婚約破棄されたので田舎で猫と暮らします

たくわん

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王都行きの準備を進めていた、ある日の午後のことだった。

村の広場で騒ぎが起きた。

「大変だ! ヨハンの息子が!」

叫び声が聞こえ、セレスティアは屋敷を飛び出した。

広場に駆けつけると、人だかりができていた。中心には、十歳くらいの少年が倒れている。顔は真っ青で、苦しそうに呼吸をしている。

「どうしたんですか!」

セレスティアが近くにいた女性に聞いた。

「トーマスが急に倒れたの! さっきまで元気に遊んでいたのに……」

「熱があるわ! すごい熱!」

母親らしい女性が、少年を抱きしめて泣いていた。

「誰か、ノア先生を!」

「もう呼びに行った!」


数分後、ノアが駆けつけてきた。

医療鞄を手に、人混みをかき分けて少年に近づく。

「どけ」

短く言って、ノアは少年の前にしゃがみ込んだ。

額に手を当て、脈を取り、目と口の中を確認する。

「いつからこうなった」

「さ、さっきです……三十分くらい前、急に……」

「昨日から何か変わったことは」

「昨日は……川で遊んでいました。それと、野いちごを食べていたと……」

「野いちご? どこで」

「森の、奥の方だと思います……」

ノアの顔色が変わった。

「毒草だ」

「え……」

「この時期、森の奥には毒のある実がなる。野いちごに似ているが、別物だ」

母親の顔から血の気が引いた。

「ど、毒……うちの子は……」

「落ち着け。まだ間に合う」

ノアは立ち上がった。

「家に運ぶ。手伝え」


ノアの家に少年を運び込み、診療台に寝かせた。

セレスティアも手伝いについてきた。ノアは何も言わなかったが、拒否もしなかった。

「解毒剤を作る。時間がかかる。その間、容態を見ていろ」

「私がですか」

「お前に任せる。俺は薬を作ることに集中する」

セレスティアは頷いた。

ノアは奥の部屋——薬草や薬品を保管している部屋——に消えた。


少年のそばに座り、セレスティアは額の汗を拭いた。

熱は相変わらず高い。呼吸は荒く、時折うなされている。

母親は廊下で泣いている。父親は青い顔で立ち尽くしている。

「大丈夫ですよ」

セレスティアは両親に声をかけた。

「ノアさんが治してくれます」

「で、でも……毒って……」

「ノアさんは腕のいい医師です。信じてください」

自分でも驚くほど、確信に満ちた声だった。

ノアなら、きっと助けてくれる。そう信じていた。


一時間が経った。

少年の容態は、少しずつ悪化していた。熱は下がらず、呼吸はさらに苦しそうになっている。

母親は祈るように手を組み、父親は壁に頭をつけてうなだれている。

セレスティアは必死に少年の体を冷やし続けた。濡らした布で額を拭き、体を扇いで風を送る。

「お願い……頑張って……」

その時、ノアが戻ってきた。

手には、緑色の液体が入った小瓶を持っている。

「できた」

ノアは少年の口を開け、慎重に液体を流し込んだ。

「飲み込め。頑張れ」

少年の喉が動いた。液体が流れ込んでいく。

「これで大丈夫なんですか」

「分からない」

ノアは正直に答えた。

「毒を摂取してから時間が経っている。解毒剤が間に合うかどうか」

母親がすすり泣く声が聞こえた。

「でも、できることは全てやった。後は、この子の生命力次第だ」


それから、長い夜が始まった。

ノアは少年のそばを離れなかった。脈を取り、呼吸を確認し、追加の薬を投与する。

セレスティアも手伝い続けた。水を替え、布を絞り、両親にお茶を淹れる。

深夜を過ぎた頃、少年の呼吸が少し楽になった。

「熱が、下がってきている」

ノアが言った。

「本当ですか」

「ああ。解毒剤が効いてきた」

母親が泣き崩れた。今度は、安堵の涙だった。

「先生……ありがとうございます……」

