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二章 新しい自分
12-1 失恋
しおりを挟む翌朝。
俺が目覚めると、部屋の中に蜜希さんの姿はなかった。
フェロモンの残り香だけが、狭い部屋の中に居座っている。
「蜜希さん……?」
返事はなかった。
それが異様に虚しく感じて、俺はわざとらしく大きくため息を吐く。
「……逃げるなって言ったのに」
ぽつりと呟きながら、俺は起き上がる。
床で寝たからか、身体のあちこちが軋んでいる気がする。
(これ、夏じゃなかったら風邪ひいてたな)
苦笑いを浮かべそうになり、俺は口元に手を当てる。
ずっと我慢していたからか、歯が疼いているような気がする。
(俺、蜜希さんに噛みついたりしてないだろうな……?)
一瞬浮かぶ、嫌な想像。
慌てて床の上を見たが、血の跡はなかった。
噛んでいないと思いたいが……残念ながら、確かめる術がない。
(どうしよう)
俺は考え込む。
蜜希さんの安否が心の底から心配だが、勝手に家を徘徊してもいいものか。
「いやでも、もう先に上がり込んでるし、変わらなくないか?」
ブツブツと呟き、悩んでいれば、ふと甲高い電子音が鳴り響いた。
聞き覚えのない音に俺は肩を跳ね上げる。
周囲を見渡して、音を出している根源を見つけた。
それは小さなデジタル時計で。
「六時、五十分……?」
表示された時間に、俺はサァっと血の気が引いていくのを感じる。
「……やばい」
――遅刻する!!
俺は飛び出すようにして蜜希さんの部屋を後にした。
帰り際、諦めが悪い俺は、咄嗟に宵月家を出る前に家の中を振り返った。
「蜜希さん! 俺仕事行くんで、何かあったらフロントに連絡してください!」
返答はなかったと思う。
だが、ここで二の足を踏んでいる時間は無い。
俺は全力で離れまで駆け抜けた。
そのままの勢いで風呂に入り、準備をする。
朝礼開始は七時三十分。風呂から出た現在、七時十五分少し前。
(よし! 間に合う!)
俺はワックスで髪を整える時間もないまま、旅館へと駆け抜けた。
しかし、旅館に着いた瞬間、俺は女将さんに追い返された。
曰く、「旅館は客商売! 第一印象が肝心なのはわかってるわよね? 午後までに出直してらっしゃい」とのこと。
(せっかく急いだのに……)
そう思ったが、窓に映る自分の姿を見て追い返されても仕方ないなと反省した。
いくらバイトとはいえ、ボロボロの姿でお客さんの前に立たせられるわけがないだろう。
半分乾き始めている髪を指先で直しながら、俺は離れの扉を開けた。
急ぎ過ぎて鍵すらかけ忘れたらしい。
自分の間抜けさにため息が出る。
「あれ? 随分早いお帰りだったね、暁月くん」
「――!?」
瞬間、聞こえた声に俺は全身が跳び上がりそうなほど驚いた。
「み、蜜希さん!?」
「おはよう、暁月くん」
蜜希さんはにこりと笑って、小さく手を振った。
「いやぁ、お風呂入って部屋に戻ったらいなくなってたからびっくりしたよ」
「お、おはようございます……って、そうじゃなくて!」
「あ、おにぎり持ってきたけど食べる?」
「ありがとうございます」
ポン、とおにぎりが刺し出される。まだ温かい。
(相変わらず美味しそうな形だな)
って、だからそうじゃなくて――!!
