婚約破棄されたので田舎で猫と暮らします

たくわん

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アルベルトの訪問から二日後、セレスティアは王都へ向かう準備を整えていた。

最低限の荷物をまとめ、猫たちの世話の引き継ぎをノアに頼む。マーサにも挨拶をして、村人たちに見送られながら馬車に乗り込んだ。

「必ず戻ってきなよ」

マーサが手を振った。

「はい。必ず」

馬車が動き出す。窓から見える村の景色が、少しずつ遠ざかっていく。

ノアは見送りに来なかった。

「診療がある」と言っていた。たぶん、それは嘘ではない。でも、本当の理由は別にあるような気もした。

別れ際、ノアは一言だけ言った。

「猫たちは任せろ」

それだけ。

でも、その言葉が何より心強かった。


馬車に揺られて二日、王都に到着した。

久しぶりに見る王都の街並みは、以前と変わらず壮麗だった。石畳の道、立ち並ぶ高い建物、行き交う馬車と人々。

でも、セレスティアの目には、どこか空虚に映った。

あの村の素朴な風景が、なぜか懐かしい。


ヴァイスベルク伯爵邸に着くと、使用人たちが出迎えた。

「お嬢様、お帰りなさいませ」

「ただいま」

以前は当たり前だった光景が、今は少し居心地悪く感じる。

応接間に通されると、母イレーネが待っていた。

「セレスティア」

母の声は冷たかった。

「随分と遅いお戻りね」

「申し訳ありません、お母様。手紙に書いた通り——」

「手紙のことは読みました。『もう少し時間をください』ですって? 一体何を考えているの」

母は扇子で顔を扇ぎながら続けた。

「あなたが田舎で何をしているか、もう知っていますよ。猫の世話? 村の医者の手伝い? 伯爵令嬢のすることではないわ」

セレスティアは黙っていた。

「クレメンス侯爵家からは、もう正式な申し入れが来ています。来週には顔合わせの予定よ」

「お母様、私はまだ——」

「まだ何? 考える時間が欲しい? もう十分考えたでしょう」

母の目が厳しくなった。

「いい加減にしなさい、セレスティア。あなたは伯爵家の娘なの。家のために尽くすのが義務よ」


父の部屋を訪ねると、父は寝台に横たわっていた。

顔色は悪く、以前より痩せたように見える。

「お父様……」

「ああ、セレスティア。戻ってきたか」

父の声は弱々しかった。

「お体の具合は……」

「大したことはない。医者は過労だと言っている。少し休めば治る」

嘘だ、とセレスティアは思った。

父の目の下には深い隈があり、肌は土気色だ。単なる過労には見えない。

「お父様、本当のことを教えてください」

「……」

父は長い息をついた。

「心臓が弱っているそうだ。医者は、あまり無理をするなと」

「心臓……」

「お前のことを心配して、あちこち駆け回ったからな。社交界の連中を黙らせるのに、苦労した」

胸が痛んだ。

父は、娘のために奔走してくれていた。その結果、体を壊してしまった。

「すみません、お父様……私のせいで……」

「お前のせいじゃない」

父は首を横に振った。

「王太子殿下が悪いんだ。あんな形で婚約を解消するなど、非礼にも程がある」

「……」

「だが、起きてしまったことは仕方がない。問題は、これからどうするかだ」

父がセレスティアを見た。

「クレメンス侯爵家の縁談、受ける気はあるか」

「それは……」

「正直に言ってくれ。お前の気持ちを聞きたい」

父の目は、母とは違って温かかった。

セレスティアは迷った。

正直に言えば、受ける気はない。あの村で、猫たちと、ノアの側で生きていきたい。

でも、それを言えば父を失望させる。体調を崩している父に、さらに心労をかけることになる。

「お父様……」

「言ってみろ」

「私は……」

言葉が詰まった。

その時、扉を叩く音がした。

「旦那様、お客様がお見えです」

使用人の声だった。

「客? 誰だ」

