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ノクターンとセレナーデ
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大みそか。
小夜は朝から大掃除をして、おせち料理を作る。
夜に軽く食事をしながらテレビを見ていると、生放送の音楽番組で豪華なアーティストたちが一堂に会して歌っていた。
その中に、想の姿もある。
(わあ、かっこいい!)
サイドの髪を整え、黒いジャケットを着た想は、華やかな他のアーティストと並んでもひと際目を引いていた。
(なんか、オーラが違う。寡黙だけどそこにいるだけで存在感があるというか。こんな人と二人きりで話したなんて、信じられない)
ただ話すだけではなかったが、そこから先は考えただけで頭から火が噴き出そうだった。
出演者たちはお祭り騒ぎのように、その年のヒット曲を次々と披露して盛り上げる。
トークも交えて終始楽しい雰囲気だったが、やがて想の出番になり、司会者の隣まで歩み出た想にお決まりの質問がされた。
「想さんにとって、今年はどんな一年でしたか?」
想は落ち着いた雰囲気で、ゆっくりと言葉を選んだ。
「今年は、出逢いと実りの年でした。音楽に関しても、新たな道が拓けたと思っています」
「では、来年はどんな年にしたいですか?」
「来年は……」
少し考えてから、想はカメラを見つめてはっきりと告げる。
「幸せな一年にしたいです」
ずっと真顔だった想が少し微笑んでいて、小夜は思わずドキッとする。
まるで自分と目が合い、自分に言ってくれているような気がした。
(幸せな年に……。それは、私と?)
厚かましくもそう考えてしまう。
(そう思ってくれてたらいいな)
やがて想がピアノの前に移動し、司会者が曲紹介をする。
「それでは、今年も大活躍だった想さんのヒット曲。『真夏のピエロ』と『Snowy Crystal』を二曲続けてお聴きください」
画面が変わり、想の横顔がアップで捉えられる。
ドラムのフィルインで曲が始まった。
明るく賑やかなサウンドにピアノが加わる。
楽しげに演奏するバンドマンたちの中で、愁いを帯びた表情の想が少し物哀しいメロディを奏でた。
『真夏のピエロ』
やっぱりこの曲は。想が明るさの中に本音を隠した曲だったのだと、小夜は改めて気づく。
そして二曲目の『Snowy Crystal』
想だけがステージに残り、グランドピアノを弾きながらゆったりと歌い出す。
自分の気持ちをそのまま音に込めて。
素直に真っ直ぐに、想の想いが伝わってきた。
(素敵。想って、内に秘めてるものが人を惹きつけるんだろうな。想の生き様とか、抱えているものすべて)
生き方、考え方、人生そのものを、想は音で表現する。
だからこんなにも心惹かれるのだ。
それはきっと、想自身が魅力に溢れた人だから。
小夜はそんなふうに感じながら、テレビの向こうの想の演奏にうっとりと聴き惚れていた。
◇
【着いたよ】
メッセージを見て、小夜はすぐさま返信する。
【はい。今行きますね】
まとめておいた荷物を手に、急いで部屋を出る。
時刻は二十三時を回っており、辺りは静まり返っていた。
エントランスから少し離れた暗がりに想の小型のSUVが止まっているのが見えて、小夜はタタッと駆け寄った。
想が中からドアを開け、小夜は素早く乗り込む。
ふう、と息をついてから、想を見上げて笑いかけた。
「お疲れ様。演奏、とっても素敵だったよ」
「聴いてくれたのか?」
「もちろん。ファンクラブに入ったから、出演情報もバッチリよ」
「ははっ! ご入会ありがとうございます」
「どういたしまして。新参者のファンですが、末永く応援させてください」
おどけて笑い合ってから、想は早速自宅マンションへと車を走らせ始めた。
「大丈夫かな。私と一緒にいるところ、週刊誌に撮られたりしない?」
「地下駐車場には誰も入って来られない。そこからエレベーターで直接部屋のフロアまで上がるから。あ、その時は後部座席にいて。窓にスモーク貼ってある」
「うん、わかった。今のうちに移動しておくね」
信号待ちの間に、小夜は後ろのシートに移動した。
「まあ、誰も俺のことなんて追いかけてないと思うけどね」
