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二章 新しい自分
12-3 救いと恋慕
しおりを挟む朝陽が突撃してきてから数時間後。
俺はタカさんの買い出しを手伝うため、市場に来ていた。
朝市だと言って盛り上がる街の人たちを横目に、俺はタカさんの荷物持ちとして待機している。
魚屋の店主と値切りの争いをしているタカさんを横目に、俺は小さくため息を吐いた。
心に宿るモヤモヤは、今朝朝陽が残して行ったもの。
『意気地なしが』
吐き捨てるように言われた言葉が、未だに刺さって抜けない。
お陰でずっと蜜希さんとのことがグルグルと頭の中を回っている。
『兄貴はな、気がかりなことがあると周りにあるもん全部撫ではじめんだよ』
朝陽はそう言っていた。
そんな癖があるなんて知らなかった。
(ていうことは、俺の事を気に掛けてくれてるってことだよな……?)
朝陽の文句に意識が全部持っていかれていたけど、よく考えればそう捉えることもできる。
俺はじわじわと込み上げる嬉しさを感じた。
蜜希さんが自分の事を考えてくれて嬉しいのに、素直に喜べない現状。
蜜希さんの事を考えるだけで気持ちが天国に行ったり、地獄に行ったり、大忙しだ。
「……くん――凛くん」
肩を叩かれ、俺はハッとする。
「す、すみません、タカさん。ぼーっとしてしまって」
「ううん、それは大丈夫だけど。それより体調でも悪いの? もしかしてまだ眠かった?」
「あ、いえ。大丈夫です」
タカさんの言葉に、俺は首を振る。
確かにいつもよりもかなり早く起きることにはなったけど、不思議と眠気は無かった。
(むしろ朝陽が乗り込んできて目は冴えてるほう)
なんて言ったら、『朝陽が? 朝早くからごめんね』と謝られそうなので言わない。
謝るなら本人に謝ってほしいものだ。
「それにしても、たくさん買いましたね」
俺は魚の入ったクーラーボックスを覗き込みながら言う。
そこには十匹ほどの魚が入っていた。「何ですか? この魚」と聞けば「アジだよ」と答えが返ってくる。
「アイツ、商売上手だから乗せられちゃってついね」
「へぇ。でも、活きは良さそうですよ」
「お、わかるかい?」
タカさんは嬉しそうにはにかんだ。
顔は蜜希さんには似ていないけれど、彼の持つ雰囲気は蜜希さんにそっくりだ。
「凛くんはフライと焼き、どっちで食べたい?」と問われ、俺はすぐに「フライで」と答えた。
タカさんは「若いねぇ」と笑ってくれ、そのまま今日の献立を考え始める。
その横顔を見つつ、俺は少し安堵していた。
蜜希さんに似た雰囲気で「帰れ」なんて言われたら、立ち直れなくなるところだった。
魚の他にも、たくさんの野菜や米、酒なんかを車の荷台に乗せた俺は、助手席に乗り込んだ。
軽トラックに乗るようになったのは、此処に来てからだ。
最初は車なのに狭い空間に心底驚いていたが、荷物を運ぶのには便利だと今では思う。
「凛くん、蜜希と喧嘩でもした?」
ぼうっと外の景色を見ていると、不意にタカさんが問いかけて来る。
俺は一瞬動きが止まり、そしてすぐに「えっ」と声を漏らした。
冷や汗が一気に背中から吹き出す。
「な、なんでですか」
「うーん? そりゃあ、見ていればわかるっていうか」
「あ、責めてるわけじゃないから安心してね」とタカさんが言う。
しかし、安心できる要素なんて一切なかった。
俺は早足になって行く心臓を抑えながら、「えっと……」と言葉を探す。
何とか誤魔化そうと言葉を探したが、見つからなかった。
頷くことも出来ずにいれば、タカさんが柔らかい声で話し始める。
「僕がご飯をお願いした日からだよね? あの後、凛くんもご飯食べに来なかったし。僕、一応待ってたんだけどなぁ」
