婚約破棄されたので田舎で猫と暮らします

たくわん

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王都へ出発する三日前のことだった。

その日、セレスティアは庭で猫たちと過ごしていた。

シマ、クロ、ブチ、ユキ、そしてミケ。五匹の猫たちは、すっかりセレスティアに慣れていた。

特にミケの変化は大きかった。あれほど人間を警戒していた三毛猫が、今ではセレスティアの足元に座るようになっていた。まだ触らせてはくれないが、逃げなくなった。

「ミケ、いい子ね」

セレスティアが声をかけると、ミケは耳をぴくりと動かした。

その時——

村の方から、馬車の音が聞こえてきた。

この村に馬車が来ることは珍しい。ほとんどの村人は徒歩か、せいぜい荷馬車を使う程度だ。

音は近づいてくる。

セレスティアは立ち上がり、屋敷の前に出た。

丘を登ってくる馬車が見える。それは——豪華な装飾が施された、貴族の馬車だった。

胸騒ぎがした。

まさか。

馬車が屋敷の前で止まった。御者が降りて扉を開ける。

中から現れたのは——

「久しぶりだね、セレスティア」

王太子アルベルトだった。


セレスティアは凍りついた。

金髪碧眼の美青年。王国の次期国王。そして、彼女を公衆の面前で捨てた男。

「どうして、ここに……」

「君がこんな田舎にいると聞いてね。心配で様子を見に来たんだ」

アルベルトは優雅に微笑んだ。

その笑顔は、かつてセレスティアが見慣れたものだった。社交界で誰もが見惚れる、完璧な王子の笑顔。

しかし今、その笑顔は空虚に見えた。

「心配……ですか」

「ああ。婚約を解消したとはいえ、君は長年の知人だ。こんな辺鄙な場所で暮らしていると聞いて、いてもたってもいられなくなってね」

嘘だ、とセレスティアは直感した。

アルベルトは、理由もなく動くような人間ではない。必ず何か目的がある。

「それに、君に伝えたいこともあったんだ」

「伝えたいこと?」

「ミリアとの婚約も順調だよ。来月には正式に婚約発表がある」

わざわざ言いに来たのか。それとも、自慢したかったのか。

セレスティアは表情を変えなかった。

「そうですか。おめでとうございます」

「ありがとう。君も、そろそろ王都に戻るべきだと思うよ」

アルベルトの目が、探るようにセレスティアを見た。

「父上——国王陛下が、君に興味を持っておられるようでね」

「国王陛下が?」

「クレメンス侯爵家との縁談の話は聞いているだろう? あれは、父上の肝いりなんだ」

セレスティアの背筋が冷たくなった。

「どういう、意味ですか」

「侯爵家の次男は、外交官として優秀だ。君を嫁がせれば、ヴァイスベルク家との繋がりも維持できる。政治的に、とても都合がいい」

政治的に。

結局、それだ。

彼らにとって、セレスティアは駒に過ぎない。誰と結婚させれば得になるか、そういう計算でしか見ていない。

「私は、まだ決めていません」

「決めていない?」

アルベルトは眉を上げた。

「こんな田舎で、何をするつもりなんだい。君は伯爵令嬢だ。ここにいるべき人間じゃない」

「それは、私が決めることです」

「セレスティア」

アルベルトの声が、わずかに硬くなった。

「僕は君のためを思って言っているんだ。父上の意向に逆らうのは、得策じゃないよ」


その時、背後から声がした。

「何の騒ぎだ」

振り返ると、ノアが立っていた。

いつの間に来たのか。無愛想な顔で、アルベルトを睨んでいる。

「君は誰だい?」

アルベルトが眉をひそめた。

「この村の医者だ」

「医者? ふうん……」

アルベルトはノアを値踏みするように見た。

「田舎の医者が、伯爵令嬢と何の関係があるんだい」

「この女は俺の助手だ」

「助手?」

「ああ。猫の世話を手伝ってもらっている。用がないなら帰れ。診療の邪魔だ」

アルベルトの顔が強張った。

王太子に向かって「帰れ」と言う人間など、おそらく生まれて初めて見たのだろう。