「なに言ってんの! そんなこと絶対にないから」
「けど、もし撮られても構わない。俺はこれからもずっと小夜と一緒にいるんだし、隠すようなやましいこともないんだから」
至って真剣な口調の想に、小夜は嬉しくなる。
だがそれではいけないと気を引き締めた。
「あのね、私この間ホテルで本田さんに会ったの」
「ああ、聞いた。小夜とつき合うことにしたって、俺からも言っておいたから」
「そう。でも本田さんの為にもファンの人たちの為にも、やっぱりこの関係は世間に知られない方がいいと思う。本田さん、ずっと想について一緒に売り出してくれたんでしょう? やっとここまで来たのに私とのことが広まったら、ファンの人たちはきっと怒るし、悲しむと思うから」
「それでファンが離れていっても、仕方ないと思ってる。だけど小夜に嫌がらせの矛先が向いたり、マスコミに追いかけられるのは許さない。小夜を守る為に、しばらくは秘密にしておいた方がいいな」
「うん。ごめんね、私がもっと想にふさわしかったらファンの人も納得させられて、秘密にするなんて後ろめたいこともせずに済んだのに」
「なに言ってんだ。俺が小夜を選んだんだ。小夜しかいない。誰がなんと言おうと、どんな状況に陥ろうと、俺は小夜だけは離さないから」
力のこもった言葉に、小夜は胸がいっぱいになる。
「ありがとう、想。私も想を守りたい。そういう存在になれるように、がんばるから」
「がんばる必要なんてない。小夜は俺のそばにいてくれるだけでいい。本当にただそれだけでいいんだからな」
「うん、わかった」
バックミラー越しに微笑み合う。
やがて大きなタワーマンションが見えてきた。
「あそこなの? 想が住んでるマンション」
「ああ」
ホテルのロータリーのような広いエントランスを通り過ぎ、駐車場へと下りるスロープの途中で、想はリモコンでシャッターを上げた。
車を中に進めると、奥の一角に駐車する。
「着いたぞ。そこのエレベーターで上がろう」
「うん」
荷物を手にすると、さり気なく想がすべて手に持った。
「ありがとう」
「これくらい」
スッと歩き始めた想の陰に隠れるように、小夜はピタリと身を寄せて歩く。
「ははっ、可愛いな、小夜」
「なにが?」
「なんか、すり寄って来る子鹿みたい」
「え? 鹿せんべいほしさに?」
「そう、奈良公園の子鹿。よしよし、可愛いな。ほーら、おせんべいだよー」
ぐりぐりと頭をなでられ、小夜はムッとしながら想を見上げる。
「あのおせんべい、そんなに美味しくないもん」
「えっ! 小夜、まさか食べたのか?」
「うん、味見してみた」
「そんなやつ初めて見た。大丈夫かよ? 腹壊さなかったか?」
「平気だったよ。でも人間は食べない方がいいみたい」
「当たり前だろ? 小夜、顔に似合わずすごいことするな」
「たまに言われる。小夜って案外ツヨツヨだねって」
「うん、びっくりした。小夜、ツヨツヨ」
真剣に呟いた想の言葉は、小夜のツボにはまる。
「あはは! なにそれ、韻を踏んでるの?」
「そう。新曲のタイトルにしようかな」
「小夜、ツヨツヨって? どんな歌詞なの?」
「小夜ツヨツヨ、ツヨツヨ小夜、小夜ツヨー、みたいな」
小夜はお腹を抱えて笑い転げる。
「ひー! やめて。頭の中でぐるぐる回っちゃう。ラップみたい」
「ヨ―、ヨー、サヨツヨー。ツヨツヨサヨツヨー」
真面目におどける想に、小夜は笑いすぎて目尻に涙まで浮かべた。
「く、苦しい。もうやめて」
「なんか新たな曲の扉が開けたな。デモ作って本田さんに渡そう」
「即、却下だから!」
そうしているうちにエレベーターが三十階に着き、想は小夜を角部屋に案内した。
「ここだ。どうぞ」
「お邪魔します。わあ、広い、素敵!」
大理石の玄関の奥には長い廊下があり、開け放たれたドアの先に夜景が見えた。
想が廊下を歩き出すと、センサーでパッと照明がつく。
真っ直ぐ歩いてリビングに入ると、そこはホテルのスイートルームのように広くて洗練された雰囲気だった。
そして中央に、グランドピアノが置いてある。
「えっ、すごい。ここって防音なの?」
「ああ。二十四時間ビアノを弾ける」
「なんて贅沢なの」
「あとで小夜も弾いてみな。それよりすごい荷物だけど、これなにが入ってるんだ?」
