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顔だけじゃない
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誕生日にホテルの部屋を押さえたことは弦には内緒にしたまま、めぐはその日を待ちわびていた。
とにかくランタンフェスティバルが楽しみで仕方ない。
デスクで資料を広げながら、隣の席の弦に話しかけた。
「ね、氷室くん。ランタンは、パークの運河をクルージングしながら終着点のキャナルガーデンまで来て、船上でリリースでしょう?写真撮影するには、クルーズ船に乗せてもらった方がいいかな?」
「んー、そうだな。リリースの瞬間は真下から撮りたい。浮かび上がってからは、少し遠くから撮りたいな。ちょうどホテルが正面にあるから、長谷部さんにお願いしてホテルの中から撮らせてもらおうか」
途端にめぐは慌てふためく。
「そ、そうね。でもそれは、私から連絡しておくから大丈夫。氷室くんは気にしないでね。あ、じゃあ、クルーズ船の方に聞いてみてくれる?」
「ああ、いいけど。どうかしたか?」
「どうもしないよ、大丈夫。楽しみだね!」
取り繕うようににこっと笑ってから、めぐはパソコンに向き直った。
(えっと、もし誕生日までに氷室くんに好きな人が出来たら、撮影用に確保したってことでホテルの部屋から写真を撮ろう。もし出来てなければ、勤務後に部屋でケーキとシャンパンで乾杯、でいいかな?)
頭の中で当日の流れをシミュレーションする。
(あとは好きな人が出来たかどうかを、氷室くんに改めて確認しなきゃね)
そしてまた資料に目を落とした。
雨天や荒天、強風の場合はランタンフェスティバルは中止と書かれている。
(お天気いいといいな。あー、楽しみ!SNSでもたくさん告知して、一人でも多くのゲストに楽しんでもらおう)
めぐは気合いを入れると、宣伝用の記事を書き始めた。
◇
7月の半ばを過ぎたある日。
広報課の事務所に意外な人物が訪れる。
「失礼します。雪村さんはいらっしゃいますか?」
「長谷部さん!」
ジャケットを脱いだシャツとスラックス姿で、長谷部は事務所の入り口に立っていた。
めぐは席を立って歩み寄る。
「お疲れ様です、何かありましたか?」
「はい。ご協力いただいたドレスのカタログが出来上がったのでお渡しに。あと、こちらは広報課の皆さんへ。ホテルオリジナルのマドレーヌです」
「えっ、ありがとうございます!いただきます」
「それからランタンフェスティバル当日のお部屋ですが……」
「ああー、はい。えっと、あちらのミーティングルームでお話しさせてくださいね」
長谷部の言葉を遮って、めぐはそそくさと事務所を出る。
すぐ隣のミーティングルームに長谷部を案内し、二人で向かい合って座った。
「お忙しいところ、突然お邪魔してすみません。どうしても早く手渡したくて。とても綺麗な仕上がりなんですよ」
そう言って早速長谷部はめぐにドレスのカタログを差し出した。
A4サイズの上質なカラーのカタログは、表紙にめぐの純白のドレス姿が載っている。
「この写真が表紙なんですか?」
「ええ。デザイン会社にお任せしたのですが、恐らくこの写真が一番いいと判断されたんでしょう。私もそう思います」
「このウエディングドレス、とっても上品で素敵ですものね」
「確かにこのドレスはうちのコレクションの中でも最高級のものです。ですがその魅力を存分に伝えられたのは、雪村さんが着こなしてくれたからですよ」
「いえいえ、ヘアメイクさんとカメラマンさんのお力です。中も拝見していいですか?」
「もちろん、どうぞ」
めぐはそっとページをめくってみた。
3つのイメージに合わせて、プリンセス、ロイヤル、モードの順にドレスが紹介されている。
「わあ、可愛い!プリンセスラインのモデルさん、とってもキュートですね。ドレスもふんわりしていて本当にお姫様みたい。カラードレスもピンクやオレンジとか、優しい色合いですね」
自分が撮影したドレスしか知らなかっためぐは、他のドレスを見て目を輝かせた。
「スタイリッシュなモードラインも素敵。スレンダーとかマーメイドのドレスが多いですね。クールで大人っぽいです。カラードレスもワンショルダーとか、斬新ですね」
すると黙って聞いていた長谷部がふっと笑みをもらす。
「雪村さん、どうしてご自分のページを飛ばすんですか?」
「え、それは……。恥ずかしくて直視出来ないからです」
「そんな。こんなにお綺麗なのに?見てください」
そう言ってページをめくろうとする。
「わー!いえ、結構です。あの、あとで拝見しますので」
「そうですか?分かりました。ぜひ感想をお聞かせくださいね。それから8月10日のお部屋なんですが」
「あ、はい!押さえていただいて、本当にありがとうございました」
めぐは背筋を伸ばしてお礼を言う。
「いいえ、お役に立てて良かったです。ちょうどキャナルガーデンが正面に見えるツインルームを押さえました。もしダブルをご希望でしたら、今後もキャンセルをチェックして変更しますがいかがでしょう?」
