あやかし甘味堂で婚活を

一文字鈴

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一皿目 採用試験と練り切り

その3 辞めたくなかった

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 雑木林の上から日差しが光の雫となってこぼれる幻想的な雰囲気の中を、菜々美と咲人は無言で歩いて行く。

「質問がある」
「はい」

 斜め前を歩きながら、咲人が低い声で聞いてきた。

「働いていたカフェを三か月でクビになっているが、理由を知りたい」

 やはり聞かれた。この質問は必ず出るだろうと思っていた。そして嘘偽りなく答えようと、菜々美は覚悟してきた。
 こうして歩きながら話すほうが、改まった面接の席より、言いやすいかもしれない。
 菜々美は深呼吸をして気持ちを落ち着けた。

「退職したのは、カフェのオーナーとトラブルがあったからです……」


 菜々美はこの春、調理の専門学校を卒業し、岡山駅前から一本中に入った通りにある、小さなカフェに就職した――。

「菜々美ちゃん、オーダー! ピザトースト、パンケーキ、クレープです」
「はいっ」

 カフェの厨房にポーンと響く、厨房用端末の電子音が、菜々美は好きだった。
 手早くオーダーのピザトーストを作る。ふっくらした生地に濃厚なトマトソースをたっぷり塗り、薄くスライスしたベーコンとピーマン、玉葱を載せて、たっぷりとチーズを散らすのだ。

 香ばしく焼けたピザトーストを皿に盛りつけながら、お客さんが喜ぶ顔を思い浮かべ、菜々美は思わず笑みを浮かべる。
 きめ細かくふわりと焼き上がった、パンケーキの上でとろけるバターの匂い。
 カスタードクリームと苺とラズベリーを巻いたクレープの、メープルシロップと生クリームの濃厚な甘味。
 溶けたバターと砂糖の甘い香りが口の中に広がり、カリカリとした歯ごたえとシナモンの味が混ざり合うチュロス。

 厨房内は蒸し暑く、立ちっぱなしの仕事だが、料理好きな菜々美は楽しくて一日があっという間だった。
 最初の頃は足が痛くなったが、三か月もするとすっかり慣れた。厨房にいるとほっとしたし、美味しそうに食べる客席の様子を見るたびに元気が出た。
 このカフェに就職できてよかったと思っていたある日、菜々美の職場の様子が見たいと、美月がカフェを訪れたのだ。
 そしてカフェのオーナー、山本が美月の連絡先を執拗に尋ねるようになり、きっぱりと断り続けた菜々美は、退職せざるを得ない状態に追い込まれた――。

 そこまで話すと、咲人は「わかった」と手のひらを菜々美の方へ向けて言葉を遮った。

「つまり、カフェのオーナーがお前の妹を好きになり、連絡先を教えろと脅した挙句、断ったお前をクビにしたと……。ひどい話だ。辛かったな。辞めたくなかっただろうに」

 それだけ言うと、彼は前を向いて歩き出した。

「……あ、いえ、あの……」

 不覚にも目の奥が熱くなって、菜々美は泣きそうになってしまう。

(そうだ。私は……本当はカフェを辞めたくなかった。山本オーナー以外のスタッフは優しかったし、仕事はやりがいがあった……)

 呑み込んできた理不尽な想いが、咲人の一言で胸の中に露わになり、悔しさや切なさが混ざった気持ちが胸を強く締めつけてくる。
 涙が零れないように唇を噛みしめていると、先を歩いている咲人が振り返らずに言った。

「見えてきた。店だ」

 薄暗い雑木林を抜けると、眩い光に包まれた静かな朱色の橋の前に出た。その橋を渡ると大通りが見え、周囲に大きな家々が並んでいる。
 その町並みに沿うように澄んだ川が流れ、緑色を濃くした山々がそびえていた。

「ここは……どこでしょうか。岡山市内にこんな町が……」

 菜々美はピアスから振動を感じて、そっと左の耳朶に指先で触れた。
 ピアスが熱を帯びて熱くなっている。

「あの、このピアス、燃えてませんか?」
「熱くなるのは結界に反応しているせいだ。その翡翠は人界と異界を繋ぎ導くもので、ここは人界と異界の狭間はざまだ」
「は……?」

 人界と異界の狭間? 結界? 咲人の言葉の意味がわからず、菜々美は首を傾げる。
 
(今のは冗談かな……笑うところ?)

 どう反応していいのかわからず、菜々美は困惑しながらそっと彼を見たが、前を向いたままの彼の表情はよく見えなかった。


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