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二章 新しい自分
11-3 本能と葛藤
しおりを挟む信じられない。……信じたくない。
俺は目の前の光景から逃げるように目を閉じる。
しかし、どう抗っても、目の前の光景は変わってはくれない。
横たわった蜜希さんは、一言で言えば官能的だった。
白い四肢が丸められ、その奥に双丘が僅かに見える。足には覚えのある液体が伝い、爪先から上がっていくと色濃く残る欲の痕。
「なんで、ここにいるのさ……っ」
ブランケットを引き寄せながら、蜜希さんは思いっきり眉を寄せた。
警戒した声色は、震えている。
「なんでって……普通に心配で来たんです。風邪ひいたって言うから。……でも、まさか、オメガの発情期だとは思いませんでした」
俺は喉の奥が焼けるような痛みを覚えた。
蜜希さんの元へと近づけば、「来るな!」と声を張り上げられる。
傷を負った獣のような表情だった。
「……なんで、言ってくれなかったんですか」
「は? 『俺はオメガだ』って? 言えるわけないでしょ。君、オメガの事避けてたもん」
「それは――っ!」
そう、だけど。
俺は言葉を続けることが出来なかった。
以前、蜜希さんに自身の家族の話をしたことがある。
あの時、蜜希さんは静かに頷きながら、俺に「頑張ったんだね」って言ってくれた。
俺はそれが嬉しくて――――だから、蜜希さんが何を思いながら聞いていたのか、俺は想像もしなかった。
蜜希さんの顔が見られない。
俯き、拳を強く握る。
いろいろ聞きたいことはあるのに、本能と理性で頭の中はぐちゃぐちゃだ。――何より。
(蜜希さんのこんな姿、誰にも見られてなくてよかった、って思ってるなんて)
言えない。……言えるわけがない。
「はぁ……も……こんなはずじゃなかったのにな……っ」
「っ」
熱っぽい蜜希さんの吐息に、肩が揺れる。
訝し気な視線が俺を見る。
どうして早く出て行かないのかと、訴えているようだった。
「っ、も、いいよ。大丈夫。帰っていいから」
「でもっ」
「大丈夫だって。はぁ……っ、暁月くんも、知り合いのこんな姿っ、見たくないでしょ?」
「僕も、羞恥心くらいあるんだよ」と息を切らしながら笑う。
弱弱しい姿に、ごくりと生唾を飲み込む。
ゆっくりと三日月形になっていた目が開かれる。
蜜色の瞳と目が合って――心臓が大きく跳ねた。
「っ、はっ、!」
「ちょっ、え、なんでっ」
ドックン、ドックン。
心臓が暴れだす。痛いくらい、強く。
蹲る俺に、蜜希さんの焦った声が響いた。
(ま、ずい……っ)
ぶわりと広がる、アルファのフェロモン。
それが自分のだと理解するのに、そう時間はかからなかった。
俺は自分の口元を抑える。
(早く、はやく、どこかに……!)
このままじゃ、蜜希さんを襲いかねない。
彼を傷つけるなんて、絶対に許されることじゃない。
「あ、暁月くん、だ、大丈夫?」
「は、い……っ」
蜜希さんの声に、辛うじて返答をする。
その間も、頭の中では邪な光景が何度も浮かんでは消えていく。
下半身がズキズキと痛んだ。
それでも体はこの場を動こうとしない。
(ここでもやっぱり、邪魔をするのか)
――アルファって性は。
オメガを前にしたアルファの脆さは、誰よりも知っているつもりだった。
それなのに、蓋を開ければこの様だ。何とも笑えない話じゃないか。
「暁月くん、動ける?」
「っ、は、い」
「ごめんね、油断してた。まさか俺のフェロモンが君にこんなに効くなんて……っ」
(フェロモンが、効く?)