言われて小夜は我に返った。
「大変! あと十五分しかない」
「なにが?」
「カウントダウン! 年越しそば食べる前に年が明けちゃう。想、キッチン貸して」
「いいけど。ロクな道具はないぞ」
言葉通り、フライパンしかない。
仕方なく深さのあるフライパンで、そばを茹でた。
持って来た海老の天ぷらとかき揚げを載せて、テーブルに運ぶ。
「では、いただきます」
早速二人で手を合わせた。
「うまいな。年越しそばなんて、何年ぶりだろ」
想はじっくりと味わいながら食べている。
「そうなの? いつもどうやって年越ししてたの?」
「んー、気づくと明けてる」
「ええ? そんなぬるっと?」
「そう、ぬるっと」
「だめだよ。じゃあ今年は、テレビでジルベスターコンサート観よう」
そばを食べ終えてソファに移動し、テレビをつけると、ちょうどカウントダウンの曲が始まったところだった。
「へえ。レスピーギの交響詩『ローマの松』から『アッピア街道の松』か。渋いな」
「静かに始まって、最後はすごい迫力になるよね。カウントダウンにぴったりじゃない?」
「ああ。なんかゾクゾクする」
二人で固唾を呑んで演奏を見守る。
ピアニッシモで遠くからやって来る軍隊の行進は、曲が進むにつれて力強さを増していく。
カウントダウンが近づくドキドキと相まって、心臓の鼓動もクレッシェンドしていった。
舞台上の管弦楽器だけでなく、二階の客席からバンダ隊のファンファーレが加わり、ラストはフォルティッシモで壮大に響かせる。
最後の一音がピタリと時計にはまり、パン!とキャノン砲から紙吹雪が舞った。
「きゃー、ぴったり!」
「ああ。気持ちいいな」
小夜は笑顔で新年の挨拶をする。
「明けましておめでとう、想」
「おめでとう、小夜。こんなに幸せな新年の幕開けは初めてだ」
「ふふっ、いい年になりそう?」
「ああ。今年は必ず小夜を幸せにする」
照れてうつむく小夜に、想は優しくキスをした。
*
「小夜、なにか弾いて」
しばらくすると想は立ち上がり、グランドピアノに小夜を促す。
「ええ? 想みたいに上手くないよ」
「小夜の演奏が聴きたい。俺にとっては最高の音楽だから」
真剣な眼差しで言うと、小夜はおずおずとピアノの前に座った。
「なにを弾こうかな」と呟き、ふと隣に立つ想を見上げる。
ピアノに少し腕をかけて、想は「ん?」と穏やかに小夜を見つめた。
小夜はふっと微笑むと、鍵盤に両手を載せる。
そっと奏で始めた曲は、ショパンの夜想曲。
『ノクターン第二番』
優しく美しく、小夜はにごりのない澄んだ音色を響かせる。
心が浄化されるような気がして、想は目を閉じた。
幸せが胸いっぱいに込み上げる。
まるで小夜が自分を温かく抱きしめてくれるような気がした。
ずっと一人だった孤独な日々。
すっかり冷たくなった心。
それが小夜によって温かく溶かされ、喜びで満たしてくれる。
もう二度とこれまでの日々には戻れない。
こんな幸福を知ってしまったから。
もう二度と一人にはなれない。
小夜と出逢ってしまったから。
目がくらみそうなほどの幸せに、本当に掴んでいいのかとさえ思う。
だが小夜の音色は、恐れおののく自分の戸惑いも、大きく包み込んでくれる気がした。
小夜が音に乗せて届けてくれた想いに、自分も音で返したい。
やがてゆっくりと演奏を終え、照れたように可憐な微笑みを浮かべる小夜にキスをすると、今度は自分がピアノに向かう。
小夜に、小夜だけに捧げる曲は、もちろんセレナーデ『小夜曲』
バーでの演奏を最初で最後にするつもりだったが、こうして直接小夜に届けられることが嬉しい。
想はありったけの想いを込めて奏でた。
小夜への愛、感謝、幸せ、切なさと愛おしさ。
言葉にできない想いをすべて音に込めた。
じっと隣で聴き入っていた小夜は、想が演奏を終えるとぽろぽろと涙をこぼしながら、ギュッと抱きついてきた。
「ありがとう、想」
「こちらこそ。この曲を書かせてくれてありがとう、小夜」
二人でいつまでも互いを抱きしめ合っていた。
小夜は朝から大掃除をして、おせち料理を作る。
夜に軽く食事をしながらテレビを見ていると、生放送の音楽番組で豪華なアーティストたちが一堂に会して歌っていた。
その中に、想の姿もある。
(わあ、かっこいい!)
