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一皿目 採用試験と練り切り
その4 夕さりに到着
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「あの店が『甘味堂夕さり』だ。一階が店舗で二階は俺の住居になっている」
咲人が指さしたのは、周囲を高い樹木に囲まれた落ち着いた和風の料理店で、屋根は深緑色で壁は白色だ。
二階建ての建物の奥に広い庭が見え、入口横に『甘味堂夕さり 本日定休日』と看板が出ている。
「わぁ……和風の趣が全体を包んで、素敵なお店ですね」
思わずつぶやくと、咲人が射抜くような眼差しを向け、真剣に訊いてきた。
「気に入ったか?」
「はい。温泉宿みたいな雰囲気に癒されます。広い庭に色とりどりのお花がたくさん咲いているし、なんだかとても落ち着きます」
「そうか。では中へ入ってくれ」
安堵した表情で、咲人が鍵を開けた。ガラッと音を立てて扉を引き、菜々美に入るように促す。
「失礼します……店内も広くて趣がありますね」
クリーム色の壁と高い天井の店内は、大きな窓から陽射しが入り、明るく清潔な雰囲気だ。
広い店内の中央に冷蔵ケースが鎮座し、その奥に対面式の厨房とカウンター席とテーブル席がある。
(ここで働けるといいな……)
店内を見回していると、彼が咳ばらいをして、尋ねてきた。
「早速だが、何を……そうだな『えくぼ』はどうだ? 作れるか?」
「え、えくぼですか?」
この人の話はいつも突然だと思いながら、美月の愛らしいえくぼを思い出す。微笑んだ美月の両頬に、きれいなえくぼができるのだ。
双子だが似ていない菜々美は、片方の頬に少しだけ、えくぼができる。
「私はこんな感じで、片方だけ、えくぼが出来ます」
菜々美がぎこちなく微笑んでみせると、咲人は目を丸くした。
「――違う。薯蕷饅頭の主菓子、えくぼ薯蕷のことだ」
菜々美はハッと我に返った。薯蕷とは山芋のことで、すりおろした山の芋に砂糖をすり混ぜ、米粉と合わせた皮で餡を包み、ふっくらと蒸し上げて作ったものだ。
薯蕷饅頭の基本が『えくぼ』で、薄皮を一枚向いたものが『おぼろ』。柚子皮を生地に練り込み色を変えたものが『柚子』という。
えくぼ薯蕷は、よく母が買ってくるし、菜々美も正月に作ったことがある。それなのにえくぼを作れるかと問われて、笑顔を作るなんて。
(――私のバカ……!)
恥ずかしくて冷や汗が出た。あわてて頭を下げる。
「すみません。頂に赤い点がひとつの白いお饅頭ですね。もちろん、いただいたことがあります。ふんわりしっとりし滑らかな皮と山芋の風味と餡が混ざり合って、とても美味しかったです。一応、作ったこともあります」
咲人は安心したようにコクリと頷いた。
「そうだ。正月から節分に好んで食べられている慶事の和菓子だ。それで、お前はどんな和菓子が好きなんだ?」
「和菓子でしたら、どれも好きです。この時期でしたら『水無月』が美味しいと思います。家で作ってみましたが、母が美味しいと言ってくれました」
「ほう、『水無月』を作ったのか。食べたご家族が喜んでくれてよかったな」
咲人は初めて小さく微笑んだ。
「……っ」
初めて自分に向けられた咲人の笑顔を正面から見た菜々美は、心臓が止まるかと思い、胸を押さえた。
ドクンドクンと鼓動が早鐘を打ち付けていく。咲人がすっとカウンターの奥へ行き、白色のエプロンを持ってきた。
「これから実際に和菓子を作ってもらうが、そのリクルートスーツで調理は無理だろう。これに着替えろ。奥に控室がある」
菜々美はありがたく受け取り、奥の部屋でスーツの上着を脱いでエプロンをつけ、下ろしていた肩まである髪をポニーテールにした。
「お待たせしました」
「そうだな。初夏の練り切りをひとつ作ってもらう。厨房の中へ入れ」
「はい!」
厨房の中は、へらや棒、ふるい、木型、陶型、焼き印などがずらりと揃っている。
和菓子を作る道具は、家庭用のステンレス製、シリコン製なども開発されているが、咲人は天然素材の道具を大切に愛用しているようだ。
「餡は俺が作ったものを使ってもらう。他の材料と道具は、すべて店のものを使ってくれて構わない」
目の前に置かれたのは、初夏に相応しい涼しげな和菓子と、黒文字という和菓子用のようじが載った銘々皿とレシピのメモだ。
「きれいな練り切り……」
練り切りとは、水分を飛ばした餡に求肥を加えて練り込み、繊細な細工をほどこした生菓子で、形がしっかり作りやすく、色も自由に染めることができる。
「では始めてくれ」
深呼吸して、菜々美はまず、求肥作りに取りかかった。
求肥は、もち米を粉末にしたものに水、そして砂糖や水あめを加えて練り上げたもので、古くは牛皮とも記載された。牛のなめしのように白く、なめらかで弾力性を併せ持った餅生地だ。
(短時間で、美味しい練り切りを作らなきゃ……!)
