ。親御さんのものじゃない」

「でも、父が体調を崩していて……」

「お父様のことは心配だろうね。でも、お父様の体調と、あんたの人生は別の問題だ」

マーサの言葉は、優しいが芯があった。

「あんたは、この一ヶ月で変わったよ。最初に来た時は、まるで幽霊みたいな顔をしてた。でも今は、ちゃんと生きてる顔をしてる」

「私、変わりましたか……」

「変わったさ。猫の世話をして、村の人と話をして、祭りで踊って。あんたは、自分の足で立ち始めたんだ」

セレスティアの目から、涙がこぼれた。

「でも、どうすればいいか分からないんです。父のことも心配だし、でもここを離れたくない気持ちもあって……」

「焦らなくていいよ」

マーサはセレスティアの背中を優しく撫でた。

「答えはすぐに出なくていい。自分の心と、ゆっくり向き合いな」


その夜、セレスティアは返事を書こうとした。

便箋を前に、ペンを持つ。

でも、何を書けばいいか分からない。

「すぐに戻ります」と書けば、この生活は終わる。猫たち、マーサ、村人たち、そしてノア。全てに別れを告げなければならない。

「もう少し待ってください」と書けば、問題の先送りだ。いつかは決断しなければならない時が来る。

「戻りません」と書けば——家族との絶縁を覚悟しなければならない。

どの選択も、怖かった。

結局、その夜は何も書けなかった。


翌日、ノアの家を訪ねると、彼は珍しく玄関の外に出ていた。

「ノアさん?」

「ああ……」

ノアは何か言いかけて、口を閉じた。

「どうかしましたか」

「いや……」

沈黙が流れた。

ノアは珍しく、落ち着かない様子だった。視線があちこちに泳ぎ、いつもの無愛想な態度が揺らいでいる。

「……昨日の話だが」

ようやくノアが口を開いた。

「手紙のこと」

「はい」

「お前がどうするかは、お前が決めることだ。俺が口を出すことじゃない」

「……はい」

「でも」

ノアは一瞬、セレスティアを見た。

「お前がここに来てから、猫たちは……元気になった」

「猫たちが?」

「ああ。お前の屋敷の五匹も、うちの子猫たちも。お前が世話をするようになってから、毛艶が良くなった」

セレスティアは驚いた。

「それは……嬉しいです」

「だから」

ノアは目をそらした。

「猫たちのために、もう少しいろ。分かるまで、ここにいればいい」

その言葉は、不器用で回りくどかった。

でも、セレスティアには分かった。

ノアは、彼なりの言い方で——ここにいてほしいと言っているのだ。

胸が温かくなった。

「……ありがとうございます」

「礼を言うことじゃない。猫のためだ」

「はい。猫のために、もう少しここにいます」

セレスティアは微笑んだ。

「両親には、『もう少しだけ時間をください』と書いておきます」

ノアは何も言わなかった。

ただ、その無表情な顔が、ほんの少しだけ和らいだような気がした。


その夜、セレスティアは手紙を書いた。

『お父様、お母様へ

お手紙、ありがとうございます。お父様の体調が優れないとのこと、大変心配しております。

縁談のお話も承りました。クレメンス侯爵家のご子息に興味を持っていただけたとは、光栄なことです。

しかし、今の私には、まだ心の準備ができておりません。もう少しだけ、時間をいただけないでしょうか。

この田舎での生活で、私は多くのことを学びました。自分の手で生きること、自分の足で立つこと。それは、伯爵令嬢としての教育では学べなかったことです。

お父様のお体が心配ですので、近いうちにお見舞いに伺いたいと思います。でも、今すぐ永久に戻ることは、お許しください。

もう少しだけ、私に時間をください。

セレスティアより』

書き終えた手紙を封筒に入れ、窓の外を見た。

月が出ている。

まだ答えは見つかっていない。

でも、今はこれでいい。

自分の気持ちと向き合う時間を、もう少しだけもらおう。

そう思った。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

【完結】無口な旦那様は妻が可愛くて仕方ない

ベル
恋愛
旦那様とは政略結婚。 公爵家の次期当主であった旦那様と、領地の経営が悪化し、没落寸前の伯爵令嬢だった私。 旦那様と結婚したおかげで私の家は安定し、今では昔よりも裕福な暮らしができるようになりました。 そんな私は旦那様に感謝しています。 無口で何を考えているか分かりにくい方ですが、とてもお優しい方なのです。 そんな二人の日常を書いてみました。 お読みいただき本当にありがとうございますm(_ _)m 無事完結しました!