サイドの髪を整え、黒いジャケットを着た想は、華やかな他のアーティストと並んでもひと際目を引いていた。
(なんか、オーラが違う。寡黙だけどそこにいるだけで存在感があるというか。こんな人と二人きりで話したなんて、信じられない)
ただ話すだけではなかったが、そこから先は考えただけで頭から火が噴き出そうだった。
出演者たちはお祭り騒ぎのように、その年のヒット曲を次々と披露して盛り上げる。
トークも交えて終始楽しい雰囲気だったが、やがて想の出番になり、司会者の隣まで歩み出た想にお決まりの質問がされた。
「想さんにとって、今年はどんな一年でしたか?」
想は落ち着いた雰囲気で、ゆっくりと言葉を選んだ。
「今年は、出逢いと実りの年でした。音楽に関しても、新たな道が拓けたと思っています」
「では、来年はどんな年にしたいですか?」
「来年は……」
少し考えてから、想はカメラを見つめてはっきりと告げる。
「幸せな一年にしたいです」
ずっと真顔だった想が少し微笑んでいて、小夜は思わずドキッとする。
まるで自分と目が合い、自分に言ってくれているような気がした。
(幸せな年に……。それは、私と?)
厚かましくもそう考えてしまう。
(そう思ってくれてたらいいな)
やがて想がピアノの前に移動し、司会者が曲紹介をする。
「それでは、今年も大活躍だった想さんのヒット曲。『真夏のピエロ』と『Snowy Crystal』を二曲続けてお聴きください」
画面が変わり、想の横顔がアップで捉えられる。
ドラムのフィルインで曲が始まった。
明るく賑やかなサウンドにピアノが加わる。
楽しげに演奏するバンドマンたちの中で、愁いを帯びた表情の想が少し物哀しいメロディを奏でた。
『真夏のピエロ』
やっぱりこの曲は。想が明るさの中に本音を隠した曲だったのだと、小夜は改めて気づく。
そして二曲目の『Snowy Crystal』
想だけがステージに残り、グランドピアノを弾きながらゆったりと歌い出す。
自分の気持ちをそのまま音に込めて。
素直に真っ直ぐに、想の想いが伝わってきた。
(素敵。想って、内に秘めてるものが人を惹きつけるんだろうな。想の生き様とか、抱えているものすべて)
生き方、考え方、人生そのものを、想は音で表現する。
だからこんなにも心惹かれるのだ。
それはきっと、想自身が魅力に溢れた人だから。
小夜はそんなふうに感じながら、テレビの向こうの想の演奏にうっとりと聴き惚れていた。
◇
【着いたよ】
メッセージを見て、小夜はすぐさま返信する。
【はい。今行きますね】
まとめておいた荷物を手に、急いで部屋を出る。
時刻は二十三時を回っており、辺りは静まり返っていた。
エントランスから少し離れた暗がりに想の小型のSUVが止まっているのが見えて、小夜はタタッと駆け寄った。
想が中からドアを開け、小夜は素早く乗り込む。
ふう、と息をついてから、想を見上げて笑いかけた。
「お疲れ様。演奏、とっても素敵だったよ」
「聴いてくれたのか?」
「もちろん。ファンクラブに入ったから、出演情報もバッチリよ」
「ははっ! ご入会ありがとうございます」
「どういたしまして。新参者のファンですが、末永く応援させてください」
おどけて笑い合ってから、想は早速自宅マンションへと車を走らせ始めた。
「大丈夫かな。私と一緒にいるところ、週刊誌に撮られたりしない?」
「地下駐車場には誰も入って来られない。そこからエレベーターで直接部屋のフロアまで上がるから。あ、その時は後部座席にいて。窓にスモーク貼ってある」
「うん、わかった。今のうちに移動しておくね」
信号待ちの間に、小夜は後ろのシートに移動した。
「まあ、誰も俺のことなんて追いかけてないと思うけどね」
「なに言ってんの! そんなこと絶対にないから」
「けど、もし撮られても構わない。俺はこれからもずっと小夜と一緒にいるんだし、隠すようなやましいこともないんだから」
至って真剣な口調の想に、小夜は嬉しくなる。
だがそれではいけないと気を引き締めた。