「君、自分が誰に口を利いているか分かっているのかい」

「知らないな。偉そうな服を着た男としか見えない」

ノアは平然と言った。

「ノアさん」

セレスティアが小声で制したが、ノアは構わず続けた。

「セレスティアは忙しい。くだらない話なら、手紙で済ませろ」

アルベルトの目が危険に光った。

「田舎者が……」

「殿下」

セレスティアが間に入った。

「ノアさんは、この村でとても頼りにされている方です。どうか、ご無礼をお許しください」

アルベルトは不快そうに鼻を鳴らした。

「まあいい。今日のところは」

そしてセレスティアを見た。

「僕の言葉、よく考えておくといい。父上の意向に逆らえば、君だけでなく、ヴァイスベルク家にも影響が及ぶかもしれないよ」

それは、脅しだった。

「失礼する」

アルベルトは馬車に乗り込み、去っていった。

土煙を上げて遠ざかる馬車を、二人は黙って見送った。


アルベルトが去った後、セレスティアはその場に座り込んだ。

膝が震えている。

「大丈夫か」

ノアが隣にしゃがんだ。

「すみません……少し、驚いて……」

「あいつが、元の婚約者か」

「はい……」

「ろくでもない男だな」

ノアの言葉に、セレスティアは思わず笑った。

「そうですね。でも、王太子殿下ですから」

「王太子だろうが何だろうが、ろくでもないものはろくでもない」

「ノアさん、怖いもの知らずですね」

「別に。ただ、気に入らなかっただけだ」

ノアは立ち上がった。

「家に来い。茶を淹れる」


ノアの家で、セレスティアは温かいお茶を飲みながら落ち着きを取り戻した。

「あいつ、何をしに来たんだ」

「分かりません。でも、国王陛下が縁談を進めようとしていること、それに逆らえば家に影響があること……脅しに来たんだと思います」

「脅し?」

「私が田舎で勝手に暮らしていることが、気に入らないんでしょう。王家の面子に関わるから」

セレスティアは苦笑した。

「婚約破棄された令嬢が、落ち込むこともなく田舎で楽しく暮らしている。それは王太子殿下にとって、都合が悪いのかもしれません」

「くだらないな」

「そうですね」

「で、お前はどうする」

ノアがまっすぐにセレスティアを見た。

「あいつの言う通りにするのか」

「……」

セレスティアは黙った。

怖い。正直に言えば、怖かった。

王家の意向に逆らえば、家族に迷惑がかかる。父の体調は悪いし、母は社交界での立場を気にしている。自分一人のわがままで、家族を巻き込んでいいのだろうか。

「ノアさん」

「何だ」

「私、どうすればいいか分かりません」

声が震えた。

「ここにいたい気持ちはあります。でも、家族のことを考えると……」

「セレスティア」

ノアが言った。

「俺は、お前に指図する気はない。お前の人生だ。お前が決めろ」

「……」

「ただ」

ノアは窓の外を見た。

「お前がいなくなったら、猫たちは寂しがる」

「猫たちが……」

「イチ、ニ、サンは、お前を母親だと思っている。お前の屋敷の五匹も、お前に懐いている」

ノアは振り返らなかった。

「俺も……少しは、寂しいかもしれない」

セレスティアの心臓が跳ねた。

「ノアさん……」

「何でもない。忘れろ」

「忘れられません」

セレスティアは立ち上がった。

「ノアさん、私——」

「言うな」

ノアが遮った。

「今は、何も言うな。お前は混乱している。こういう時に決断すると、後悔する」

「でも」

「王都に行って、親御さんに会って、ゆっくり考えろ。答えは、それからでいい」

ノアの声は、優しかった。

不器用だけど、セレスティアのことを思ってくれているのが分かった。

「……分かりました」

セレスティアは頷いた。

「王都に行って、ちゃんと考えます。そして——必ず答えを持って帰ってきます」

「ああ」

ノアは短く答えた。

「待っている」

その言葉が、胸に深く刻まれた。
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