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王都に来て十日目。
セレスティアは、自室で日記を書いていた。
村に来てから始めた習慣だ。毎日の出来事を、飾らない言葉で綴る。誰に見せるわけでもない、自分だけの記録。
『今日、母と二度目の話し合いをした。まだ完全には認めてもらえないが、以前より態度が軟化した気がする。父が口添えしてくれたのだろう。
弟のフリードリヒとも話した。彼は「姉上が幸せなら、僕は構わない」と言ってくれた。十五歳の弟に、そんなことを言わせてしまう自分が情けない。
でも、家族が少しずつ理解を示してくれているのは、本当にありがたい。
ノアさんは、元気だろうか。猫たちは、私がいなくて寂しがっていないだろうか。
早く帰りたい。あの村に。あの人のそばに』
ペンを置き、窓の外を見た。
王都の空は曇っている。雨が降りそうだ。
午後、予期せぬ訪問者があった。
応接間に通されたセレスティアを待っていたのは、かつての友人——いや、友人だと思っていた令嬢たちだった。
「セレスティア、久しぶりね」
クリスティーナ・フォン・ベルクマン。子爵家の令嬢で、かつては社交界でよく一緒にいた。
「あら、本当に田舎から戻ってきたのね」
ゾフィー・フォン・ホフマン。男爵家の令嬢で、噂話が大好きな女性。
「クリスティーナ、ゾフィー……久しぶりね」
「王太子殿下が、あなたの様子を見に行ったって聞いたわ。田舎で猫と暮らしているんですって?」
ゾフィーが意地悪く笑った。
「信じられないわ。あの完璧なセレスティアが、泥まみれで猫の世話をしているなんて」
「泥まみれではないけど……」
「それに、村の医者と親しくしているとか? 身を落としたものね」
セレスティアは以前なら、こういう言葉に傷ついていただろう。
でも今は、違う。
「そうね。確かに、以前の私とは変わったわ」
「認めるの?」
「ええ。でも、私は今の生活を気に入っているの。猫たちは可愛いし、村の人たちは温かいし。王都にいた頃より、ずっと幸せよ」
クリスティーナとゾフィーは、面食らった顔をした。
「幸せ? あんな田舎で?」
「ええ。あなたたちには理解できないかもしれないけど」
セレスティアは穏やかに微笑んだ。
「私、ずっと間違っていたの。社交界での評判や、周りの目ばかり気にして。本当に大切なことが、何も見えていなかった」
「何を言っているの……」
「今の私には、大切なものがあるの。守りたいものがある。それが分かっただけで、あの村に行った価値があったわ」
ゾフィーが鼻で笑った。
「守りたいもの? 猫のこと? それとも、あの医者のこと?」
「両方よ」
セレスティアは堂々と答えた。
「猫たちも、ノアさんも、村の人たちも——みんな、私の大切な存在よ」
二人の令嬢は、言葉を失った。
以前のセレスティアなら、こんなことは言わなかっただろう。社交界での体面を気にして、適当に話を合わせていたはずだ。
でも今は、隠す必要がない。
自分の気持ちを、堂々と言える。
それが、この数ヶ月で得た——本当の自分だった。
令嬢たちが帰った後、セレスティアは自室に戻って日記の続きを書いた。
『今日、クリスティーナとゾフィーが来た。昔は友人だと思っていたけど、今思えば、ただの社交界の付き合いだったのだと分かる。
彼女たちは私を嘲笑いに来たのだろう。「落ちぶれた」私を見て、優越感に浸りたかったのかもしれない。
でも、不思議と傷つかなかった。
私はもう、彼女たちの評価を気にする必要がない。社交界での立場も、噂も、どうでもいい。
本当に大切なのは、自分の心に正直に生きること。それだけだ。
ノアさんが教えてくれたこと——「お前の人生を、親のせいにするな」「自分で決めろ」——が、今になってようやく分かってきた気がする。
私は、自分の人生を生きる。
誰かの期待のためではなく、自分自身のために』
夜、母から呼び出しがあった。
応接間に行くと、母が一人で座っていた。
「座りなさい」
促されるままに座ると、母は長い間、セレスティアを見つめていた。
「今日、ベルクマン家とホフマン家の令嬢が来たそうね」
「はい」
「彼女たち、あなたを馬鹿にしに来たのでしょう?」
「……そうかもしれません」
「でも、使用人に聞いたわ。あなたは堂々としていたと。彼女たちを言い負かしたと」
セレスティアは少し驚いた。
「言い負かしたというほどでは……」
「謙遜しなくていい」
母の声には、不思議な響きがあった。