「そのままで大丈夫です、ありがとうございます。それで支払いは私に請求が来るようにしていただきたいのですけど、可能でしょうか?」
「え、はい。それは大丈夫ですが……。雪村さんがチェックアウトの手続きをされないということですか?」
「ええ。私は泊まらずに帰って、もう一人の友人だけ泊まってもらおうと思っています。ただ場合によっては、その友人も泊まらないかもしれません」
長谷部は少し首をひねって考えあぐねている。
「かしこまりました。ちょっと理解が追いつかないのですが、とにかく請求は雪村さん宛にとフロントで共有しておきますね」
「お手数おかけして申し訳ありません」
「とんでもない。ご利用を心よりお待ちしております」
支配人の顔になり、うやうやしく頭を下げる長谷部に、めぐもふふっと笑ってお辞儀する。
「はい、楽しみにしております。どうぞよろしくお願いします」
「当日晴れて、綺麗なランタンフェスティバルが見られるといいですね」
「そうですよね。てるてる坊主作ってお願いしておきます」
「いいですね。私も作ろうかな」
二人で微笑み合って頷いた。
◇
「戻りました」
長谷部と別れて事務所に戻ると、環奈が顔を上げてめぐが手にしていたカタログに目を向ける。
「あっ、雪村さん!それってひょっとして、ドレスのカタログですか?見せてください!」
「いや、ちょっと。恥ずかしいから無理」
「えー、どうしてですか?それなら長谷部さんにもらいにいこうっと」
立ち上がろうとする環奈を、めぐは慌てて止めた。
「わ、分かったから。じゃあちょっとだけね」
めぐは渋々カタログを環奈に差し出す。
「わあー、表紙から超絶美しい雪村さんが!見て、氷室さん」
そう言って環奈は、斜め向かいのデスクの弦にカタログを掲げて見せた。
「ちょっと、環奈ちゃん!」
手で遮ろうとすると、顔を上げた弦は驚いたように写真に見入っている。
「これ、ほんとにめぐ?」
「え、そうだけど」
「化けたなー。こんなに変わるんだ」
「ちょっと、どういう意味?」
すると環奈が「まあまあ」と取りなす。
「氷室さんたら照れちゃって。素直に言ってくださいよ、君がとびきり美人で驚いたって」
「いや、素直に言ってる。見事に化けたなーって」
「氷室さん!もう、女の子にそんな言い方しちゃだめです。二人きりの時には素直になってくださいね。こんなに綺麗な君を独り占めしたい。誰にも見せたくないよ、なーんて!」
そして環奈は他のページもぺらぺらとめくり始めた。
「このAラインのドレス、雪村さんにお似合いでとってもいいですね。カラードレスも素敵!ああー、本当にどれも美しいです。氷室さんはあとでじっくりと雪村さんに見せてもらってくださいね。二人きりの時に見たらきっとラブラブな雰囲気になると思います。ふふっ」
いやいや、ならないし。なんなら見せないし、と思いながら、めぐは環奈からカタログを受け取った。
「これ、長谷部さんから皆さんにって差し入れいただいたの」
そう言って、皆のデスクにマドレーヌを配る。
「本当に優しいですよね、長谷部さんって。品があってジェントルマンで。んー、美味しい!」
頬に手を当てて、環奈は嬉しそうにマドレーヌを頬張っている。
「氷室くんもどうぞ。あ、今コーヒー淹れるね。環奈ちゃんにも」
めぐは給湯室に向かい、コーヒーを3人分淹れて戻る。
長谷部の差し入れのマドレーヌは、コクのあるバター風味と程よい甘さで美味しかった。
(わざわざ広報課の人数分差し入れしてくれるなんて、長谷部さん本当にいい人)
ドレスモデルは気恥ずかったが、お手伝い出来て良かったと、めぐは思った。
◇
その日の仕事終わり、弦はめぐと「辻褄合わせの会」をしようと夕食を食べに行くことになった。
行きつけの居酒屋に入り、ビールで乾杯する。
「今日はね、焼き鳥の気分!どんどん焼いてー、じゃんじゃん食べちゃう!」
「おい、めぐ。酔うの早くないか?」
「酔ってないよ。お腹がぺこぺこなだけ」
「やれやれ、ほんとにお前は色気より食い気だな」
「どういたしまして」
「いや、褒めてないから」
あはは!と明るく笑うめぐは自分のよく知るめぐで、弦はホッとする。
だがふと、環奈に見せられたカタログの写真を思い出した。
純白のウエディングドレスに身を包み、手にしたブーケに視線を落として微笑んでいるめぐの写真。
ひと目見て息を呑んだ。
(いつものめぐは明るく笑ってる顔が印象的だけど、実際は美人で気品に溢れてるんだよな)
めぐが椅子に置いたバッグに目をやると、中にカタログが入っているのが少し見える。
(もっと写真を見てみたいような、見たくないような)
そもそもどうして自分がそんな気持ちになるのか分からない。
いつの間にか自分は、めぐに対して一歩引いた冷静な気持ちを持てなくなったのだろうか?
恋人のフリをしているのだから、あの写真を見た時「やっぱり君は綺麗だね」くらいのセリフを言った方が良かったのに。
(いや、まあ、俺ってもともとそういうキザなセリフを言うタイプじゃないからな。だけどそれにしても、最近めぐに対する気持ちがなんか変だ)
思い返せば、めぐがドレスモデルをやるという話になった頃からだろうか?
