婚約破棄されたので田舎で猫と暮らします

たくわん

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トーマスを救った夜から、ノアとセレスティアの関係は少しずつ変わっていった。

以前は子猫の世話という目的があって会っていた。でも今は、特に用がなくても顔を合わせるようになっていた。

朝、猫たちに餌をやった後、何となくノアの家に足が向く。

ノアも、以前ほど素っ気なくはなくなった。セレスティアが来ると、黙ってお茶を淹れてくれる。

「また来たのか」

「迷惑ですか」

「……別に」

そんなやり取りが、日常になっていた。


ある日の午後、セレスティアはノアの家で本を読んでいた。

ノアは机に向かって、医療の記録を書いている。時折、猫が膝に乗ってきて、それを撫でながら作業を続ける。

静かな時間だった。

王都にいた頃、こんな穏やかな午後を過ごしたことがあっただろうか。

社交界では、常に誰かの目を気にしていた。一人になる時間も、何もしない時間も、許されなかった。

でも今は、ただここにいるだけでいい。

何かを演じる必要もない。気を遣う必要もない。ただ、同じ空間にいるだけで、心が落ち着く。

「何を読んでいる」

ノアが聞いた。

「詩集です。本棚にあったので」

「ああ、それは……」

ノアは少し言いよどんだ。

「母の形見だ」

「お母様の?」

「昔、よく読み聞かせてくれた。母は……詩が好きだった」

セレスティアは本を見つめた。

ノアの母親。彼がどんな家庭で育ったのか、考えたことがなかった。

「お母様は、今は……」

「十年前に亡くなった。病気で」

「そうでしたか……すみません」

「謝ることじゃない。昔の話だ」

ノアは淡々と言ったが、その声には優しさがあった。

「母は、いい人だった。俺が医師を目指したのも、母の病気がきっかけだ」

「そうだったんですね」

「母を救えなかった。だから、他の人を救いたいと思った。……結局、それも上手くいかなかったが」

セレスティアは本を閉じた。

「でも、トーマス君を救いました。この村の人たちを、たくさん救ってきたはずです」

「……かもしれないな」

ノアは小さく息をついた。

「お前と話していると、悪くない気持ちになる」

「え?」

「過去のことを、少しだけ許せる気がする。そういう意味だ」

セレスティアの胸が温かくなった。

「私も、ノアさんと話していると楽になります」

「そうか」

二人の間に、穏やかな沈黙が流れた。


夕方、セレスティアが帰ろうとした時、ノアが言った。

「明日、時間はあるか」

「はい。特に予定はありませんけど」

「なら、付き合え」

「どこかに行くんですか」

「薬草を採りに行く。森の奥だ。一人では荷物が多い」

セレスティアは目を輝かせた。

「行きます!」

「そんなに嬉しそうにするな。ただの荷物持ちだぞ」

「それでも嬉しいです。森に行くの、初めてですから」

ノアは呆れたように肩をすくめた。

でも、その口元がわずかに緩んでいるのを、セレスティアは見逃さなかった。


翌日、二人は森へ向かった。

村の外れから続く細い道を歩き、木々の間を抜けていく。朝の光が木漏れ日となって降り注ぎ、空気は澄んでいて気持ちがいい。

「この森には、いろいろな薬草がある」

ノアが歩きながら説明した。

「解熱剤になるもの、傷薬になるもの、痛み止めになるもの。王都で買うと高価だが、ここでは自分で採れる」

「ノアさんが薬を作っているんですか」

「簡単なものはな。複雑な薬は、専門の薬師から買う」

森の奥に進むにつれ、木々が密になっていった。足元には苔が生え、あちこちにキノコが顔を出している。

「これは?」

セレスティアが青い花を指さした。

「ルリソウ。咳止めに使う。これを採る」

ノアは腰を下ろし、丁寧に花を摘み始めた。

セレスティアも隣にしゃがみ込み、教わった通りに花を摘む。

「根を傷つけないように。来年も生えてくるようにするんだ」

「はい」

黙々と作業を続ける。

森の中は静かで、鳥の声と風の音だけが聞こえる。時折、小動物が茂みを走り抜けていく。

「きれい……」

セレスティアは思わず呟いた。

「何が」

「この森が。こんなに美しい場所があるなんて、知りませんでした」

「王都にも森はあるだろう」

「あるにはありますけど、こんなに……自然のままじゃないです。整備された庭園みたいな感じで」

ノアは薬草を籠に入れながら言った。

「この森は、人の手が入っていない。だから、薬草もよく育つ」

「人の手が入らないから、いいんですね」

「そうだ」

ノアがセレスティアを見た。

「お前も、人の手が入りすぎていたんじゃないか」

「え?」

「王都にいた頃。周りから、いろいろと手を加えられて、本来の姿を失っていた」

セレスティアは息を飲んだ。

「でも今は、少しずつ元に戻ってきている。そう見える」

「ノアさん……」

「この森みたいに、自然のままでいればいい。その方が、きれいだ」

ノアはすぐに目をそらした。

「薬草の話だ。変な意味じゃない」

「……はい」

セレスティアは顔が熱くなるのを感じた。

薬草の話。そうだ、きっと薬草の話だ。

でも、胸の高鳴りは止まらなかった。


昼過ぎ、森の中の小さな泉で休憩を取った。

ノアが持ってきたパンとチーズを分け合い、泉の水を飲む。

「ここは、秘密の場所だ」

ノアが言った。

「村の人間も、あまり知らない」

「どうして私に教えてくれたんですか」

「……荷物持ちが必要だったから」

「本当に?」

「……」

ノアは答えなかった。

代わりに、泉の水面を見つめながら言った。

「俺は、人を連れてここに来たことがない」

「初めて?」

「ああ」

セレスティアの心臓が跳ねた。

「なぜ、私を?」

「分からない」

ノアは正直に言った。

「お前といると、一人でいる時より……悪くない。そう思っただけだ」

不器用な言葉だった。

でも、それがノアなりの精一杯だということは分かった。

「ありがとうございます」

セレスティアは微笑んだ。

「私も、ノアさんといると落ち着きます」

「そうか」

しばらく、二人は黙って泉を眺めていた。

水面に映る空。揺れる木々の影。遠くで鳴く鳥の声。

言葉がなくても、心地よい時間だった。


帰り道、ノアがぽつりと言った。

「王都に行くのは、いつだ」

「来週の予定です。父の様子を見て、両親に話をして……たぶん、十日くらいで戻ります」

「そうか」

「猫たちのこと、よろしくお願いします」

「分かっている」

沈黙が流れた。

「ノアさん」

「何だ」

「私、必ず戻ってきます」

ノアは足を止めた。

振り返り、セレスティアを見た。

「当たり前だ」

「え?」

「お前の猫たちが待っている。イチ、ニ、サンも、お前を母親だと思っている。戻ってこなければ、あいつらが悲しむ」

「……はい」

「それに」

ノアは言葉を切った。

「俺も……」

「ノアさん?」

「……何でもない。早く歩け。日が暮れる」

ノアは足早に歩き出した。

セレスティアは小走りでついていきながら、胸の中で何かが膨らんでいくのを感じていた。

ノアも、何かを言いかけた。

「俺も」の続きは、何だったのだろう。

聞きたい。でも、聞くのが怖い。

この気持ちに、名前をつけるのが怖い。

でも——もう、誤魔化せないことは分かっていた。
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