「あなた、本当に変わったのね」
「……」
「以前のあなたなら、あんな風には言えなかったでしょう。彼女たちの前で、自分の気持ちを堂々と話すなんて」
「お母様……」
「正直に言うわ。私は、あなたのことを理解できていなかった」
母の目が、初めて見る柔らかさを帯びていた。
「あなたを、自分の理想通りに育てようとした。完璧な令嬢に、完璧な王太子妃に。でもそれは——私の自己満足だったのかもしれない」
「お母様、そんな……」
「あなたの父が言ったの。『セレスティアは、初めて自分の言葉で話している。それを認めてやれ』と」
母は小さくため息をついた。
「悔しいけど、その通りだと思ったわ。あなたは今、自分の足で立っている。それは——私が教えられなかったことよ」
セレスティアの目から、涙が溢れた。
「お母様……」
「だから」
母が立ち上がった。
「あなたの選択を、認めます」
「本当ですか……」
「ただし、条件があるわ」
母の目が、いつもの厳しさを取り戻した。
「その医師を、私にも会わせなさい。あなたの父だけでなく、私の目でも確かめる」
「はい、もちろんです」
「それと、定期的に連絡を寄越しなさい。手紙でいいから。あなたが元気にしているか、知りたいの」
「はい……はい、お約束します」
セレスティアは立ち上がり、母を抱きしめた。
「ありがとうございます、お母様」
母は一瞬、固まったが——やがて、ぎこちなく娘の背中に手を回した。
「あなたが幸せなら……それでいいわ」
その夜、セレスティアは眠れなかった。
嬉しさと、安堵と、そして——早く帰りたいという気持ちで、胸がいっぱいだった。
父も、母も、認めてくれた。
もう、何も怖くない。
明日、帰ろう。
あの村に。猫たちのもとに。
そして——ノアのもとに。
伝えたいことがある。
この数ヶ月で、ようやく分かったこと。
自分が何者で、何を望んでいて、誰を大切に思っているか。
全部、伝えよう。
セレスティアは窓を開けた。
王都の夜空には、今夜は少しだけ星が見えた。
あの村の星空を思い出す。満天の星。ノアと一緒に見た、あの夜。
「待っていてね、ノアさん」
呟いた言葉は、夜風に乗って消えていった。
明日から、新しい人生が始まる。
本当の自分として生きる、新しい人生が。
セレスティアは、自室で日記を書いていた。
村に来てから始めた習慣だ。毎日の出来事を、飾らない言葉で綴る。誰に見せるわけでもない、自分だけの記録。
『今日、母と二度目の話し合いをした。まだ完全には認めてもらえないが、以前より態度が軟化した気がする。父が口添えしてくれたのだろう。
弟のフリードリヒとも話した。彼は「姉上が幸せなら、僕は構わない」と言ってくれた。十五歳の弟に、そんなことを言わせてしまう自分が情けない。
でも、家族が少しずつ理解を示してくれているのは、本当にありがたい。
ノアさんは、元気だろうか。猫たちは、私がいなくて寂しがっていないだろうか。
早く帰りたい。あの村に。あの人のそばに』
ペンを置き、窓の外を見た。
王都の空は曇っている。雨が降りそうだ。
午後、予期せぬ訪問者があった。
応接間に通されたセレスティアを待っていたのは、かつての友人——いや、友人だと思っていた令嬢たちだった。
「セレスティア、久しぶりね」
クリスティーナ・フォン・ベルクマン。子爵家の令嬢で、かつては社交界でよく一緒にいた。
「あら、本当に田舎から戻ってきたのね」
ゾフィー・フォン・ホフマン。男爵家の令嬢で、噂話が大好きな女性。
「クリスティーナ、ゾフィー……久しぶりね」
「王太子殿下が、あなたの様子を見に行ったって聞いたわ。田舎で猫と暮らしているんですって?」
ゾフィーが意地悪く笑った。
「信じられないわ。あの完璧なセレスティアが、泥まみれで猫の世話をしているなんて」
「泥まみれではないけど……」
「それに、村の医者と親しくしているとか? 身を落としたものね」
セレスティアは以前なら、こういう言葉に傷ついていただろう。
でも今は、違う。
「そうね。確かに、以前の私とは変わったわ」
「認めるの?」
「ええ。でも、私は今の生活を気に入っているの。猫たちは可愛いし、村の人たちは温かいし。王都にいた頃より、ずっと幸せよ」
クリスティーナとゾフィーは、面食らった顔をした。
「幸せ? あんな田舎で?」
「ええ。あなたたちには理解できないかもしれないけど」
セレスティアは穏やかに微笑んだ。
「私、ずっと間違っていたの。社交界での評判や、周りの目ばかり気にして。本当に大切なことが、何も見えていなかった」
