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王都に来て五日目の朝、セレスティアは意を決して父の部屋を訪ねた。
「お父様、お話があります」
父は寝台に身を起こし、セレスティアを見た。
「何だ。改まって」
「私の気持ちを、正直にお話しさせてください」
セレスティアは深呼吸をした。
ここで全てを話さなければ、一生後悔する。そう思った。
「私は……あの村に残りたいのです」
「村に?」
「はい。クレメンス侯爵家との縁談は、お断りしたいと思っています」
父の表情が曇った。
「理由を聞かせてくれ」
「あの村で暮らすうちに、私は変わりました。以前の私は、誰かの期待に応えるためだけに生きていました。でも今は——自分の足で立てるようになりました」
「……」
「猫たちの世話をして、村の人たちと交流して、医師の手伝いをして。そういう生活が、私には合っているのです」
「医師の手伝い?」
父の目が鋭くなった。
「その医師というのは、男か」
セレスティアは頷いた。
「ノアという方です。腕のいい医師で、村の人たちに頼りにされています」
「その男と、どういう関係だ」
「私は……」
言葉が詰まった。
どういう関係なのか。まだ、何も始まっていない。告白もしていなければ、告白されてもいない。
「恋仲、というわけではありません。でも——」
「でも?」
「あの方のそばにいたいと、思っています」
父は長い沈黙の後、大きく息をついた。
「セレスティア。お前の気持ちは分かった」
「お父様……」
「だが、簡単に認めるわけにはいかない」
父の声は重かった。
「ヴァイスベルク家は、王家と深い繋がりがある。王太子殿下との婚約が解消されただけでも、我が家の立場は危うくなっている。ここでさらに王家の意向に逆らえば——」
「分かっています。でも——」
「待て。まだ話は終わっていない」
父は手を上げてセレスティアを制した。
「私は、お前に犠牲を強いるつもりはない。お前の母と結婚した時、周囲は反対した。身分の差があったからだ。でも、私は自分の心に従った」
「お父様……」
「だから、お前が本当に望むなら——止めはしない」
セレスティアの目から涙が溢れた。
「ただし、条件がある」
「条件?」
「その医師に会わせろ。私の目で見て、お前を任せられる男かどうか確かめたい」
「はい……はい、もちろんです」
「それと、お前の母を説得するのは、お前自身だ。私が口添えはするが、最終的にはお前が話し合え」
「分かりました」
セレスティアは涙を拭いた。
父が、味方になってくれた。それだけで、どれほど心強いか。
「ありがとうございます、お父様」
「礼を言うのは早い。まだ何も決まっていない」
父は微かに笑った。
「しかし……お前、変わったな」
「変わりましたか?」
「ああ。以前は、何を考えているか分からない子だった。いつも完璧な仮面を被っていて、本心を見せなかった」
「……」
「でも今は、自分の言葉で話している。それが嬉しい」
セレスティアは胸がいっぱいになった。
父は、見ていてくれた。
母との対話は、予想通り困難を極めた。
「田舎に残る? 冗談じゃないわ」
母は扇子を激しく振った。
「伯爵家の娘が、村の医者と一緒になるなど、聞いたこともない」
「お母様、私は——」
「あなたの気持ちなど知りません。大事なのは家の体面よ。あなたが変な噂を立てれば、弟や妹にまで影響が及ぶのよ」
弟と妹。
セレスティアには、十五歳の弟と十二歳の妹がいる。二人の将来のためにも、姉である自分がしっかりしなければ——そう思わされてきた。
「お母様、私は自分勝手なことを言っているのは分かっています。でも——」
「分かっていないわ。あなたは何も分かっていない」
母の目は冷たかった。
「王太子殿下に捨てられて、あなたは傷ついた。それは分かる。でも、だからといって田舎に逃げ出すなんて、子供じみているわ」
「逃げ出したわけでは——」
「じゃあ何なの? あなたにとって、あの村は何なの?」
セレスティアは言葉を探した。
「あの村は……私が初めて、自分らしくいられた場所です」
「自分らしく?」
「はい。完璧な令嬢を演じなくても、誰にも責められない。失敗しても、笑われない。ありのままの私を受け入れてくれる人たちがいる」
母は黙った。
「お母様、私は二十三年間、お母様の期待に応えようとしてきました。でも、どれだけ頑張っても、『足りない』と言われ続けました」
「それは——」
「王太子殿下にも、同じことを言われました。『もっと控えめで優しい女性がいい』と。私が努力してきたことは、全て無駄だったんです」
母の顔が強張った。
「あの村で、私は初めて——努力しなくても認めてもらえることを知りました。私という人間を、見てくれる人がいることを知りました」
「……」
「それが、ノアさんです。あの方は、私に何も求めません。完璧でなくても、失敗しても、側にいてくれる。そういう人に、初めて出会いました」