なぜだかもやっとし始めた。
自分の知らないところで長谷部と話し、めぐは自分に相談することなくモデルを引き受けた。
そして仕上がった写真は、自分もまだ知らないめぐの美しいウエディングドレス姿だった。
(なんでそれがもやっとする?彼氏でもないのに。フリを続けていたら、いつの間にか本当の彼氏だと勘違いするようになったのか?俺は)
だとしたら浅はかすぎる。
冷静に一歩引いたところで、客観的にめぐと接しなければ。
うつむいて考え込んでいると、めぐが声をかけてきた。
「氷室くん、最近は何かあった?辻褄合わせること」
「ああ、えっと。環奈から聞かれたことくらいかな?来月俺の誕生日だけど、プレゼントは何をもらうんだって」
「環奈ちゃん、好きだね、その質問」
「ほんとだよな。で、俺からは何もリクエストしてないって答えておいた」
「そしたら、雪村さん、内緒で用意するつもりなんですねーって?」
「まさにそう言ってた」
めぐは「やっぱり?」と言って、焼き鳥を片手に笑う。
「でもめぐ、別に用意してくれなくていいからな。誕生日終わってまた聞かれたら、適当にごまかしておくから」
「そう?分かった。なんて答えたか、また教えてね。じゃあいつもの確認。氷室くん、好きな人出来た?」
「…………いや」
「私も、って待って!今氷室くん、なんか溜めてから答えたよね?そのタメは何?」
「別になんでもないよ。焼き鳥飲みこんでただけ」
「あ、そうなんだ。それならいいけど。じゃあ引き続き、恋人同盟よろしくね」
ああ、と答えながら弦は自問自答していた。
(ほんとだよ、俺。何だよ?今のタメは。なんで躊躇した?好きな人って言葉になんか反応した?)
いかんいかん、冷静に一歩引いて、と己に言い聞かせ、弦はビールをグイッと煽った。
◇
夏休みに入り、パークは連日たくさんのゲストで溢れ返っていた。
「世界遺産を巡る旅」などのイベントも盛況で、弦とめぐもマスコミの対応に追われる。
その日は一日中取材続きで、午前の雑誌のインタビューを終えると、すぐさま午後のテレビ中継のスケジュールを確認した。
「えっと、このあと13時からお昼のバラエティー番組の中継リハね。本番は14時と15時の2回に分けて、場所も移動するから」
「了解。昼飯早めに済ませておくか」
「そうだね」
制服を着たまま、二人で社員食堂に行く。
「めぐ、制服にご飯こぼすなよ」
「あ!確かに」
天津飯を食べようとしていためぐはレンゲを置き、ポケットからハンカチを取り出して胸元に掛けた。
「おい、お子様ランチじゃないんだから。普通、膝の上に載せるだろ」
「えー、だってさ。一番こぼしやすいのは胸の辺りじゃない?それにカメラにも映りやすいから、ここは死守せねば」
そう言って気にするふうもなく食べ始める。
「美味しい!このあとの仕事もがんばれそう」
髪型もメイクも綺麗に整えているのに、めぐは胸にハンカチを掛けたまま笑顔で頬張る。
「俺の知ってるめぐはこうなんだよな。気取ってなくてホッとする」
「ん?何か言った?」
「いや、何も。いいから早く食べろ」
「それは氷室くんでしょう?さっきからぼんやりしたり、ぶつぶつ呟いたり。なあに?悩み事でもあるの?あ!ちょっと待って。このあとの中継、最初はカナダエリアからよね?どうしよう!ウォーターフォール乗らされたら」
「ぶっ、悩みがあるのはめぐだろ?大丈夫、予定では下からの撮影になってたから。もし変更になったら俺だけ乗る」
「ほんと?ありがとう!なんだか今日は氷室くんがかっこ良く見えるよ」
「めぐ、それ褒めてないからな」
やれやれとため息をついてから、弦も食事の手を進めた。
13時になると、パーク関係者入り口にテレビクルーを迎えに行く。
40代くらいのディレクターとカメラマン、30代の男性リポーターと、アシスタントが3名の合計6名だった。
取材パスを警備員から受け取って配り、弦とめぐはパークの中へと案内する。
「ではまず、リポーターと一緒に立ち位置とトークの流れを確認させてください」
「はい」
ディレクターの指示で、弦はめぐと並んで決められた立ち位置に着いた。
「初めにパークの様子をぐるっと撮影してリポーターのセリフを被せます。10秒間ですね。そこからやってみましょう」
カメラの前にディレクターが手を差し出し、リポーターにキューの合図を出す。
「こんにちは!私は今『グレイスフル ワールド』に来ています。ご覧ください。ご家族連れやカップル、友人同士など、多くのお客様で賑わっています」
カメラマンが辺りをぐるりと撮影してから、正面に向き直った。
ディレクターが次のセリフの合図を出す。
「今日はここ『グレイスフル ワールド』の魅力を、パークのスタッフの方と一緒にたっぷりとお届けします。広報課の雪村さん、氷室さん、どうぞよろしくお願いします」
よろしくお願いいたします、と弦とめぐは同時に挨拶した。
「今私達は北米のカナダエリアにいるのですが、見てください!春にオープンしたアトラクション『ウォーターフォール』に長蛇の列が出来ています」
そこでディレクターが口を挟む。
「ここで10秒、並んでいるお客さんを映すからフリートークね。しゃべりながら滝の落下スポットに向かって歩き始めて」
はい、とリポーターが返事をしてから歩き出す。
弦とめぐもそれにならった。
「で、カメラが追いついて来たら次のセリフ。はい、どうぞ」
ディレクターの指示でリポーターはカメラに向かってセリフを言いながら歩く。
「おや、なんだかザーッという音が聞こえてきました。これはもしや……、もしかすると……、あ!見えました、あちらがナイアガラの滝です!」
大げさに声を張って指を差すリポーターに、大変だなあと弦は心の中で呟く。
(カメラを見ながら歩くのって危なすぎるな。こんなにゲストがたくさんいるのに、生中継で何かあったら困る)
そう思っている間にもカメラが滝を映し、リポーターが興奮気味に「見ているだけでも迫力満点です!」と大きな声で語っている。
「この『ウォーターフォール』はどういったアトラクションなんですか?」