「何を言っているの……」
「今の私には、大切なものがあるの。守りたいものがある。それが分かっただけで、あの村に行った価値があったわ」
ゾフィーが鼻で笑った。
「守りたいもの? 猫のこと? それとも、あの医者のこと?」
「両方よ」
セレスティアは堂々と答えた。
「猫たちも、ノアさんも、村の人たちも——みんな、私の大切な存在よ」
二人の令嬢は、言葉を失った。
以前のセレスティアなら、こんなことは言わなかっただろう。社交界での体面を気にして、適当に話を合わせていたはずだ。
でも今は、隠す必要がない。
自分の気持ちを、堂々と言える。
それが、この数ヶ月で得た——本当の自分だった。
令嬢たちが帰った後、セレスティアは自室に戻って日記の続きを書いた。
『今日、クリスティーナとゾフィーが来た。昔は友人だと思っていたけど、今思えば、ただの社交界の付き合いだったのだと分かる。
彼女たちは私を嘲笑いに来たのだろう。「落ちぶれた」私を見て、優越感に浸りたかったのかもしれない。
でも、不思議と傷つかなかった。
私はもう、彼女たちの評価を気にする必要がない。社交界での立場も、噂も、どうでもいい。
本当に大切なのは、自分の心に正直に生きること。それだけだ。
ノアさんが教えてくれたこと——「お前の人生を、親のせいにするな」「自分で決めろ」——が、今になってようやく分かってきた気がする。
私は、自分の人生を生きる。
誰かの期待のためではなく、自分自身のために』
夜、母から呼び出しがあった。
応接間に行くと、母が一人で座っていた。
「座りなさい」
促されるままに座ると、母は長い間、セレスティアを見つめていた。
「今日、ベルクマン家とホフマン家の令嬢が来たそうね」
「はい」
「彼女たち、あなたを馬鹿にしに来たのでしょう?」
「……そうかもしれません」
「でも、使用人に聞いたわ。あなたは堂々としていたと。彼女たちを言い負かしたと」
セレスティアは少し驚いた。
「言い負かしたというほどでは……」
「謙遜しなくていい」
母の声には、不思議な響きがあった。
「あなた、本当に変わったのね」
「……」
「以前のあなたなら、あんな風には言えなかったでしょう。彼女たちの前で、自分の気持ちを堂々と話すなんて」
「お母様……」
「正直に言うわ。私は、あなたのことを理解できていなかった」
母の目が、初めて見る柔らかさを帯びていた。
「あなたを、自分の理想通りに育てようとした。完璧な令嬢に、完璧な王太子妃に。でもそれは——私の自己満足だったのかもしれない」
「お母様、そんな……」
「あなたの父が言ったの。『セレスティアは、初めて自分の言葉で話している。それを認めてやれ』と」
母は小さくため息をついた。
「悔しいけど、その通りだと思ったわ。あなたは今、自分の足で立っている。それは——私が教えられなかったことよ」
セレスティアの目から、涙が溢れた。
「お母様……」
「だから」
母が立ち上がった。
「あなたの選択を、認めます」
「本当ですか……」
「ただし、条件があるわ」
母の目が、いつもの厳しさを取り戻した。
「その医師を、私にも会わせなさい。あなたの父だけでなく、私の目でも確かめる」
「はい、もちろんです」
「それと、定期的に連絡を寄越しなさい。手紙でいいから。あなたが元気にしているか、知りたいの」
「はい……はい、お約束します」
セレスティアは立ち上がり、母を抱きしめた。
「ありがとうございます、お母様」
母は一瞬、固まったが——やがて、ぎこちなく娘の背中に手を回した。
「あなたが幸せなら……それでいいわ」
その夜、セレスティアは眠れなかった。
嬉しさと、安堵と、そして——早く帰りたいという気持ちで、胸がいっぱいだった。
父も、母も、認めてくれた。
もう、何も怖くない。
明日、帰ろう。
あの村に。猫たちのもとに。
そして——ノアのもとに。
伝えたいことがある。
この数ヶ月で、ようやく分かったこと。
自分が何者で、何を望んでいて、誰を大切に思っているか。
全部、伝えよう。
セレスティアは窓を開けた。
王都の夜空には、今夜は少しだけ星が見えた。
あの村の星空を思い出す。満天の星。ノアと一緒に見た、あの夜。
「待っていてね、ノアさん」
呟いた言葉は、夜風に乗って消えていった。
明日から、新しい人生が始まる。
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