「あのね、私この間ホテルで本田さんに会ったの」
「ああ、聞いた。小夜とつき合うことにしたって、俺からも言っておいたから」
「そう。でも本田さんの為にもファンの人たちの為にも、やっぱりこの関係は世間に知られない方がいいと思う。本田さん、ずっと想について一緒に売り出してくれたんでしょう? やっとここまで来たのに私とのことが広まったら、ファンの人たちはきっと怒るし、悲しむと思うから」
「それでファンが離れていっても、仕方ないと思ってる。だけど小夜に嫌がらせの矛先が向いたり、マスコミに追いかけられるのは許さない。小夜を守る為に、しばらくは秘密にしておいた方がいいな」
「うん。ごめんね、私がもっと想にふさわしかったらファンの人も納得させられて、秘密にするなんて後ろめたいこともせずに済んだのに」
「なに言ってんだ。俺が小夜を選んだんだ。小夜しかいない。誰がなんと言おうと、どんな状況に陥ろうと、俺は小夜だけは離さないから」
力のこもった言葉に、小夜は胸がいっぱいになる。
「ありがとう、想。私も想を守りたい。そういう存在になれるように、がんばるから」
「がんばる必要なんてない。小夜は俺のそばにいてくれるだけでいい。本当にただそれだけでいいんだからな」
「うん、わかった」
バックミラー越しに微笑み合う。
やがて大きなタワーマンションが見えてきた。
「あそこなの? 想が住んでるマンション」
「ああ」
ホテルのロータリーのような広いエントランスを通り過ぎ、駐車場へと下りるスロープの途中で、想はリモコンでシャッターを上げた。
車を中に進めると、奥の一角に駐車する。
「着いたぞ。そこのエレベーターで上がろう」
「うん」
荷物を手にすると、さり気なく想がすべて手に持った。
「ありがとう」
「これくらい」
スッと歩き始めた想の陰に隠れるように、小夜はピタリと身を寄せて歩く。
「ははっ、可愛いな、小夜」
「なにが?」
「なんか、すり寄って来る子鹿みたい」
「え? 鹿せんべいほしさに?」
「そう、奈良公園の子鹿。よしよし、可愛いな。ほーら、おせんべいだよー」
ぐりぐりと頭をなでられ、小夜はムッとしながら想を見上げる。
「あのおせんべい、そんなに美味しくないもん」
「えっ! 小夜、まさか食べたのか?」
「うん、味見してみた」
「そんなやつ初めて見た。大丈夫かよ? 腹壊さなかったか?」
「平気だったよ。でも人間は食べない方がいいみたい」
「当たり前だろ? 小夜、顔に似合わずすごいことするな」
「たまに言われる。小夜って案外ツヨツヨだねって」
「うん、びっくりした。小夜、ツヨツヨ」
真剣に呟いた想の言葉は、小夜のツボにはまる。
「あはは! なにそれ、韻を踏んでるの?」
「そう。新曲のタイトルにしようかな」
「小夜、ツヨツヨって? どんな歌詞なの?」
「小夜ツヨツヨ、ツヨツヨ小夜、小夜ツヨー、みたいな」
小夜はお腹を抱えて笑い転げる。
「ひー! やめて。頭の中でぐるぐる回っちゃう。ラップみたい」
「ヨ―、ヨー、サヨツヨー。ツヨツヨサヨツヨー」
真面目におどける想に、小夜は笑いすぎて目尻に涙まで浮かべた。
「く、苦しい。もうやめて」
「なんか新たな曲の扉が開けたな。デモ作って本田さんに渡そう」
「即、却下だから!」
そうしているうちにエレベーターが三十階に着き、想は小夜を角部屋に案内した。
「ここだ。どうぞ」
「お邪魔します。わあ、広い、素敵!」
大理石の玄関の奥には長い廊下があり、開け放たれたドアの先に夜景が見えた。
想が廊下を歩き出すと、センサーでパッと照明がつく。
真っ直ぐ歩いてリビングに入ると、そこはホテルのスイートルームのように広くて洗練された雰囲気だった。
そして中央に、グランドピアノが置いてある。
「えっ、すごい。ここって防音なの?」
「ああ。二十四時間ビアノを弾ける」
「なんて贅沢なの」
「あとで小夜も弾いてみな。それよりすごい荷物だけど、これなにが入ってるんだ?」
言われて小夜は我に返った。
「大変! あと十五分しかない」
「なにが?」