マイクを向けられて弦が説明している間に、めぐだけが少し移動してテーブルや椅子が並ぶ飲食スペースに向かう。
そしてカメラが追いつくと、テーブルに並べられたメイプルシロップやメイプルクッキーなど、このエリアのおすすめのお土産や食べ歩きスナックを紹介することになっていた。
「はい、1回目の中継はこんな感じです。本番もよろしくお願いしまーす」
ディレクターの言葉に、弦とめぐはクルーをバックヤードの休憩室に案内する。
アシスタントの3人だけは、現場で様子を確認したいとその場に残った。
「よろしければどうぞ」
めぐがアイスコーヒーをグラスに入れて持って来ると、リポーターの男性は一気に飲み干した。
「あー、生き返りました」
「おかわり、お持ちしましょうか?」
「いえ、もう大丈夫です。それより雪村さんは、芸能事務所から派遣されて来たんですか?」
は?と、めぐは意図が分からずに首を傾げる。
「いえ、ここの正社員ですが……」
「そうなんだ。そりゃこんな美人なら、会社も即採用するよねー。広報課の顔出し要員としては最高だもん」
なんと答えていいのか戸惑う様子のめぐに、弦は目配せした。
「雪村さん、ちょっと」
「はい」
近づいて来ためぐを、弦は休憩室の外に促した。
「気にするな。めぐはここにいろ」
「うん、ありがとう」
寂しそうな笑顔を浮かべるめぐの顔を覗き込み、弦は力強く言い聞かせる。
「めぐ、お前がきちんと仕事に向き合ってるのは俺達社員はみんな知ってる。それを忘れるなよ?」
「氷室くん……」
うん!と、ようやくいつもの笑顔を浮かべるめぐに、弦も優しく頷いた。
1回目の本番の時間になった。
人気バラエティー番組の司会者がスタジオから呼びかけ、リハーサル通りに中継が始まる。
だがリハーサルの時よりも、ゲストの混雑具合が増していた。
リポーターはカメラに向かって声を張りながら、徐々に移動する。
その時正面から、おしゃべりに夢中の女の子3人組が近づいて来た。
アシスタントもリポーターも、カメラに意識が向いていて気づかない。
このままだとぶつかる、というところで、弦はさり気なく手を伸ばして女の子達を止めた。
「お客様、失礼しました。こちらへ」
小声でささやき、それとなくカメラの反対方向へと促す。
「え、なに?きゃあ!イケメンー!」
弦はにこやかに人差し指を自分の唇に当ててから、カメラを指差す。
「あ、やだ。テレビ?ごめんなさい」
「いいえ、こちらこそご迷惑をおかけしました」
お辞儀をするとすぐさまリポーターの隣に戻る。
その後は滞りなく中継を終えた。
「氷室さん、実はSNSで話題になってまして……」
2回目の中継場所のキャナルガーデンに移動すると、ディレクターがスマートフォン片手に弦に話しかけてきた。
「さっきの中継で、氷室さんがお客さんをさり気なく止めたのが映り込んでたんですよ。それがかっこいいって」
「そうですか」
としか答えようがない。
「だから2回目の中継では、もっと氷室さんを映したいんですよねー。雪村さんが言うはずだったセリフも、全部氷室さんに変更していいですか?氷室さんをアップで抜いてしゃべってもらいたいんです」
「いえ、それは……」
すると横で聞いていためぐが口を開いた。
「そういうことでしたら、ご希望に添って。ね、氷室くん」
めぐの有無を言わさぬ真剣な表情に、弦は仕方なく頷いた。
リハーサルを終えると、すぐに本番の時間になる。
クラシカルヨーロピアンの建物に囲まれた大きな運河。
その周りは美しい花や緑の木々で彩られ、綺麗な景色をバックに写真を撮るゲストの笑顔が溢れていた。
そんなキャナルガーデンの様子をぐるりと捉えてから、カメラは弦をアップで映し始めた。
「ここキャナルガーデンでは、8月10日から8月31日までの期間、ランタンフェスティバルを開催いたします。運河の水面と夜空に浮かぶランタンの幻想的な世界を、どうぞお楽しみに。詳しくは『グレイスフル ワールド』の公式ホームページをご覧ください。皆様のご来園を心よりお待ちしております」
「いやー、イケメンの氷室さんに会えるのも楽しみですねー。皆さん、ぜひお越しください」
リポーターがコメントして、中継は無事に終わった。
弦とめぐは、パークの出口までクルーを案内する。
「今日はありがとうございました!SNSの反響もすごいです。イケメンの画力ってすごいですねー。またよろしくお願いします」
ご機嫌で帰って行くディレクター達を、弦とめぐは深々とお辞儀をして見送った。
「氷室くん」
「ん?なに」
「氷室くんがめちゃくちゃ仕事が出来る人だってことも、私達社員はみんな知ってるからね」
にっこり笑いかけてくるめぐに、弦は一瞬驚いてからふっと笑みをもらす。
「よし!今夜は飲みに行くか」
「いいねー、行こう!」
二人で笑いながら事務所に向かって歩き始めた。
とにかくランタンフェスティバルが楽しみで仕方ない。
デスクで資料を広げながら、隣の席の弦に話しかけた。
「ね、氷室くん。ランタンは、パークの運河をクルージングしながら終着点のキャナルガーデンまで来て、船上でリリースでしょう?写真撮影するには、クルーズ船に乗せてもらった方がいいかな?」
「んー、そうだな。リリースの瞬間は真下から撮りたい。浮かび上がってからは、少し遠くから撮りたいな。ちょうどホテルが正面にあるから、長谷部さんにお願いしてホテルの中から撮らせてもらおうか」
途端にめぐは慌てふためく。
「そ、そうね。でもそれは、私から連絡しておくから大丈夫。氷室くんは気にしないでね。あ、じゃあ、クルーズ船の方に聞いてみてくれる?」
「ああ、いいけど。どうかしたか?」
「どうもしないよ、大丈夫。楽しみだね!」
取り繕うようににこっと笑ってから、めぐはパソコンに向き直った。
(えっと、もし誕生日までに氷室くんに好きな人が出来たら、撮影用に確保したってことでホテルの部屋から写真を撮ろう。もし出来てなければ、勤務後に部屋でケーキとシャンパンで乾杯、でいいかな?)
