あやかし甘味堂で婚活を

一文字鈴

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四皿目 どら焼きと離婚寸前の夫婦

その8 迷いながら

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 出て行った濡れ女の方を見つめたまま、瑠璃がギリギリと奥歯を噛みしめた。美女が怒るとすごい迫力だ。

「不倫女が! よくも堂々と顔を出せたわね!」

 バリバリと音を立てて瑠璃の周囲が氷に包まれていく。蘭丸があわてて、「やめてよ、瑠璃さん」と言いながら、ポットを持ってきて熱湯をかけて溶かしている。

 そんな騒ぎの中、マリナがゆるゆると顔を上げた。

「あ、あたし……夫が浮気したとわかっても、嫌いになることができないんです。もう一度やり直したい……。でも、夫が今の女性と暮らすようになって、このまま別居になったら……父親が大好きな鬼之丞に寂しい思いをさせることに……あたし、どうすればいいのか……」
「マリナ、まだ夫を愛しているなら、無理に結論を急ぐことはない」

 咲人が静かに言うと、瑠璃も目元をゆるめて、マリナを励ます。

「あたしも、亡くなった夫をまだ愛しているのよぅ。彼が亡くなって五年経っても、全然忘れられないの。もう会えないし、声も聞けないけれど……。マリナさんがうらやましいわ」
「う、うぅ……っ」

 マリナは声を上げて泣き出した。
 さめざめと泣き、うずくまってしまったマリナの後方で、小さな声が聞こえた。

「かーちゃ?」

 目を覚ました小鬼の鬼之丞が、二階から降りてきたのだ。
 お店の中に母親のマリナがいるのを見て、つぶらな瞳がうるうると潤んだ。

「かーちゃ! かーちゃあぁぁ!」

 わあぁぁっと走り出し、泣きながらしがみつく鬼之丞を抱きしめ、マリナは何度も愛しい息子の名を呼ぶ。

「鬼之丞……! 鬼之丞! ああ、鬼之丞……会いたかったわ」
「かーちゃあぁぁっ、うわあぁぁん、ああぁぁん!」

 小さな鬼之丞を抱きしめ、マリナはしばらく動かなかった。

「鬼之丞にも辛い思いをさせて……ごめんね……あたし、本当にどうしたらいいのか……」

 咲人が二階を指差し、マリナに優しく声をかける。

「今夜は家へ泊まっていけばいい。鬼之丞も喜ぶ。蘭丸も泊まれ」
「えっ、僕も?」
「マリナだけ泊めるわけにはいかない。俺とマリナと鬼之丞だけで一晩過ごしたことを知ると、彼女の夫が誤解するかもしれないだろう?」

 蘭丸が悲鳴のような声を上げる。

「待って! 明さんが誤解したらどうするの? 僕、殺されちゃうよ」

 顎に手を当てて考え、咲人が顔を上げて菜々美を見た。

「それじゃあ、菜々美も泊まればいい」
「わ、私も?」
「三人なら明も何とも言わないだろう」
「え、で、でも……私……」

 泊まっていけと言う咲人の声が耳の奥で何度もリピートされ、菜々美は動揺して言葉が続かない。

「それがいいよ。咲人くんの家は広いから部屋はたくさんあるし、菜々美ちゃんを襲ったりしないよ。大丈夫だからね」

 蘭丸のあっけらかんとした口調に、動揺した自分がおかしくなって、菜々美は明るく、「わかりました」と答えた。

「いいな、楽しそう。あたしも泊まろうかな」
「バアちゃんまで?」
「蘭丸、誰がババアですって?」

 瑠璃の目が光り、氷のような風がピンポイントで蘭丸に吹き付ける。

「うわ、冷たいっ、ごめん、瑠璃さん」

 咲人が静かに口を開く。

「瑠璃は今夜、仕事があると言ってなかったか?」
「そうだったわ。今夜は猫又のご夫婦から、老け顔作りの特殊メイクの予約が入っているんだった。そろそろ準備しなくちゃ。残念だけど、帰るわね」

 ひらひらと手を振り、瑠璃は急いで帰って行った。
 菜々美はスマートフォンを取り出し、母の智子へ、『今夜は友達のところへ泊まります』とメールと送る。すぐに母から『楽しんできてね』と返事があった。
 それを見たマリナが「あたしも、夫へ連絡を入れておきます」と言った。
 愛人宅と家を行ったり来たりしている夫が、もし家に戻ってきて、自分がいないことを心配してはいけないから……と気遣う彼女が健気で、菜々美は深く長いため息を落とした。

「そいえば、濡女のあやかしさんが来たことは知らせないのですか?」
「ええ。それは夫と顔を合わせて、話そうと思います」

 マリナはスマートフォンで夫へメールを送った後、返事を気にしていたが、マリナの夫からメールも電話も何も返ってこなかった。
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