「クレメンス侯爵家の、ルートヴィヒ様です」


応接間で待っていたのは、三十歳前後の男性だった。

茶色の髪に、温和そうな顔つき。着ている服は上質だが、派手さはない。

「初めまして、セレスティア嬢。ルートヴィヒ・フォン・クレメンスです」

「初めまして……」

セレスティアは礼を取った。

これが、縁談の相手。クレメンス侯爵家の次男。

「急な訪問で申し訳ありません。ただ、正式な顔合わせの前に、一度お会いしておきたくて」

「そうでしたか……」

ルートヴィヒは穏やかに微笑んだ。

「お噂はかねがね伺っています。聡明で、美しく、礼儀正しいと」

「恐れ入ります」

「しかし、今日お会いして——噂とは少し違う印象を受けました」

「え?」

「失礼ながら、あなたの目には迷いがあるように見えます。この縁談を、心から望んでいらっしゃらないのでは?」

セレスティアは息を飲んだ。

見抜かれている。

「私は……」

「正直におっしゃってください。私は、無理強いをするつもりはありません」

ルートヴィヒの声は誠実だった。

「私は外交官として、様々な国で働いてきました。人の心を読むのは、職業柄、得意なのです」

「……」

「あなたには、大切な人がいるのでしょう? この縁談を受けられない理由が」

セレスティアの心臓が跳ねた。

「どうして、そう思われるのですか」

「先ほど、窓の外を見ていらっしゃいました。まるで、遠くにいる誰かを思い出すように」

セレスティアは黙った。

図星だった。

「お答えいただかなくても結構です。ただ、私からひとつ申し上げたい」

ルートヴィヒは真剣な目でセレスティアを見た。

「私は、心のない結婚はしたくありません。政略結婚であっても、互いに敬意を持てる相手でなければ意味がない」

「……」

「もしあなたに、心に決めた方がいるのなら——私は、この縁談を辞退するつもりです」

「そんな……ルートヴィヒ様が辞退されたら、私の家は……」

「ご心配なく。辞退の理由は、私の方の都合ということにします。あなたの名誉は傷つけません」

セレスティアは驚いた。

こんな誠実な人がいるとは思わなかった。

「なぜ、そこまで……」

「私にも、かつて想い人がいました。身分の差で、結ばれることはできませんでしたが」

ルートヴィヒの目が、少し寂しげになった。

「だから分かるのです。心に誰かがいる時の、あの目を」


ルートヴィヒが去った後、セレスティアは庭に出た。

夕暮れの光が、整えられた庭園を照らしている。

ルートヴィヒの言葉が、頭の中で繰り返された。

「あなたには、大切な人がいるのでしょう?」

大切な人。

ノアの顔が浮かんだ。

無愛想で、不器用で、人間嫌い。でも、誰よりも優しくて、正直で、まっすぐな人。

あの人のそばにいたい。

それは、もう誤魔化せない気持ちだった。


夜、セレスティアは自室で考えた。

ルートヴィヒは、縁談を辞退してくれると言った。彼のおかげで、強制的に結婚させられることはなくなるかもしれない。

でも、それで全てが解決するわけではない。

王家の意向に逆らえば、家族に迷惑がかかる。父の体調は悪いし、母は社交界での立場を失うことを恐れている。

自分一人のために、家族を犠牲にしていいのだろうか。

窓の外を見た。

王都の夜空には、星がほとんど見えない。あの村では、無数の星が輝いていたのに。

「ノアさん……」

呟いた名前は、誰にも届かない。

答えは、まだ見つからなかった。

でも、ひとつだけ分かったことがある。

私には、守りたいものがある。

猫たち。村の人々。そして——ノア。

その気持ちだけは、本物だ。

明日、父と話をしよう。

全てを正直に打ち明けて、自分の気持ちを伝えよう。

怖いけれど、逃げるわけにはいかない。

セレスティアは目を閉じ、明日への決意を固めた。
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