「お前みたいな卑しい闇属性の魔女など側室でもごめんだ」と言われましたが、私も殿下に嫁ぐ気はありません!

野生のイエネコ
恋愛
闇の精霊の加護を受けている私は、闇属性を差別する国で迫害されていた。いつか私を受け入れてくれる人を探そうと夢に見ていたデビュタントの舞踏会で、闇属性を差別する王太子に罵倒されて心が折れてしまう。  私が国を出奔すると、闇精霊の森という場所に住まう、不思議な男性と出会った。なぜかその男性が私の事情を聞くと、国に与えられた闇精霊の加護が消滅して、国は大混乱に。  そんな中、闇精霊の森での生活は穏やかに進んでいく。

お姫様は死に、魔女様は目覚めた

悠十
恋愛
 とある大国に、小さいけれど豊かな国の姫君が側妃として嫁いだ。  しかし、離宮に案内されるも、離宮には侍女も衛兵も居ない。ベルを鳴らしても、人を呼んでも誰も来ず、姫君は長旅の疲れから眠り込んでしまう。  そして、深夜、姫君は目覚め、体の不調を感じた。そのまま気を失い、三度目覚め、三度気を失い、そして…… 「あ、あれ? えっ、なんで私、前の体に戻ってるわけ?」  姫君だった少女は、前世の魔女の体に魂が戻ってきていた。 「えっ、まさか、あのまま死んだ⁉」  魔女は慌てて遠見の水晶を覗き込む。自分の――姫君の体は、嫁いだ大国はいったいどうなっているのか知るために……

幽閉王女と指輪の精霊~嫁いだら幽閉された!餓死する前に脱出したい!~

二階堂吉乃
恋愛
 同盟国へ嫁いだヴァイオレット姫。夫である王太子は初夜に現れなかった。たった1人幽閉される姫。やがて貧しい食事すら届かなくなる。長い幽閉の末、死にかけた彼女を救ったのは、家宝の指輪だった。  1年後。同盟国を訪れたヴァイオレットの従兄が彼女を発見する。忘れられた牢獄には姫のミイラがあった。激怒した従兄は同盟を破棄してしまう。  一方、下町に代書業で身を立てる美少女がいた。ヴィーと名を偽ったヴァイオレットは指輪の精霊と助けあいながら暮らしていた。そこへ元夫?である王太子が視察に来る。彼は下町を案内してくれたヴィーに恋をしてしまう…。

【完結】お父様の再婚相手は美人様

すみ 小桜(sumitan)
恋愛
 シャルルの父親が子連れと再婚した!  二人は美人親子で、当主であるシャルルをあざ笑う。  でもこの国では、美人だけではどうにもなりませんよ。

冷遇妃マリアベルの監視報告書

Mag_Mel
ファンタジー
シルフィード王国に敗戦国ソラリから献上されたのは、"太陽の姫"と讃えられた妹ではなく、悪女と噂される姉、マリアベル。 第一王子の四番目の妃として迎えられた彼女は、王宮の片隅に追いやられ、嘲笑と陰湿な仕打ちに晒され続けていた。 そんな折、「王家の影」は第三王子セドリックよりマリアベルの監視業務を命じられる。年若い影が記す報告書には、ただ静かに耐え続け、死を待つかのように振舞うひとりの女の姿があった。 王位継承争いと策謀が渦巻く王宮で、冷遇妃の運命は思わぬ方向へと狂い始める――。 (小説家になろう様にも投稿しています)

完結 愚王の側妃として嫁ぐはずの姉が逃げました

らむ
恋愛
とある国に食欲に色欲に娯楽に遊び呆け果てには金にもがめついと噂の、見た目も醜い王がいる。 そんな愚王の側妃として嫁ぐのは姉のはずだったのに、失踪したために代わりに嫁ぐことになった妹の私。 しかしいざ対面してみると、なんだか噂とは違うような… 完結決定済み

完結 私は何を見せられているのでしょう?

音爽(ネソウ)
恋愛
「あり得ない」最初に出た言葉がそれだった

処理中です...