頭の中で当日の流れをシミュレーションする。
(あとは好きな人が出来たかどうかを、氷室くんに改めて確認しなきゃね)
そしてまた資料に目を落とした。
雨天や荒天、強風の場合はランタンフェスティバルは中止と書かれている。
(お天気いいといいな。あー、楽しみ!SNSでもたくさん告知して、一人でも多くのゲストに楽しんでもらおう)
めぐは気合いを入れると、宣伝用の記事を書き始めた。
◇
7月の半ばを過ぎたある日。
広報課の事務所に意外な人物が訪れる。
「失礼します。雪村さんはいらっしゃいますか?」
「長谷部さん!」
ジャケットを脱いだシャツとスラックス姿で、長谷部は事務所の入り口に立っていた。
めぐは席を立って歩み寄る。
「お疲れ様です、何かありましたか?」
「はい。ご協力いただいたドレスのカタログが出来上がったのでお渡しに。あと、こちらは広報課の皆さんへ。ホテルオリジナルのマドレーヌです」
「えっ、ありがとうございます!いただきます」
「それからランタンフェスティバル当日のお部屋ですが……」
「ああー、はい。えっと、あちらのミーティングルームでお話しさせてくださいね」
長谷部の言葉を遮って、めぐはそそくさと事務所を出る。
すぐ隣のミーティングルームに長谷部を案内し、二人で向かい合って座った。
「お忙しいところ、突然お邪魔してすみません。どうしても早く手渡したくて。とても綺麗な仕上がりなんですよ」
そう言って早速長谷部はめぐにドレスのカタログを差し出した。
A4サイズの上質なカラーのカタログは、表紙にめぐの純白のドレス姿が載っている。
「この写真が表紙なんですか?」
「ええ。デザイン会社にお任せしたのですが、恐らくこの写真が一番いいと判断されたんでしょう。私もそう思います」
「このウエディングドレス、とっても上品で素敵ですものね」
「確かにこのドレスはうちのコレクションの中でも最高級のものです。ですがその魅力を存分に伝えられたのは、雪村さんが着こなしてくれたからですよ」
「いえいえ、ヘアメイクさんとカメラマンさんのお力です。中も拝見していいですか?」
「もちろん、どうぞ」
めぐはそっとページをめくってみた。
3つのイメージに合わせて、プリンセス、ロイヤル、モードの順にドレスが紹介されている。
「わあ、可愛い!プリンセスラインのモデルさん、とってもキュートですね。ドレスもふんわりしていて本当にお姫様みたい。カラードレスもピンクやオレンジとか、優しい色合いですね」
自分が撮影したドレスしか知らなかっためぐは、他のドレスを見て目を輝かせた。
「スタイリッシュなモードラインも素敵。スレンダーとかマーメイドのドレスが多いですね。クールで大人っぽいです。カラードレスもワンショルダーとか、斬新ですね」
すると黙って聞いていた長谷部がふっと笑みをもらす。
「雪村さん、どうしてご自分のページを飛ばすんですか?」
「え、それは……。恥ずかしくて直視出来ないからです」
「そんな。こんなにお綺麗なのに?見てください」
そう言ってページをめくろうとする。
「わー!いえ、結構です。あの、あとで拝見しますので」
「そうですか?分かりました。ぜひ感想をお聞かせくださいね。それから8月10日のお部屋なんですが」
「あ、はい!押さえていただいて、本当にありがとうございました」
めぐは背筋を伸ばしてお礼を言う。
「いいえ、お役に立てて良かったです。ちょうどキャナルガーデンが正面に見えるツインルームを押さえました。もしダブルをご希望でしたら、今後もキャンセルをチェックして変更しますがいかがでしょう?」
「そのままで大丈夫です、ありがとうございます。それで支払いは私に請求が来るようにしていただきたいのですけど、可能でしょうか?」
「え、はい。それは大丈夫ですが……。雪村さんがチェックアウトの手続きをされないということですか?」
「ええ。私は泊まらずに帰って、もう一人の友人だけ泊まってもらおうと思っています。ただ場合によっては、その友人も泊まらないかもしれません」
長谷部は少し首をひねって考えあぐねている。
「かしこまりました。ちょっと理解が追いつかないのですが、とにかく請求は雪村さん宛にとフロントで共有しておきますね」
「お手数おかけして申し訳ありません」
「とんでもない。ご利用を心よりお待ちしております」
