婚約破棄されたので田舎で猫と暮らします

たくわん

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手紙を出してから、数日が経った。

両親からの返事はまだ来ない。承諾してくれたのか、それとも怒っているのか。分からないまま、日々は過ぎていく。

セレスティアは、いつも通りの生活を続けた。

朝起きて猫たちに餌をやり、ノアの家に通い、子猫の世話をし、マーサと話をする。そんな繰り返しの中に、小さな幸せを見つけていた。


その日、ノアの家で子猫の世話を終えた後、セレスティアは書斎に本を返しに行った。

「入っていいか」

「ああ」

ノアは机に向かって、何か書き物をしていた。

本を棚に戻し、ふと机の上を見ると、紙の束が置いてあった。

「それは?」

「村の子供たちの予防接種の記録だ。来月、巡回医が来る」

「巡回医?」

「年に二回、王都から医師が派遣される。村の医療状況を確認するためだ」

ノアの声には、どこか苦々しい響きがあった。

「ノアさんがいるのに、わざわざ王都から?」

「俺は正式な資格を持っていない」

セレスティアは驚いた。

「でも、医師として働いているのでは」

「この村では、そういうことになっている。だが、王都の医師会の名簿からは抹消されている」

抹消されている。

その言葉の重さに、セレスティアは息を飲んだ。


沈黙の中、ノアは書き物の手を止めた。

「……話しておくべきかもしれない」

「え?」

「俺の過去のことだ。お前は、半端に知っている。中途半端は良くない」

セレスティアは椅子に座った。

ノアは窓の外を見つめながら、ゆっくりと話し始めた。

「俺は、王都の聖マリア病院で働いていた。若手医師の中では、優秀だと言われていた」

聖マリア病院。王国最大の病院だ。セレスティアも名前は知っている。

「将来を嘱望されて、院長の姪と婚約した。あの写真の女だ」

「……」

「順風満帆だった。このまま出世して、いずれは病院の幹部になる。そう思っていた」

ノアの声は淡々としていた。感情を押し殺しているようだった。

「ある日、患者が死んだ。俺が担当していた患者だ」

セレスティアは息を止めた。

「病気は重かった。手を尽くしたが、助からなかった。医療には限界がある。それは仕方のないことだった」

「でも……」

「患者の遺族が騒いだ。医療ミスだと。俺が殺したと」

ノアは机の上の書類を見つめた。

「調査が行われた。俺の処置に問題はなかった。病院の医療委員会も、そう結論を出した」

「なら——」

「遺族は、有力な貴族だった」

セレスティアは血の気が引いた。

「政治的な圧力がかかった。病院は、俺を切り捨てることにした。医療ミスを認め、俺に全ての責任を負わせた」

「そんな……」

「婚約者は、俺を庇わなかった。それどころか、率先して俺を非難した。自分の立場を守るためだ」

ノアの声が、わずかに震えた。

「俺は医師免許を剥奪され、医師会から追放された。名誉も、地位も、婚約者も、全てを失った」


重い沈黙が流れた。

セレスティアは言葉を失っていた。

ノアが受けた仕打ちは、あまりにも理不尽だった。正しいことをしたのに、権力によって潰された。信じていた人に裏切られた。

「だから俺は、人間が信じられなくなった」

ノアは低く言った。

「貴族も、医師仲間も、婚約者も。誰も俺の味方にならなかった。自分の保身のために、簡単に俺を切り捨てた」

「ノアさん……」

「この村に来たのは、逃げるためだ。人間から離れて、静かに生きるために」

ノアはセレスティアを見た。

「お前に話したのは、中途半端は良くないと思ったからだ。それだけだ」

「話してくれて、ありがとうございます」

セレスティアは静かに言った。

「辛いことを、思い出させてしまってすみません」

「……別に」


しばらく、二人は黙っていた。

窓の外では、秋の日差しが庭を照らしている。猫たちが日向ぼっこをしているのが見えた。

「ノアさん」

セレスティアが口を開いた。

「私も、人を信じることが怖いです」

ノアが顔を上げた。

「婚約者に裏切られて、社交界で笑われて。誰も私の味方にならなかった。両親でさえ、私の気持ちより家の体裁を優先した」

「……」

「だからここに来たんです。誰も私を知らない場所で、一からやり直したかった」