焦燥から、菜々美は無理な体勢で粉類を混ぜようとして、靴底がずるりと滑った。
ものすごい勢いで体が後方へ傾き、視界いっぱいに天井が広がった。
動揺とともに「ひぃ……」と変な声が出て、さらに慌ててしまう。
咲人が指さしたのは、周囲を高い樹木に囲まれた落ち着いた和風の料理店で、屋根は深緑色で壁は白色だ。
二階建ての建物の奥に広い庭が見え、入口横に『甘味堂夕さり 本日定休日』と看板が出ている。
「わぁ……和風の趣が全体を包んで、素敵なお店ですね」
思わずつぶやくと、咲人が射抜くような眼差しを向け、真剣に訊いてきた。
「気に入ったか?」
「はい。温泉宿みたいな雰囲気に癒されます。広い庭に色とりどりのお花がたくさん咲いているし、なんだかとても落ち着きます」
「そうか。では中へ入ってくれ」
安堵した表情で、咲人が鍵を開けた。ガラッと音を立てて扉を引き、菜々美に入るように促す。
「失礼します……店内も広くて趣がありますね」
クリーム色の壁と高い天井の店内は、大きな窓から陽射しが入り、明るく清潔な雰囲気だ。
広い店内の中央に冷蔵ケースが鎮座し、その奥に対面式の厨房とカウンター席とテーブル席がある。
(ここで働けるといいな……)
店内を見回していると、彼が咳ばらいをして、尋ねてきた。
「早速だが、何を……そうだな『えくぼ』はどうだ? 作れるか?」
「え、えくぼですか?」
この人の話はいつも突然だと思いながら、美月の愛らしいえくぼを思い出す。微笑んだ美月の両頬に、きれいなえくぼができるのだ。
双子だが似ていない菜々美は、片方の頬に少しだけ、えくぼができる。
「私はこんな感じで、片方だけ、えくぼが出来ます」
菜々美がぎこちなく微笑んでみせると、咲人は目を丸くした。
「――違う。薯蕷饅頭の主菓子、えくぼ薯蕷のことだ」
菜々美はハッと我に返った。薯蕷とは山芋のことで、すりおろした山の芋に砂糖をすり混ぜ、米粉と合わせた皮で餡を包み、ふっくらと蒸し上げて作ったものだ。
薯蕷饅頭の基本が『えくぼ』で、薄皮を一枚向いたものが『おぼろ』。柚子皮を生地に練り込み色を変えたものが『柚子』という。
えくぼ薯蕷は、よく母が買ってくるし、菜々美も正月に作ったことがある。それなのにえくぼを作れるかと問われて、笑顔を作るなんて。
(――私のバカ……!)
恥ずかしくて冷や汗が出た。あわてて頭を下げる。
「すみません。頂に赤い点がひとつの白いお饅頭ですね。もちろん、いただいたことがあります。ふんわりしっとりし滑らかな皮と山芋の風味と餡が混ざり合って、とても美味しかったです。一応、作ったこともあります」
咲人は安心したようにコクリと頷いた。
「そうだ。正月から節分に好んで食べられている慶事の和菓子だ。それで、お前はどんな和菓子が好きなんだ?」
「和菓子でしたら、どれも好きです。この時期でしたら『水無月』が美味しいと思います。家で作ってみましたが、母が美味しいと言ってくれました」
「ほう、『水無月』を作ったのか。食べたご家族が喜んでくれてよかったな」
咲人は初めて小さく微笑んだ。
「……っ」
初めて自分に向けられた咲人の笑顔を正面から見た菜々美は、心臓が止まるかと思い、胸を押さえた。
ドクンドクンと鼓動が早鐘を打ち付けていく。咲人がすっとカウンターの奥へ行き、白色のエプロンを持ってきた。
「これから実際に和菓子を作ってもらうが、そのリクルートスーツで調理は無理だろう。これに着替えろ。奥に控室がある」
菜々美はありがたく受け取り、奥の部屋でスーツの上着を脱いでエプロンをつけ、下ろしていた肩まである髪をポニーテールにした。
「お待たせしました」
「そうだな。初夏の練り切りをひとつ作ってもらう。厨房の中へ入れ」
「はい!」
厨房の中は、へらや棒、ふるい、木型、陶型、焼き印などがずらりと揃っている。
和菓子を作る道具は、家庭用のステンレス製、シリコン製なども開発されているが、咲人は天然素材の道具を大切に愛用しているようだ。
「餡は俺が作ったものを使ってもらう。他の材料と道具は、すべて店のものを使ってくれて構わない」
目の前に置かれたのは、初夏に相応しい涼しげな和菓子と、黒文字という和菓子用のようじが載った銘々皿とレシピのメモだ。
「きれいな練り切り……」
練り切りとは、水分を飛ばした餡に求肥を加えて練り込み、繊細な細工をほどこした生菓子で、形がしっかり作りやすく、色も自由に染めることができる。
「では始めてくれ」
深呼吸して、菜々美はまず、求肥作りに取りかかった。
求肥は、もち米を粉末にしたものに水、そして砂糖や水あめを加えて練り上げたもので、古くは牛皮とも記載された。牛のなめしのように白く、なめらかで弾力性を併せ持った餅生地だ。
(短時間で、美味しい練り切りを作らなきゃ……!)
焦燥から、菜々美は無理な体勢で粉類を混ぜようとして、靴底がずるりと滑った。
ものすごい勢いで体が後方へ傾き、視界いっぱいに天井が広がった。
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