支配人の顔になり、うやうやしく頭を下げる長谷部に、めぐもふふっと笑ってお辞儀する。
「はい、楽しみにしております。どうぞよろしくお願いします」
「当日晴れて、綺麗なランタンフェスティバルが見られるといいですね」
「そうですよね。てるてる坊主作ってお願いしておきます」
「いいですね。私も作ろうかな」
二人で微笑み合って頷いた。
◇
「戻りました」
長谷部と別れて事務所に戻ると、環奈が顔を上げてめぐが手にしていたカタログに目を向ける。
「あっ、雪村さん!それってひょっとして、ドレスのカタログですか?見せてください!」
「いや、ちょっと。恥ずかしいから無理」
「えー、どうしてですか?それなら長谷部さんにもらいにいこうっと」
立ち上がろうとする環奈を、めぐは慌てて止めた。
「わ、分かったから。じゃあちょっとだけね」
めぐは渋々カタログを環奈に差し出す。
「わあー、表紙から超絶美しい雪村さんが!見て、氷室さん」
そう言って環奈は、斜め向かいのデスクの弦にカタログを掲げて見せた。
「ちょっと、環奈ちゃん!」
手で遮ろうとすると、顔を上げた弦は驚いたように写真に見入っている。
「これ、ほんとにめぐ?」
「え、そうだけど」
「化けたなー。こんなに変わるんだ」
「ちょっと、どういう意味?」
すると環奈が「まあまあ」と取りなす。
「氷室さんたら照れちゃって。素直に言ってくださいよ、君がとびきり美人で驚いたって」
「いや、素直に言ってる。見事に化けたなーって」
「氷室さん!もう、女の子にそんな言い方しちゃだめです。二人きりの時には素直になってくださいね。こんなに綺麗な君を独り占めしたい。誰にも見せたくないよ、なーんて!」
そして環奈は他のページもぺらぺらとめくり始めた。
「このAラインのドレス、雪村さんにお似合いでとってもいいですね。カラードレスも素敵!ああー、本当にどれも美しいです。氷室さんはあとでじっくりと雪村さんに見せてもらってくださいね。二人きりの時に見たらきっとラブラブな雰囲気になると思います。ふふっ」
いやいや、ならないし。なんなら見せないし、と思いながら、めぐは環奈からカタログを受け取った。
「これ、長谷部さんから皆さんにって差し入れいただいたの」
そう言って、皆のデスクにマドレーヌを配る。
「本当に優しいですよね、長谷部さんって。品があってジェントルマンで。んー、美味しい!」
頬に手を当てて、環奈は嬉しそうにマドレーヌを頬張っている。
「氷室くんもどうぞ。あ、今コーヒー淹れるね。環奈ちゃんにも」
めぐは給湯室に向かい、コーヒーを3人分淹れて戻る。
長谷部の差し入れのマドレーヌは、コクのあるバター風味と程よい甘さで美味しかった。
(わざわざ広報課の人数分差し入れしてくれるなんて、長谷部さん本当にいい人)
ドレスモデルは気恥ずかったが、お手伝い出来て良かったと、めぐは思った。
◇
その日の仕事終わり、弦はめぐと「辻褄合わせの会」をしようと夕食を食べに行くことになった。
行きつけの居酒屋に入り、ビールで乾杯する。
「今日はね、焼き鳥の気分!どんどん焼いてー、じゃんじゃん食べちゃう!」
「おい、めぐ。酔うの早くないか?」
「酔ってないよ。お腹がぺこぺこなだけ」
「やれやれ、ほんとにお前は色気より食い気だな」
「どういたしまして」
「いや、褒めてないから」
あはは!と明るく笑うめぐは自分のよく知るめぐで、弦はホッとする。
だがふと、環奈に見せられたカタログの写真を思い出した。
純白のウエディングドレスに身を包み、手にしたブーケに視線を落として微笑んでいるめぐの写真。
ひと目見て息を呑んだ。
(いつものめぐは明るく笑ってる顔が印象的だけど、実際は美人で気品に溢れてるんだよな)
めぐが椅子に置いたバッグに目をやると、中にカタログが入っているのが少し見える。
(もっと写真を見てみたいような、見たくないような)
そもそもどうして自分がそんな気持ちになるのか分からない。
いつの間にか自分は、めぐに対して一歩引いた冷静な気持ちを持てなくなったのだろうか?
恋人のフリをしているのだから、あの写真を見た時「やっぱり君は綺麗だね」くらいのセリフを言った方が良かったのに。
(いや、まあ、俺ってもともとそういうキザなセリフを言うタイプじゃないからな。だけどそれにしても、最近めぐに対する気持ちがなんか変だ)
思い返せば、めぐがドレスモデルをやるという話になった頃からだろうか?