「蜜希さん!」
「えっ、何?」
半ば叫ぶようにして名前を呼べば、びくりと震える蜜希さん。
異常なまでにいつも通りの蜜希さんについ流されそうになるが、聞きたいことは山のようにあるのだ。
(そうだ、まだ俺は何も知らない)
蜜希さんの事も、蜜希さんが考えていることも。
「あ、暁月くん? どうし――」
「体! 大丈夫、ですか?」
俯き、俺は問いかける。
蜜希さんは面食らったようだが、すぐにいつもの顔に戻った。
「ああ、うん。大丈夫だよ」
「そう、ですか。その、怪我とかしてないですか?」
「怪我?」
「俺が、その……噛んだり、とか」
緊張で声が震える。
俺は拳を握り込んだ。
走る痛みに、昨日も同じことをして、手のひらがずたずたになっているのを思い出した。
(痛い)
でも、もしかしたら蜜希さんにそれ以上の痛みを負わせていたかもしれない。
俺は妄想で膨らむ罪悪感に奥歯を噛み締めた。
ポン、と蜜希さんの手が肩に触れる。
「大丈夫だよ。暁月くんは何もしてない」
「は……蜜希さ――」
「だからさ、そんなに自分を責めた顔しないでよ」
「あれは事故みたいなもんだったんだし」と蜜希さんが言う。
その間も、ぽんぽんと優しく頭を撫でられる。
まるで子供をあやすような優しい手つきに、俺は詰めていた息を静かに吐き出した。
温かい手は、あの時と同じ。
「……蜜希さん」
「ん?」
「なんで、オメガだって言ってくれなかったんですか」
俺は心がきゅうっと音を立てるのを聞いた。
しかし、今更撤回することは出来なかった。
「……昨日も言ったでしょ」
「はい。でも、あれは発情期中の話で、蜜希さんも朦朧としてたじゃないですか」
「後半は暁月くんよりしっかりしてたと思うけど?」
「うっ」
俺は呻く。図星だった。
「……それに関しては、ノーコメントで」と告げれば、「何でさ」と笑われる。
その笑顔はいつもと変わらない、優しいもので。
(ああ、やっぱり)
……知りたいな。
全部、蜜希さんのちゃんとした言葉で聞きたい。
じっと蜜希さんを見ていれば、再び頭を撫でられる。
蜜希さんがふわりと微笑んだ。
花がいくつか飛んでいる。
「うーん、そうだなぁ。その話をするにはちょっと長くなるんだけど、それでもいい?」
「はい」
「そう。それじゃあ、二階に行こうか」
――二階で、落ち着いて話をしよう。
蜜希さんに誘われるがまま、俺たちは二階に向かった。
本のある部屋と向かいにある、狭い部屋。
暑い室内にエアコンをつけて、蜜希さんが持ってきた冷たいお茶のペットボトルを二本置く。
「午後から仕事でしょ? ご飯食べながら聞いてていいよ」と言われたが、俺は丁寧に首を横に振った。
「蜜希さんの話はちゃんと聞きたいです」
「なぁに、それ」
くすくすと蜜希さんが笑う。
その笑顔に、俺はつい目が釘付けになってしまう。
「いいけど、倒れないでね」と言われ、俺は強く頷いた。
蜜希さんは座布団に座ると、お茶を一口飲んだ。
白い喉を小さな汗が伝うのが、自棄に目につく。
「言わなかった理由は簡単に言えば二つかな。一つは昨日も言った、『暁月くんがオメガが苦手だったから』」
「もう一つは?」
「言う必要がなかったから、かなぁ」
言う必要がなかった?
俺は首を傾げた。
蜜希さんは小さく笑うと、「まあ、気づかないよね」と笑う。
「さっき、暁月くんは僕を噛んでいないかすごく心配してたけど、僕は噛まれても平気なんだ」
「平気って……! おかしいじゃないですか! 俺はアルファで、蜜希さんはオメガですよ!? 意図しない番関係だって――」
「普通なら、ね」
ドクン。
心臓が嫌な音を立てる。
俺は散らばったピースが頭の中でハマって行くのを感じた。
同時に、言葉に出来ない焦燥感が全身を駆け抜ける。
「暁月くんも気づいてるんじゃない? って。気づかない方がおかしいよね」
心音が嫌に大きく響く。
耳元に心臓があるみたいだ。
それなのに、蜜希さんの声は鮮明に耳に入って来るんだから、逃げられない。
「隠してるわけじゃなかったんだ。ただ……いうと結構、面倒でさ。あの時は一晩だけのつもりだったし、まさかこうなるとは思ってなかったから」
「ぁ……」
喉の奥に声が張り付く。
(……待って)
待ってくれ。
頼む。
その先を、言わないでくれ。
「ここに住んでたのは僕だよ。そして此処は僕の部屋。向かいは――僕の、番の部屋だったんだ」
ドクン。
心臓が音を止めた。
蜜希さんの瞳が俺を見る。真っすぐ。曇りのない瞳で。
「つ、がい……」
「うん。僕は、番のいるオメガなんだよ」
蜜希さんがうなじに手を当てた。
その顔は、まるで慈しむようで。
(あ、ダメだ。これ)
俺の心の中で何かが音を立てて崩れていく。
蜜希さんに大切な人がいることは知っていたし、わかっていた。
けれど、それが魂を分け合った番だなんて。そんなの。
(勝てるわけが、ない)
「だから、安心して。暁月くん。君が何をしても、迷惑をかける気はないよ」
パリンと、何かが割れる音がした。
心臓が削られるように痛む。
(ああ、本当に――)
なんでそんな綺麗な顔で笑うんですか。
俺は、蜜希さんの眼中にすら入っていなかったらしい。
自覚して間もなく、崩れ落ちた未熟な恋は、真実の刃にあっさりと刈り取られてしまった。
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