逃げた先に、運命

夢鴉

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二章 新しい自分

10-4 その色気は反則じゃないですか?

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「み、蜜希さ――ッ!? ングッ!? ゲホッ! ゴホッ!」
「えっ!? ちょっと、大丈夫?」

 ゴホゴホと咳を繰り返す。
 突然のことに湯気を思いっきり吸い込んでしまった。
 熱い空気が喉に刺さり、咳が止まらない。

 蜜希さんもこうなるとは思っていなかったのか、心配そうな顔で俺を見ている。
 俺は涙目になりながら、蜜希さんに問いかけた。

「な、でッ、! 蜜希さッ、ここッ、! ゲホッ!」
「落ち着いてから喋りなよ」

 蜜希さんは呆れたように言う。
 しかし、俺は聞かないと気が済まなかった。

 はーは―と必死に息をする俺。
 蜜希さんは背中側の肩を擦ってくれた。

「えー、うーんと。何でも何も、此処、僕の家の旅館だから」

 蜜希さんが困ったように頬を掻く。
 その言葉に、俺は『そりゃそうだ』と思った。
(一体何を聞いているんだ、俺は)
 パニックになりすぎて、変なことを言ってしまったらしい。

 蜜希さんは俺の咳が落ち着いたのを見て、ゆっくりと立ち上がる。
 湯船に足を入れ、俺の隣に体を沈めた。
 もちろん、タオルは着けていない。

 俺の目は、不思議と吸い寄せられるように、蜜希さんを追いかけていた。

 細く、骨ばった白い身体。
 首から上、肘から上が日に焼けて少しだけ肌の色が濃くなっている。

 濡れた髪が首筋を伝い、落ちていく。
 筋肉のあまりついていない身体を、以前蜜希さんはコンプレックスだと言っていたが――。

(きれい、だな)
 思わず口にしそうになった。
 飲み込んだ俺を、誰か褒めて欲しい。

「はー」と蜜希さんが小さく息を吐く。
 揺れる桃色の唇も、赤く紅潮する頬も、どれも美味しそうで。

 ごきゅり。
 俺は喉を鳴らしていた。
 妄想が行き過ぎているのか、なんだか甘い香りまでしてくる。

「暁月くん」
「!」
「そんなに見ないでくれるかな?」

 蜜希さんの目がいつの間にか俺を見ていた。
 恥じらいと叱咤を込めた視線に、俺は「あっ」と小さく声を零す。

「す、すみません」
「別にいいけど。見ても面白くないよ? 暁月くんみたいに筋肉あるわけじゃないし、お腹周りがちょっとやばくなってるけど」
「いや、そういう意味で見てたんじゃなくて」

 俺は言いかけて、ハッとする。

『蜜希さんの身体が綺麗だから見惚れてたんです』なんて言ったら。

(コレ、完璧にセクハラだよな?)
 最近は男同士や若者からのセクハラも多いという。
 自分はそう言った人種ではないと思っていたのに。

「どうかした?」
「あ、いや。その」
「なにさ。もしかして、僕に言えないことでも考えてた?」

 そうだけど、そうじゃない。
 俺は否定しようとして、けれど上手く出来なかった。
 その代わりに、話題を変えようと口を開いた。

「そ、それより、ずっと思ってたんですけど、蜜希さんってすごくいい匂いがしますよね?」
「えっ?」
「何ていうか、その、蜂蜜? みたいな、甘い感じ、なんです、け、ど……

 最後まで言って、俺は後悔した。

(さっきとなんも変わってねぇじゃねぇかッ!!)
 匂いって……! 匂いって!
 むしろ変態さが増したような気がするのは、気のせいだろうか。

 固まる蜜希さんに、俺は慌てて言い訳を探す。

「え、っと! その、柔軟剤だと思ってたんですけど、今もしてるし、もしかしてシャンプーとかかなって」
「……今もしてるの?」
「え? あ、はい。濡れてるからですかね。いつもよりはっきりわかりますよ」

 俺は鼻の下を指先で触りながら言う。
 蜜希さんは「そ、っか」と小さく呟いた。

(あー……これ、完全にやらかしたな)
 俺は悟る。
 まさか蜜希さんにセクハラまがいの事をしてクビになるとは思わなかった。
 さよなら、俺の有意義なバイト生活

 俺は両手で顔を覆った。
「何でもないです、忘れてください」と口早に言えば、ふはっと吹き出す声が聞こえる。

「もう、何言ってるのさ」
「っ、あの、さっきのは」
「わかってるよ。別に、深い意味はないんでしょ?」

 にやり。
 蜜希さんの意地の悪い微笑みが俺に向けられる。
 揶揄われるタネが増えたことを察知して、俺は全力で天を仰いだ。

(もうだめだ)
 今ならあの海に本当の意味で飛び込める気がする。
 気がするだけで、飛び込まないけど。

「今日の暁月くん、なんか変だね?」
「そう、ですか?」
「うん」

 蜜希さんは何かを思い出したのか、小さく笑みを浮かべた。
 揺れる髪から一滴、雫が落ちる。
 やはり何度見ても美味しそうな頬が、膨らんでいた。

(これは、やばいな)
 せっかく逸らした意識が一瞬で戻って来てしまった気がする。
 込み上げる感情をせき止めようとして、喉がくっと鳴った。

 好意を持った人の裸を見て、何も感じないほど、俺は朴念仁ではなかった。

「二人とも本気でやり始めるんだもん。僕すごく焦ったんだからね?」
「うん」
「周りの人もびっくりしてたし。知ってる? ボーリングで小さくだけど、観客出来てたの」
「……うん」
「カラオケもすごかったよね。あんなに良い声で歌うんだって、僕ドキドキしちゃった」

 蜜希さんの言葉に、俺は釣られるように蜜希さんを見る。
 上気した頬が赤く熟れて、おいしそうだった。

 蜜希さんの楽しそうな声に触れてみたくて、俺は無意識に手を伸ばす。
 指先が甘美な身に触れる瞬間――――

「暁月くん?」

 蜜色の瞳が俺をせき止めた。

「っ」
「どうしたの? 逆上せちゃった?」

「ぼーっとしてるみたいだけど」と言われ、俺は勢いよく手を引っ込めた。
(俺、今何して――)

「ッ、俺、先に上がります!」
「えっ」

 手を引っ込めた勢いのまま立ち上がる。
 蜜希さんの声を振り切るように、俺は脱衣所に向かった。

 ピシャンッと浴室への戸を閉め、大きく息を吸い込む。
 心臓がドックン、ドックンと和太鼓のような音で鳴り響いていた。

「平常心、へいじょうしん……」

 俺はそう呟きながら身体を拭き、服を着る。
 思考は風呂と罪悪感で茹っているのに、頭の奥では蜜希さんの裸がこびりついて離れなかった。

 思い出しては、その度に身体が熱くなっていくような気がする。
 深呼吸をして何とか追い出そうとするが、鼻先に居座った蜜希さんの甘い匂いに、それも出来そうになかった。

「落ち着け、俺」

 俺はそう言い聞かせながら、風呂場を後にした。

 ――そういえば、結局匂いの元は教えてもらえなかったな、と思い出しながら。


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