なぜだかもやっとし始めた。
自分の知らないところで長谷部と話し、めぐは自分に相談することなくモデルを引き受けた。
そして仕上がった写真は、自分もまだ知らないめぐの美しいウエディングドレス姿だった。
(なんでそれがもやっとする?彼氏でもないのに。フリを続けていたら、いつの間にか本当の彼氏だと勘違いするようになったのか?俺は)
だとしたら浅はかすぎる。
冷静に一歩引いたところで、客観的にめぐと接しなければ。
うつむいて考え込んでいると、めぐが声をかけてきた。
「氷室くん、最近は何かあった?辻褄合わせること」
「ああ、えっと。環奈から聞かれたことくらいかな?来月俺の誕生日だけど、プレゼントは何をもらうんだって」
「環奈ちゃん、好きだね、その質問」
「ほんとだよな。で、俺からは何もリクエストしてないって答えておいた」
「そしたら、雪村さん、内緒で用意するつもりなんですねーって?」
「まさにそう言ってた」
めぐは「やっぱり?」と言って、焼き鳥を片手に笑う。
「でもめぐ、別に用意してくれなくていいからな。誕生日終わってまた聞かれたら、適当にごまかしておくから」
「そう?分かった。なんて答えたか、また教えてね。じゃあいつもの確認。氷室くん、好きな人出来た?」
「…………いや」
「私も、って待って!今氷室くん、なんか溜めてから答えたよね?そのタメは何?」
「別になんでもないよ。焼き鳥飲みこんでただけ」
「あ、そうなんだ。それならいいけど。じゃあ引き続き、恋人同盟よろしくね」
ああ、と答えながら弦は自問自答していた。
(ほんとだよ、俺。何だよ?今のタメは。なんで躊躇した?好きな人って言葉になんか反応した?)
いかんいかん、冷静に一歩引いて、と己に言い聞かせ、弦はビールをグイッと煽った。
◇
夏休みに入り、パークは連日たくさんのゲストで溢れ返っていた。
「世界遺産を巡る旅」などのイベントも盛況で、弦とめぐもマスコミの対応に追われる。
その日は一日中取材続きで、午前の雑誌のインタビューを終えると、すぐさま午後のテレビ中継のスケジュールを確認した。
「えっと、このあと13時からお昼のバラエティー番組の中継リハね。本番は14時と15時の2回に分けて、場所も移動するから」
「了解。昼飯早めに済ませておくか」
「そうだね」
制服を着たまま、二人で社員食堂に行く。
「めぐ、制服にご飯こぼすなよ」
「あ!確かに」
天津飯を食べようとしていためぐはレンゲを置き、ポケットからハンカチを取り出して胸元に掛けた。
「おい、お子様ランチじゃないんだから。普通、膝の上に載せるだろ」
「えー、だってさ。一番こぼしやすいのは胸の辺りじゃない?それにカメラにも映りやすいから、ここは死守せねば」
そう言って気にするふうもなく食べ始める。
「美味しい!このあとの仕事もがんばれそう」
髪型もメイクも綺麗に整えているのに、めぐは胸にハンカチを掛けたまま笑顔で頬張る。
「俺の知ってるめぐはこうなんだよな。気取ってなくてホッとする」
「ん?何か言った?」
「いや、何も。いいから早く食べろ」
「それは氷室くんでしょう?さっきからぼんやりしたり、ぶつぶつ呟いたり。なあに?悩み事でもあるの?あ!ちょっと待って。このあとの中継、最初はカナダエリアからよね?どうしよう!ウォーターフォール乗らされたら」
「ぶっ、悩みがあるのはめぐだろ?大丈夫、予定では下からの撮影になってたから。もし変更になったら俺だけ乗る」
「ほんと?ありがとう!なんだか今日は氷室くんがかっこ良く見えるよ」
「めぐ、それ褒めてないからな」
やれやれとため息をついてから、弦も食事の手を進めた。
13時になると、パーク関係者入り口にテレビクルーを迎えに行く。
40代くらいのディレクターとカメラマン、30代の男性リポーターと、アシスタントが3名の合計6名だった。
取材パスを警備員から受け取って配り、弦とめぐはパークの中へと案内する。
「ではまず、リポーターと一緒に立ち位置とトークの流れを確認させてください」
「はい」
ディレクターの指示で、弦はめぐと並んで決められた立ち位置に着いた。
「初めにパークの様子をぐるっと撮影してリポーターのセリフを被せます。10秒間ですね。そこからやってみましょう」
カメラの前にディレクターが手を差し出し、リポーターにキューの合図を出す。
「こんにちは!私は今『グレイスフル ワールド』に来ています。ご覧ください。ご家族連れやカップル、友人同士など、多くのお客様で賑わっています」
カメラマンが辺りをぐるりと撮影してから、正面に向き直った。
ディレクターが次のセリフの合図を出す。
「今日はここ『グレイスフル ワールド』の魅力を、パークのスタッフの方と一緒にたっぷりとお届けします。広報課の雪村さん、氷室さん、どうぞよろしくお願いします」
よろしくお願いいたします、と弦とめぐは同時に挨拶した。
「今私達は北米のカナダエリアにいるのですが、見てください!春にオープンしたアトラクション『ウォーターフォール』に長蛇の列が出来ています」
そこでディレクターが口を挟む。
「ここで10秒、並んでいるお客さんを映すからフリートークね。しゃべりながら滝の落下スポットに向かって歩き始めて」
はい、とリポーターが返事をしてから歩き出す。
弦とめぐもそれにならった。
「で、カメラが追いついて来たら次のセリフ。はい、どうぞ」
ディレクターの指示でリポーターはカメラに向かってセリフを言いながら歩く。