セレスティアは微笑んだ。

「でも、この村に来て——少しだけ、人を信じられるようになりました」

「……そうか」

「マーサさんが優しくしてくれて、村の人たちが受け入れてくれて。そして——」

セレスティアはノアを見た。

「ノアさんがいてくれて」

ノアは目をそらした。

「俺は、何もしていない」

「そんなことありません。猫の世話を教えてくれて、困った時に助けてくれて、話を聞いてくれて」

「……」

「ノアさんは、言葉では冷たいけど、行動では優しいです。それが、私にはよく分かります」


ノアは長い間、黙っていた。

やがて、ぽつりと言った。

「お前に、聞きたいことがある」

「何ですか」

「お前は、どうしたいんだ」

「え?」

「王都に戻るのか。ここに残るのか。縁談を受けるのか。お前自身は、どうしたいんだ」

セレスティアは口ごもった。

「分からない、とは言うな」

ノアの声は厳しかった。

「分からないのは、考えていないからだ。本当は分かっているのに、目を背けているからだ」

その言葉が、胸に刺さった。

「俺は、お前に同情して欲しいわけじゃない。お前の人生だ。お前が決めろ」

「でも、父が……両親が……」

「親のせいにするな」

ノアはセレスティアを真っ直ぐに見た。

「お前の人生を、親のせいにするな。親の期待に応えるために生きて、何になる。そんな人生は、お前のものじゃない」

セレスティアの目から、涙が溢れた。

分かっている。

本当は、分かっているのだ。

自分がどうしたいか。どこにいたいか。誰と一緒にいたいか。

でも、それを認めるのが怖かった。

家族を裏切ることになる。令嬢としての義務を放棄することになる。周囲から非難されることになる。

怖くて、逃げていた。


「ノアさん」

涙を拭いながら、セレスティアは言った。

「私、ここにいたいです」

ノアは黙っていた。

「この村で、猫たちと暮らしたい。マーサさんや村の人たちと一緒にいたい。そして——」

言葉が詰まった。

「そして?」

「……ノアさんの、そばにいたい」

言ってしまった。

恥ずかしさで顔が熱くなる。こんなことを言うつもりはなかったのに。

ノアは何も言わなかった。

沈黙が怖くて、セレスティアは慌てて言い足した。

「あの、変な意味じゃなくて……猫の世話を手伝いたいとか、そういう意味で……」

「セレスティア」

名前を呼ばれて、はっとした。

ノアが、初めて名前で呼んだ。

「お前がそう思うなら、そうすればいい」

「え……」

「俺は……お前がここにいることを、迷惑だとは思っていない」

その言葉は、ノアにとって精一杯だったのだろう。

顔は相変わらず無表情だったが、耳が赤くなっているのが見えた。


セレスティアは涙を拭いて、笑った。

「ノアさんも、素直じゃないですね」

「うるさい」

「でも、嬉しいです」

「……」

「私、決めました。両親には、正直に話します。ここに残りたいって」

「そうか」

「でも、父の様子は見に行きます。体調が心配ですから」

「当然だ。親を捨てろとは言っていない」

ノアは立ち上がった。

「茶を淹れる。待っていろ」

「え、いいんですか」

「さっき泣いただろう。落ち着け」

ノアは台所に向かった。

その背中を見ながら、セレスティアは胸がいっぱいになった。

不器用で、無愛想で、人間嫌い。

でも、根は優しくて、正しいことを言ってくれる。

この人のそばにいたい。

その気持ちは、もう誤魔化せなかった。


お茶を飲みながら、セレスティアは決意を固めた。

近いうちに王都に行こう。父の見舞いをして、両親に正直に話そう。

反対されるだろう。怒られるだろう。失望されるかもしれない。

でも、もう逃げない。

自分の人生は、自分で決める。

ノアが教えてくれたことだ。

「ノアさん」

「何だ」

「私が王都に行っている間、猫たちをお願いしていいですか」

「当たり前だ。誰に任せるつもりだった」

「よかった」

セレスティアは微笑んだ。

「帰る場所があるって、心強いです」

ノアは答えなかった。

でも、その目が少しだけ和らいだのを、セレスティアは見逃さなかった。
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