「カウントダウン! 年越しそば食べる前に年が明けちゃう。想、キッチン貸して」
「いいけど。ロクな道具はないぞ」
言葉通り、フライパンしかない。
仕方なく深さのあるフライパンで、そばを茹でた。
持って来た海老の天ぷらとかき揚げを載せて、テーブルに運ぶ。
「では、いただきます」
早速二人で手を合わせた。
「うまいな。年越しそばなんて、何年ぶりだろ」
想はじっくりと味わいながら食べている。
「そうなの? いつもどうやって年越ししてたの?」
「んー、気づくと明けてる」
「ええ? そんなぬるっと?」
「そう、ぬるっと」
「だめだよ。じゃあ今年は、テレビでジルベスターコンサート観よう」
そばを食べ終えてソファに移動し、テレビをつけると、ちょうどカウントダウンの曲が始まったところだった。
「へえ。レスピーギの交響詩『ローマの松』から『アッピア街道の松』か。渋いな」
「静かに始まって、最後はすごい迫力になるよね。カウントダウンにぴったりじゃない?」
「ああ。なんかゾクゾクする」
二人で固唾を呑んで演奏を見守る。
ピアニッシモで遠くからやって来る軍隊の行進は、曲が進むにつれて力強さを増していく。
カウントダウンが近づくドキドキと相まって、心臓の鼓動もクレッシェンドしていった。
舞台上の管弦楽器だけでなく、二階の客席からバンダ隊のファンファーレが加わり、ラストはフォルティッシモで壮大に響かせる。
最後の一音がピタリと時計にはまり、パン!とキャノン砲から紙吹雪が舞った。
「きゃー、ぴったり!」
「ああ。気持ちいいな」
小夜は笑顔で新年の挨拶をする。
「明けましておめでとう、想」
「おめでとう、小夜。こんなに幸せな新年の幕開けは初めてだ」
「ふふっ、いい年になりそう?」
「ああ。今年は必ず小夜を幸せにする」
照れてうつむく小夜に、想は優しくキスをした。
*
「小夜、なにか弾いて」
しばらくすると想は立ち上がり、グランドピアノに小夜を促す。
「ええ? 想みたいに上手くないよ」
「小夜の演奏が聴きたい。俺にとっては最高の音楽だから」
真剣な眼差しで言うと、小夜はおずおずとピアノの前に座った。
「なにを弾こうかな」と呟き、ふと隣に立つ想を見上げる。
ピアノに少し腕をかけて、想は「ん?」と穏やかに小夜を見つめた。
小夜はふっと微笑むと、鍵盤に両手を載せる。
そっと奏で始めた曲は、ショパンの夜想曲。
『ノクターン第二番』
優しく美しく、小夜はにごりのない澄んだ音色を響かせる。
心が浄化されるような気がして、想は目を閉じた。
幸せが胸いっぱいに込み上げる。
まるで小夜が自分を温かく抱きしめてくれるような気がした。
ずっと一人だった孤独な日々。
すっかり冷たくなった心。
それが小夜によって温かく溶かされ、喜びで満たしてくれる。
もう二度とこれまでの日々には戻れない。
こんな幸福を知ってしまったから。
もう二度と一人にはなれない。
小夜と出逢ってしまったから。
目がくらみそうなほどの幸せに、本当に掴んでいいのかとさえ思う。
だが小夜の音色は、恐れおののく自分の戸惑いも、大きく包み込んでくれる気がした。
小夜が音に乗せて届けてくれた想いに、自分も音で返したい。
やがてゆっくりと演奏を終え、照れたように可憐な微笑みを浮かべる小夜にキスをすると、今度は自分がピアノに向かう。
小夜に、小夜だけに捧げる曲は、もちろんセレナーデ『小夜曲』
バーでの演奏を最初で最後にするつもりだったが、こうして直接小夜に届けられることが嬉しい。
想はありったけの想いを込めて奏でた。
小夜への愛、感謝、幸せ、切なさと愛おしさ。
言葉にできない想いをすべて音に込めた。
じっと隣で聴き入っていた小夜は、想が演奏を終えるとぽろぽろと涙をこぼしながら、ギュッと抱きついてきた。
「ありがとう、想」
「こちらこそ。この曲を書かせてくれてありがとう、小夜」
二人でいつまでも互いを抱きしめ合っていた。
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