「おや、なんだかザーッという音が聞こえてきました。これはもしや……、もしかすると……、あ!見えました、あちらがナイアガラの滝です!」
大げさに声を張って指を差すリポーターに、大変だなあと弦は心の中で呟く。
(カメラを見ながら歩くのって危なすぎるな。こんなにゲストがたくさんいるのに、生中継で何かあったら困る)
そう思っている間にもカメラが滝を映し、リポーターが興奮気味に「見ているだけでも迫力満点です!」と大きな声で語っている。
「この『ウォーターフォール』はどういったアトラクションなんですか?」
マイクを向けられて弦が説明している間に、めぐだけが少し移動してテーブルや椅子が並ぶ飲食スペースに向かう。
そしてカメラが追いつくと、テーブルに並べられたメイプルシロップやメイプルクッキーなど、このエリアのおすすめのお土産や食べ歩きスナックを紹介することになっていた。
「はい、1回目の中継はこんな感じです。本番もよろしくお願いしまーす」
ディレクターの言葉に、弦とめぐはクルーをバックヤードの休憩室に案内する。
アシスタントの3人だけは、現場で様子を確認したいとその場に残った。
「よろしければどうぞ」
めぐがアイスコーヒーをグラスに入れて持って来ると、リポーターの男性は一気に飲み干した。
「あー、生き返りました」
「おかわり、お持ちしましょうか?」
「いえ、もう大丈夫です。それより雪村さんは、芸能事務所から派遣されて来たんですか?」
は?と、めぐは意図が分からずに首を傾げる。
「いえ、ここの正社員ですが……」
「そうなんだ。そりゃこんな美人なら、会社も即採用するよねー。広報課の顔出し要員としては最高だもん」
なんと答えていいのか戸惑う様子のめぐに、弦は目配せした。
「雪村さん、ちょっと」
「はい」
近づいて来ためぐを、弦は休憩室の外に促した。
「気にするな。めぐはここにいろ」
「うん、ありがとう」
寂しそうな笑顔を浮かべるめぐの顔を覗き込み、弦は力強く言い聞かせる。
「めぐ、お前がきちんと仕事に向き合ってるのは俺達社員はみんな知ってる。それを忘れるなよ?」
「氷室くん……」
うん!と、ようやくいつもの笑顔を浮かべるめぐに、弦も優しく頷いた。
1回目の本番の時間になった。
人気バラエティー番組の司会者がスタジオから呼びかけ、リハーサル通りに中継が始まる。
だがリハーサルの時よりも、ゲストの混雑具合が増していた。
リポーターはカメラに向かって声を張りながら、徐々に移動する。
その時正面から、おしゃべりに夢中の女の子3人組が近づいて来た。
アシスタントもリポーターも、カメラに意識が向いていて気づかない。
このままだとぶつかる、というところで、弦はさり気なく手を伸ばして女の子達を止めた。
「お客様、失礼しました。こちらへ」
小声でささやき、それとなくカメラの反対方向へと促す。
「え、なに?きゃあ!イケメンー!」
弦はにこやかに人差し指を自分の唇に当ててから、カメラを指差す。
「あ、やだ。テレビ?ごめんなさい」
「いいえ、こちらこそご迷惑をおかけしました」
お辞儀をするとすぐさまリポーターの隣に戻る。
その後は滞りなく中継を終えた。
「氷室さん、実はSNSで話題になってまして……」
2回目の中継場所のキャナルガーデンに移動すると、ディレクターがスマートフォン片手に弦に話しかけてきた。
「さっきの中継で、氷室さんがお客さんをさり気なく止めたのが映り込んでたんですよ。それがかっこいいって」
「そうですか」
としか答えようがない。
「だから2回目の中継では、もっと氷室さんを映したいんですよねー。雪村さんが言うはずだったセリフも、全部氷室さんに変更していいですか?氷室さんをアップで抜いてしゃべってもらいたいんです」
「いえ、それは……」
すると横で聞いていためぐが口を開いた。
「そういうことでしたら、ご希望に添って。ね、氷室くん」
めぐの有無を言わさぬ真剣な表情に、弦は仕方なく頷いた。
リハーサルを終えると、すぐに本番の時間になる。
クラシカルヨーロピアンの建物に囲まれた大きな運河。
その周りは美しい花や緑の木々で彩られ、綺麗な景色をバックに写真を撮るゲストの笑顔が溢れていた。
そんなキャナルガーデンの様子をぐるりと捉えてから、カメラは弦をアップで映し始めた。
「ここキャナルガーデンでは、8月10日から8月31日までの期間、ランタンフェスティバルを開催いたします。運河の水面と夜空に浮かぶランタンの幻想的な世界を、どうぞお楽しみに。詳しくは『グレイスフル ワールド』の公式ホームページをご覧ください。皆様のご来園を心よりお待ちしております」
「いやー、イケメンの氷室さんに会えるのも楽しみですねー。皆さん、ぜひお越しください」
リポーターがコメントして、中継は無事に終わった。
弦とめぐは、パークの出口までクルーを案内する。
「今日はありがとうございました!SNSの反響もすごいです。イケメンの画力ってすごいですねー。またよろしくお願いします」
ご機嫌で帰って行くディレクター達を、弦とめぐは深々とお辞儀をして見送った。
「氷室くん」
「ん?なに」
「氷室くんがめちゃくちゃ仕事が出来る人だってことも、私達社員はみんな知ってるからね」
にっこり笑いかけてくるめぐに、弦は一瞬驚いてからふっと笑みをもらす。
「よし!今夜は飲みに行くか」
「いいねー、行こう!」
二人で笑いながら事務所に向かって歩き始めた。
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