彼は何を言っているのか。
よくわからない。
ただ、甘い匂いと背中に触れる蜜希さんの温かい手の体温が、欲しくてたまらない。
「僕は……だから……君にも……」
(聞こえない……聞こえないですよ、蜜希さん)
――もっと近くで、しゃべって。
「っ、ちょ、暁月くん、なにして――!?」
「は、蜜希さん、こえ、きこえない、です……」
蜜希さんの後頭部に手を回し、顔を引き寄せる。
蜜希さんの身体が強張る。
彼の白いうなじが目の端に入るが、強引に視線を逸らした。
「ちかい、ちかいよ、暁月くんっ」
「す、みません……っ」
「俺だって、余裕あるわけじゃ、ないんだからね?」
わかってる。
発情期で苦しんでいるのは蜜希さんの方だ。
わかっている、けど。
フー、フー、と浅い呼吸を繰り返す。
その度に蜜希さんの――オメガのフェロモンが全身を巡っていく幸福感に、全身が喜ぶ。
(蜜希さんのからだが、俺の腕の中に……)
ああ、今すぐ嚙みたい。
噛んで、俺のモノにして、彼を、オメガを俺の手で――――。
「っ、暁月くん、だめ。だめだよ。落ち着いて」
「おち、ついてます」
「落ち着いてないよ。大丈夫、俺は大丈夫だから。ほら、一旦離れて?」
ぐっと蜜希さんの腕が俺を押し退ける。
強い力、だったと思う。
「逃げないで、蜜希さん」
しかし、俺は彼の力を上回る強さで、蜜希さんを引き寄せた。
強い力で抱え直し、その勢いで床に寝転がる。
彼の熱が、香りが、腕の中に戻って来たことに、心底安堵を覚えた。
「ん……蜜希さんの肌、きもちい……」
「っ、暁月くん、触るのやめ――」
「だいじょうぶです、だいじょうぶ」
「なにが、っ」
蜜希さんの声がぼんやりとした頭に響く。
そんな中、撫でた蜜希さんの足の素肌の感触に、俺は心が満たされていくのを感じていた。
「っ、暁月くん、手っ」
「だいじょうぶ、おそわないです。だいじょうぶ」
「だからっ、さっきから大丈夫じゃないって、っ!」
蜜希さんが体を捩る。
俺は「だめ。こっち来て」と彼の身体を引き寄せた。
(触れたところが気持ちいい……)
もっと、もっと彼の身体を触りたくなる。
でも、それは許されないことだから。
俺は必死に本能と戦っていた。
正直、どれだけそうしていたのかわからない。
ただ俺は、蜜希さんの体温を手放したくなくて必死だった。
「ごめんね、暁月くん」
不意に、蜜希さんの呟くような声が聞こえた。
俺は沈みかけていた意識が戻る。
ゆっくりと視線を下げれば、蜜希さんが俺を見上げていた。
(……なんで)
――なんで、そんな顔をしてるんだ。
心臓が嫌な音を立てる。
自分のしたことが今になって頭を過り、息が出来なくなりそうだった。
「なにが、ですか」
「何も言ってなくて、ごめん。こんなことになって、暁月くんに迷惑かけて、ごめんね」
震える声で、彼は言う。
俺は、少しだけ思考が冷静になっていくのを感じる。
(……ああ、そうだった)
自分は蜜希さんがオメガだということを、秘密にされていた。
そして彼をベータだと思い込んでいた俺は今、彼のフェロモンに惑わされているのだろう。
(……蜜希さんは気づいていたのか?)
もし気付いていたのなら、俺はまんまと彼の罠にハマったことになる。
でも、そんなこと今はどうでもよかった。
「そのっ、気づいてると思うけど……俺、いろいろあって――」
「その話、今聞かないと駄目ですか?」
俺の言葉に、蜜希さんが小さく声を上げる。
俺は蜜希さんを抱き締めた。
きついフェロモンに一瞬本能がぐらりと揺れたが、何とか踏ん張る。
「確かに、秘密にされていたことは悲しいし、悔しい」
信用されていなかったのだと、思ってしまう。
――でも、それよりもこの時間を取り上げられるのではないかという恐怖の方が、今の俺には大きかった。
「暁月く――」
「でも今は、……今だけは、俺だけで良いでしょ」
蜜希さんが息を飲む。
俺は何も言わない彼に、少しだけ安堵していた。
……何となく、わかっていたのだ。
手つかずの本の部屋。
二個ずつ揃えられた食器類。
蜜希さんの趣味とは思えない置物。
蜜希さんの話に度々出て来る――“二人目”の存在。
そんなの、察しない方がおかしい。
(でも)
――今は、何も聞きたくない。
「蜜希さん、俺の、作務衣服のポケットから、抑制剤、だして」
「えっ?」
「緊急用の。一応、持ち歩いてる」
俺は蜜希さんのもの言いたげな目を知らないふりして、そう告げる。
こういうことがあっても万一が無いように、常日頃持ち歩いていたのだ。
(まさか、蜜希さん相手に使うとは思ってもなかったけど)
蜜希さんの手がポケットを弄る。
その感触すら情欲を掻き立てるには十分で。
俺は自身の腕を噛み、理性の手綱をしっかりと握り直した。
「これ?」
「ん。……ありがと」
敬語を使う余裕なんて、もうなかった。
俺は蜜希さんから注射器を受け取り、震える手でキャップを外す。
鋭利な針を自身の足に突き刺し、中身を打ち込んだ。
強い薬だ。
抑制剤よりも早く効くし、その分落ちるのも早い。
俺は注射器を放り出し、蜜希さんを抱き締める。
「あかつきっ、くっ、くるし……」
「悪いと思ってるなら、少しの間、このまま――」
ぐわっと眠気が襲い来る。
思った以上に早い効き目に、俺は安堵と少しの心残りを感じる。
(もっと、この時間を満喫したかった)
でもそんなことをすれば、自分はいずれ蜜希さんを傷つけてしまう。それだけは嫌だった。
意識が遠くなる。
蜜希さんの焦った顔が見える。
「暁月くんっ」と必死そうに俺の名前を呼ぶ彼に、言葉にできない充足感が胸を満たす。
眠る前に、自分の名前を呼んでくれる。
そのことがこんなにも嬉しいことだなんて思ってもいなかった。
俺は蜜希さんの頬を撫でて、意識を手放した。
――夢の中では、蜜希さんの謝る声がずっと響いていた。
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