「まだ安心するな。峠は越えたが、完全に回復するまで油断できない」

ノアは厳しく言ったが、その目には安堵の色があった。


明け方、少年は目を覚ました。

「お母さん……」

「トーマス! トーマス!」

母親が少年を抱きしめ、父親も涙を流している。

セレスティアも、思わず涙ぐんだ。

よかった。本当に、よかった。


両親が少年を連れて帰った後、ノアとセレスティアは二人きりになった。

ノアは椅子に座り、疲れた様子で目を閉じていた。

「ノアさん、すごかったです」

セレスティアが言った。

「あんな短時間で解毒剤を作って、トーマス君を助けて」

「運が良かっただけだ」

「そんなことありません。ノアさんの腕がなければ、あの子は……」

「もういい」

ノアは目を開けた。

「褒められるのは苦手だ」

「でも」

「王都にいた頃は、こうして褒められることが多かった。『若き天才医師』とか言われて。でも結局、何の意味もなかった」

その声には、苦い響きがあった。

「評判なんて、一瞬で消える。権力の前では、何の価値もない」

「……」

「俺が本当に助けたい患者を助けられた時だけ、医師でいる意味がある。今夜みたいに」

セレスティアは黙って聞いていた。

「あの子が助かったのは、俺の腕じゃない。あの子の生命力と、運と、そして——」

ノアはセレスティアを見た。

「お前が手伝ってくれたからだ」

「私は、何も……」

「いや。お前がいてくれて助かった。正直に言う」

セレスティアは胸がいっぱいになった。

「ありがとう」

ノアが言った。

「お前のおかげだ」


その日の夕方、村中にノアの評判が広まった。

「ノア先生が、トーマスを助けてくれた」

「毒を食べた子供を、一晩で治した」

「やっぱり先生の腕は確かだ」

村人たちが次々とノアの家を訪れ、感謝の品を置いていく。

ノアは相変わらず無愛想に応対していたが、その目には、どこか温かみがあった。


夜、セレスティアはノアの家を訪ねた。

「お疲れ様でした」

「ああ」

「今日は、本当にすごかったです。あの子の命を救って」

「……」

「ノアさんは、本当に立派な医師です。王都の人たちは、大きな間違いを犯しました」

ノアは窓の外を見つめた。

「そう言ってくれるのは、お前くらいだ」

「そんなことありません。村の人たちも、皆感謝しています」

「……そうか」

しばらく沈黙が流れた。

「俺は」

ノアがぽつりと言った。

「この村に来てから、医師としての自分を取り戻せた気がする」

「取り戻せた?」

「王都では、出世のために医師をしていた。評判のために、地位のために。患者のことなど、二の次だった」

「……」

「でもここでは違う。目の前の患者を助けることだけを考えられる。それが、本来の医師のあり方だと思う」

セレスティアは微笑んだ。

「ノアさんは、最初からそうだったと思います」

「何?」

「患者を助けたい気持ちが、最初からあったから、王都で苦しんだんじゃないですか。本当に出世だけが目的なら、あんなに傷つかなかったはずです」

ノアは目を見開いた。

「お前は……」

「私の勝手な想像ですけど」

セレスティアは照れ笑いをした。

「でも、今日のノアさんを見て、確信しました。ノアさんは、本物の医師です」

ノアは何も言わなかった。

でも、その目が少し潤んでいるように見えた。

「……ありがとう」

小さな声で、ノアは言った。

「お前に出会えて……よかった」

セレスティアの心臓が跳ねた。

「私も」

声が震えた。

「ノアさんに出会えて、よかったです」


月明かりが、二人を照らしていた。

何も言わなくても、通じ合えるものがある。

セレスティアは、それを感じていた。

王都に行く日が近づいている。

でも、必ず戻ってくる。

この場所に。この人のそばに。

そう、心に誓った。
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