「あっ。す、すみません」
「いや、怒ってないけどね?」
タカさんは朗らかに笑う。
その横顔に彼の“怒っていない”と言う言葉が本当であることを、遅ればせながら理解した。
同時に、そんな優しい人の好意を無下にしてしまったことに、申し訳なさを感じる。
肩を落とし、俯く。
タカさんの運転する車はいつも通り街の中を走っていた。
漂う雰囲気は、意外と重くない。
「それにしても、あの蜜希と喧嘩かぁ。凛くんやるねぇ」
「えっ、と。実は喧嘩じゃなくて……」
「違うの?」
違う、と思う。
俺はぎこちなく頷く。
自分でも今の状況がどういうことなのか、よくわかっていない。
ただ、蜜希さんを避けているのは確かだ。
それが良いことじゃないことも、わかっているつもりである。
「そっか」とタカさんは呟いた。
「でも、仲直りはしたいんだろう?」
「出来れば……でも、どうしたらいいかわからない、んです」
タカさんは静かに頷いてくれた。
(……蜜希さんもあの時、同じように聞いてくれたな)
俺が家族について話す時。
突然語り出してびっくりしただろうに、蜜希さんは嫌な顔せずに聞いてくれた。
それはきっと、蜜希さん自身が両親にしてもらってきたことなのだろう。今の俺のように。
「蜜希さんは悪くないんです。ただ俺が、勝手に逃げているだけで……」
俺は蜜希さんとのことを思い出す。
番がいると微笑む蜜希さんは、まるで俺の知らない蜜希さんだった。
「あの、タカさん。蜜希さんの番の方ってどんな人だったんですか?」
「えっ?」
突然の問いかけに、驚くタカさん。
「凛くん、知ってたんだ」と呟く彼に「はい」と頷く。
「それは、蜜希から? それとも噂で?」
「蜜希さん本人から聞きました。……昼ご飯を持って行った翌日に」
「そっか」
タカさんはそれ以上何も聞いてこなかった。
彼の言う“噂”が発端だったらどうしてたんだろう、とか。
朝陽から聞いてたらどうしてたんだろう、とか。
そんな現実逃避をしつつ、俺はタカさんの言葉を待った。
「……僕が言うのもなんだけどさ。蜜希はすごく優しい子だろう? でもね、あの子がああいう風になったのは、大人になってからなんだ」
「えっ」
「凛くんは知らないと思うけど。学生の頃の蜜希はさ、かなりやんちゃでね」
「蜜希さんがですか!?」
俺は驚きに声を上げる。
半分腰が上がり、頭を天板にごつりとぶつけたくらいだ。
「びっくりだよね」とタカさんが笑う。
「先生も俺たち家族も手を焼くほどでねぇ、よく三者面談に呼び出されたよ」
軽快に声を上げるタカさん。
(三者面談って……)
結構笑い事じゃないと思うんだが。
「あの子、オメガだろう? 都会じゃどうだかわからないけどさ、こんな田舎でオメガなんて蜜希くらいのものだったよ」
「えっ」
「知った時は、そりゃあ驚いたさ。俺も妻も、両方ベータだからね。でも、それより周りの人間の変わりようの方が凄かった」
タカさんは当時の事を思い出しているのか、悔しそうに歯噛みする。
「ベータの両親からオメガが生まれるなんておかしいって……心無いことを言われたりもしたよ」
「なっ……!?」
「俺たち夫婦だけじゃない。蜜希もいろいろ言われたみたいでね。……その点は、蜜希には悪いことしたって、今でも思うよ」
タカさんが目を伏せる。
俺は気持ちが先行して、前に乗り出した。
「そんなの、タカさん達のせいじゃ……!」
「……うん、そうだよね。分かってるんだけどさ。でもやっぱり、もうちょっと上手くやっていればとも思わなくないんだ」
タカさんは罪悪感を背負った顔で、ハンドルを切る。
俺は振動に身を任せながら、奥歯を噛み締めた。
(第二性なんて、遺伝子が残っていれば誰だってそうなる可能性があるのに……!)