母は長い間、黙っていた。
やがて、疲れたように息をついた。
「……あなたの父も、昔そうだったわ」
「え?」
「私の実家は、男爵家よ。伯爵家に嫁ぐには、身分が足りなかった。周囲は反対したわ」
セレスティアは驚いた。
母が、自分から過去を語ることは珍しかった。
「でも、あなたの父は——私に何も求めなかった。身分も、財産も、繋がりも。ただ、私と一緒にいたいと言ってくれた」
「お母様……」
「だから私は、この家に嫁いだ。そして、必死で伯爵夫人にふさわしい女性になろうとした。あなたにも、それを求めた」
母の目が、少しだけ柔らかくなった。
「間違っていたのかもしれないわね。あなたに、私と同じことを強いて」
「お母様……」
「でも、すぐには認められない」
母は首を横に振った。
「考える時間をちょうだい。あなたの気持ちは分かった。でも、私にも覚悟が必要よ」
その夜、セレスティアは屋敷の庭を歩いた。
整えられた庭園は、美しいけれど無機質だった。あの村の、自然のままの庭が恋しい。
「猫たち、元気かな……」
呟いた時、背後から声がした。
「お姉様」
振り返ると、妹のエミリアが立っていた。
十二歳の少女は、セレスティアによく似た金髪を三つ編みにしている。
「エミリア。こんな夜更けに」
「お姉様にお話があって」
エミリアは姉の隣に並んだ。
「お母様と喧嘩したんですか」
「喧嘩……というほどではないけど」
「お姉様が田舎に残りたいって言ったんでしょう? 使用人が噂してました」
セレスティアはため息をついた。
「聞いてしまったのね」
「はい。でも、私——お姉様を応援します」
「え?」
「お姉様、最近の手紙、すごく楽しそうでした。猫のこととか、村のこととか。読んでて、私まで嬉しくなりました」
エミリアは姉を見上げた。
「王都にいた頃のお姉様は、いつも疲れた顔をしてました。でも、手紙の中のお姉様は——生き生きしてた」
「エミリア……」
「だから、お姉様が幸せになれるなら、田舎に行ってもいいと思います。私、寂しいけど……我慢します」
セレスティアは妹を抱きしめた。
「ありがとう、エミリア」
「お兄様も、きっと同じこと言いますよ。お姉様のこと、心配してましたから」
家族が、味方になってくれている。
父も、妹も。
きっと、弟も。
母だって、時間が経てば——。
「私、頑張るね」
セレスティアは妹の頭を撫でた。
「必ず、皆が納得できる形にするから」
「はい。信じてます」
月明かりの下、姉妹は寄り添って立っていた。
「お父様、お話があります」
父は寝台に身を起こし、セレスティアを見た。
「何だ。改まって」
「私の気持ちを、正直にお話しさせてください」
セレスティアは深呼吸をした。
ここで全てを話さなければ、一生後悔する。そう思った。
「私は……あの村に残りたいのです」
「村に?」
「はい。クレメンス侯爵家との縁談は、お断りしたいと思っています」
父の表情が曇った。
「理由を聞かせてくれ」
「あの村で暮らすうちに、私は変わりました。以前の私は、誰かの期待に応えるためだけに生きていました。でも今は——自分の足で立てるようになりました」
「……」
「猫たちの世話をして、村の人たちと交流して、医師の手伝いをして。そういう生活が、私には合っているのです」
「医師の手伝い?」
父の目が鋭くなった。
「その医師というのは、男か」
セレスティアは頷いた。
「ノアという方です。腕のいい医師で、村の人たちに頼りにされています」
「その男と、どういう関係だ」
「私は……」
言葉が詰まった。
どういう関係なのか。まだ、何も始まっていない。告白もしていなければ、告白されてもいない。
「恋仲、というわけではありません。でも——」
「でも?」
「あの方のそばにいたいと、思っています」
父は長い沈黙の後、大きく息をついた。
「セレスティア。お前の気持ちは分かった」
「お父様……」
「だが、簡単に認めるわけにはいかない」
父の声は重かった。
「ヴァイスベルク家は、王家と深い繋がりがある。王太子殿下との婚約が解消されただけでも、我が家の立場は危うくなっている。ここでさらに王家の意向に逆らえば——」
「分かっています。でも——」
「待て。まだ話は終わっていない」
父は手を上げてセレスティアを制した。
「私は、お前に犠牲を強いるつもりはない。お前の母と結婚した時、周囲は反対した。身分の差があったからだ。でも、私は自分の心に従った」
「お父様……」
「だから、お前が本当に望むなら——止めはしない」
セレスティアの目から涙が溢れた。
「ただし、条件がある」
「条件?」
「その医師に会わせろ。私の目で見て、お前を任せられる男かどうか確かめたい」
「はい……はい、もちろんです」
「それと、お前の母を説得するのは、お前自身だ。私が口添えはするが、最終的にはお前が話し合え」
「分かりました」
セレスティアは涙を拭いた。