どうしてそんなことを知りもせず、人を嗤うことが出来るのか。
俺には甚だ疑問でしかない。
知識を持たない容赦のない言葉と、視線。
それはどれだけ痛く、つらかったのか。
アルファである俺にはきっと、一生わからないんだろう。
でも、わからないままでいたくないと、俺は思う。
「蜜希がどんなことを言われて、どんなことを聞いて、どんなことをされたのか、俺たちは全部知ってるわけじゃないよ。蜜希の反抗期が目に見えてきた時には、『やっぱり来ちゃったか』って思ったくらい」
「そう、なんですか」
「まあでも、夜遊びはするわ、喧嘩はするわで大変だったんだよ」
「け、喧嘩!?」
「うん。傷も沢山付けてきてね。危ないからって俺がプレゼントしたチョーカーも『ダサい。つけたくない』って引き千切るし、毎朝強引に薬を飲ませないと飲んでくれないくらいでね」
タカさんは泣きそうになりながら話を続ける。
……どうやら愛息子にプレゼントを引き千切られたのが、結構なトラウマになっているらしい。
俺はつい同情してしまった。
今の穏やかな蜜希さんからは考えられないけど、父親であるタカさんが言うならそうなのだろう。
俺は不良姿の蜜希さんを想像する。
ピアスを開け、頬には絆創膏。
靴の踵を踏みつぶし、だらしなく制服を着る蜜希さん。
(……なんて、いうか)
それはそれで似合っている、と思ってしまったことは、自分だけの秘密にしておこう。
「手を焼いて、けれどどうしようもなくて。いっそのこと都内に引っ越しちゃおうかって話も出てた時。蜜希の様子が徐々に落ち着いてきているのに気が付いたんだ」
「え?」
「高校二年生だったかな。『今までごめん』って謝って来て。あの時はさすがの俺たちもびっくりしたよ」
ケラケラと声を上げて笑うタカさんに、俺は何となく嫌な予感がしていた。
「その、きっかけって……」
「うん。あの子の番の子だよ」
タカさんは懐かしそうな顔で頷く。
当時の事を思い出しているんだろう。
優しい目で遠くを見ていた。まるで自分の息子を見つめる親の様で。
俺は垣間見える親密さに、黒い感情が沸き上がるのを感じた。
――嫉妬だ。
顔も名前も知らない相手に、無謀だと思う。
「彼は本当に人懐っこい子でね。蜜希も最初は邪険にしてたみたいだけど、どんどん絆されて行って」
「いつの間にか楽しそうにしているのを見るのが、日課になってたよ」とタカさんは続ける。
俺は耳を塞ぎたくなるのを必死に堪えた。
自分で聞いた手前、今更引くに引けなかったのもある。
「凛くんは知ってるかな? あそこの、ショッピングモールの近くにある喫茶店」
「え、あぁ……はい。蜜希さんに連れて行ってもらいました」
「彼はそこのご子息だったんだ。時々お店も手伝っててね。俺達もたまに行くけど……蜜希は今でもよく行ってるみたい」
俺は今度は内臓がきゅうっと締め付けられるのを感じた。
珈琲の苦味が口の中に蘇った気がして、眉を寄せる。
(……ああ、そうか。だから)
あの時、蜜希さんはあんな顔をしていたのか。
優しい、どこか愛おしいものを見るような目。
――それが全部、“彼”を思ってのものだったと俺は今になって漸く理解した。
(デートだなんて舞い上がって……馬鹿みたいだな)
俺は拳を握りしめる。
自分だけが絵空事をなぞっていたのだと、事実を突き付けられたような気がした。
「彼には俺も妻も感謝してるんだ。だから、蜜希に『番にしたい人が出来た』って彼を紹介された時は、泣いて喜んだよ」
俺は俯く。
もう相槌を打つことも出来なかった。
しばらくして、フロントガラスに旅館の姿が見えて来る。
車が止まり、俺は荷物を下ろし始めた。
その間も、心臓はズキズキと痛みを発していて、俺は早く終われと願っていた。
「手伝ってくれてありがとうね」とタカさんが笑う。
それに俺はなんて返したのか、俺は覚えていない。
ただ早く、一人になりたかった。
足早に離れに向かう。
バンッと扉を閉めて、俺は玄関に蹲った。
「……最低だ、俺」
軽薄な自分の声が響く。
自分の腕に爪を立て、自身に痛みを与える。
そうでもしないと、足元が崩れていきそうだった。
(こんなことなら、知らなければよかった)
そうしたら蜜希さんを好きな気持ちだけ抱えて、いつか諦めることができたかもしれないのに。
どこまでも自分勝手な思考回路に、うんざりする。
何より、一瞬でも蜜希さんの番の人が悪い奴ならいいって思っていた自分が、ひどく汚いもののように思えて。
こんな幼稚な自分を蜜希さんに見せることにならなくてよかったと、心底安堵してしまった。
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