父が、味方になってくれた。それだけで、どれほど心強いか。
「ありがとうございます、お父様」
「礼を言うのは早い。まだ何も決まっていない」
父は微かに笑った。
「しかし……お前、変わったな」
「変わりましたか?」
「ああ。以前は、何を考えているか分からない子だった。いつも完璧な仮面を被っていて、本心を見せなかった」
「……」
「でも今は、自分の言葉で話している。それが嬉しい」
セレスティアは胸がいっぱいになった。
父は、見ていてくれた。
母との対話は、予想通り困難を極めた。
「田舎に残る? 冗談じゃないわ」
母は扇子を激しく振った。
「伯爵家の娘が、村の医者と一緒になるなど、聞いたこともない」
「お母様、私は——」
「あなたの気持ちなど知りません。大事なのは家の体面よ。あなたが変な噂を立てれば、弟や妹にまで影響が及ぶのよ」
弟と妹。
セレスティアには、十五歳の弟と十二歳の妹がいる。二人の将来のためにも、姉である自分がしっかりしなければ——そう思わされてきた。
「お母様、私は自分勝手なことを言っているのは分かっています。でも——」
「分かっていないわ。あなたは何も分かっていない」
母の目は冷たかった。
「王太子殿下に捨てられて、あなたは傷ついた。それは分かる。でも、だからといって田舎に逃げ出すなんて、子供じみているわ」
「逃げ出したわけでは——」
「じゃあ何なの? あなたにとって、あの村は何なの?」
セレスティアは言葉を探した。
「あの村は……私が初めて、自分らしくいられた場所です」
「自分らしく?」
「はい。完璧な令嬢を演じなくても、誰にも責められない。失敗しても、笑われない。ありのままの私を受け入れてくれる人たちがいる」
母は黙った。
「お母様、私は二十三年間、お母様の期待に応えようとしてきました。でも、どれだけ頑張っても、『足りない』と言われ続けました」
「それは——」
「王太子殿下にも、同じことを言われました。『もっと控えめで優しい女性がいい』と。私が努力してきたことは、全て無駄だったんです」
母の顔が強張った。
「あの村で、私は初めて——努力しなくても認めてもらえることを知りました。私という人間を、見てくれる人がいることを知りました」
「……」
「それが、ノアさんです。あの方は、私に何も求めません。完璧でなくても、失敗しても、側にいてくれる。そういう人に、初めて出会いました」
母は長い間、黙っていた。
やがて、疲れたように息をついた。
「……あなたの父も、昔そうだったわ」
「え?」
「私の実家は、男爵家よ。伯爵家に嫁ぐには、身分が足りなかった。周囲は反対したわ」
セレスティアは驚いた。
母が、自分から過去を語ることは珍しかった。
「でも、あなたの父は——私に何も求めなかった。身分も、財産も、繋がりも。ただ、私と一緒にいたいと言ってくれた」
「お母様……」
「だから私は、この家に嫁いだ。そして、必死で伯爵夫人にふさわしい女性になろうとした。あなたにも、それを求めた」
母の目が、少しだけ柔らかくなった。
「間違っていたのかもしれないわね。あなたに、私と同じことを強いて」
「お母様……」
「でも、すぐには認められない」
母は首を横に振った。
「考える時間をちょうだい。あなたの気持ちは分かった。でも、私にも覚悟が必要よ」
その夜、セレスティアは屋敷の庭を歩いた。
整えられた庭園は、美しいけれど無機質だった。あの村の、自然のままの庭が恋しい。
「猫たち、元気かな……」
呟いた時、背後から声がした。
「お姉様」
振り返ると、妹のエミリアが立っていた。
十二歳の少女は、セレスティアによく似た金髪を三つ編みにしている。
「エミリア。こんな夜更けに」
「お姉様にお話があって」
エミリアは姉の隣に並んだ。
「お母様と喧嘩したんですか」
「喧嘩……というほどではないけど」
「お姉様が田舎に残りたいって言ったんでしょう? 使用人が噂してました」
セレスティアはため息をついた。
「聞いてしまったのね」
「はい。でも、私——お姉様を応援します」
「え?」
「お姉様、最近の手紙、すごく楽しそうでした。猫のこととか、村のこととか。読んでて、私まで嬉しくなりました」
エミリアは姉を見上げた。
「王都にいた頃のお姉様は、いつも疲れた顔をしてました。でも、手紙の中のお姉様は——生き生きしてた」
「エミリア……」
「だから、お姉様が幸せになれるなら、田舎に行ってもいいと思います。私、寂しいけど……我慢します」
セレスティアは妹を抱きしめた。
「ありがとう、エミリア」
「お兄様も、きっと同じこと言いますよ。お姉様のこと、心配してましたから」
家族が、味方になってくれている。
父も、妹も。
きっと、弟も。
母だって、時間が経てば——。
「私、頑張るね」
セレスティアは妹の頭を撫でた。
「必ず、皆が納得できる形にするから」
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